黒の祭壇

黒の祭壇

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Emptiness is conceived - 5(完結)

気がつけば、大通りはとっくに過ぎて、すっかり真っ暗になった町を二人だけで歩いていた。
 まるで悪いことをした子どもが無理矢理親に家に連れて行かれるところのようだ。
 もう10分近くも、男は何も言わず、エドワードの方も見ずひたすら前へと歩き続ける。ずっと掴まれ続けた右手は、鋼だから痛くはないけれど、なんとなく疲れた。
 文句を言い続けるのにも飽きて、エドワードは抗うのをやめる。
「大佐……、逃げないから、止まれよ」
 数分間の沈黙の後に紡ぎ出された言葉には結構な信憑性があったようで、男はそこで初めて立ち止まって、振り返った。
 手を握ったまま。
「……すまん」
 男は初めて謝る。エドワードは思わず目を見開いた。
 やっと手が離されて、ぱたん、と腕が重力に従い、落ちる。
 男を見上げるのはなんだか自分の身長を再認識するようで嫌なのだが。
 月明かりに浮かぶ奴の顔は、なんだかそういう気分を起こさせないほど、冷えていた。気まずそうな、恥ずかしそうな大佐。
 冷たい月を頭上に背負った闇を纏う男は、本来ならば一番氷に近いはずなのに、なぜか暖かく感じた。

「たいさ?」
「ああ……ちょっと、君があまりにもいつもと違う格好だから」
 そう言って、大佐は顔に手を当てる。
「ついつい本気で口説きそうになった。駄目だな」
「な……、に、それ」
 喉から絞り出すような声しか出ず、思考は空白。
 いつも余裕で、人をからかって、すべて私の掌の上然としている男が、まるで若者みたいに余裕をなくして、焦った顔をするから。
「浮かれてるんだな。こんな遠い場所で、君と二人きりで、デートのまねごとみたいなことして、夜道を歩いてるからだ。ついつい頭が」
「沸いてんだろ、えろ大佐」
 さっくり切り捨てて大佐の横をさっさと通り過ぎた。
 じゃないと、この茹で上がった顔を見られて何を誤解されるかわかりやしない。さっきから、いや、ここで出会ってからというものこの男は変だ。今までも妙な愛を囁かれてはいたけれど、それは冗談の中に紛れていて、こちらをこんなに動揺させたり放心させたりするものではなかった。なのに、なんか今は――――容赦がない。
 走って逃げたいが、逃げない、と言った手前それもできず。
 背後に大佐の視線を感じながらも早足で歩くだけ。
 そしてそんなエドワードの後をゆっくりと大佐がついてきているのが分かる。
(ひょっとして、同じ方向かよ)

「……大佐、宿何処?」
「エスペラント」
 一緒だ。
「ついてねぇ……」
「君ね、そうは言うけどシルビアに場所を教えて貰ってない状態で私をあんまり毛嫌いするのもどうかと思うよ」
 痛いところをぐさぐさと抉る台詞が背中にどんどん飛んでくる。
「君は、なんでシルビアがサイゴンの場所を教えてくれないか分かるか?」
「……わかんねえ」
 ああ、やっぱりこいつの言葉は痛い。立ち止まってしまったのは、認めたくないが、敗北を悟ったからだ。
「君は女心が分からない奴だな。そこまで女性になりきっているのに」
「悪かったな! あんたみたいにたらしじゃねえから分かるかよ!」
 女心がわからない、などと男に言われるのもかなりご立腹。一応、なんですか、女心ってのは俺の方がわかるんじゃないか、普通。性別的に。
 だが実際自分の方が分かってないのは確かで。
 やっぱり女性経験豊富な大佐と、ウィンリィ以外に女性とあんまり接触のない自分では、大佐の方が女性心理に詳しくなるのだろうか。
 立ち止まった俺の真後ろまでやってきた大佐の気配に首を向けると、さら、とポニーテールの髪の毛を弄られた。
 楽しそうにそんな俺の髪を弄ぶ大佐を見ていると、もうなんだかどうでもいい気持ちになってくる。
 髪の毛ぐらい、いいか……
 こうして、大佐に髪を遊ばれたり、見た目だけは誤魔化してみても、やっぱり女性の気持ちはよく分からない。
 普通の女性のように着飾りたいという気持ちが自分にあれば違うのかもしれない。だけど旅をしていると女であるということは不利でしかなかった。今回初めて役に立っている気がするが。
 旅先で、どうしても女性でないと入り込めないところや、自分の顔が割れているときなんかは女性の格好をすることもあった。そしてその時にいつも痛感するのは女性であるというだけで、男達はみなエドワードを可愛がるということ。それを嬉しいと思えないのは多分変わっているんだろう。
 だって、戦場では、女は不利だ。そして中尉はそれをよく分かっているから常人の数倍の努力をしている。
 面倒くさいさらしを取って、身体のラインも気にせず薄い服を着て、走り回ることが出来れば楽なのかもしれない。だけどそれは……この男には、見られたくなかった。
 だって、女性大好きのこの男は、絶対最後には中尉をかばう。女の傷と、男の傷は違う。本人がどんなにそんな差別をするなと叫んでも、やっぱり男は女性を守る物なのだ。
 エドワードが女だと知れれば、この男は俺を守ろうとするだろう。
 それが……とても、嫌だった。
 だけど、もう少し女性であろうとする努力をしていれば、今回の件だってあっさり事が進んでいるのかもしれない。
 正直エドワードにはこんな状態になっても、なぜシルビアがあんなことをいったのか、さっぱり理解できていないのだ。
「なあ、大佐、俺ってさ、女として失格だよな、女心が分からないってのは」
 もう少し彼女の気持ちが理解できれば、こんなに揉めてはいないはずなのに。
 なあ、と見上げて、そこにあった男の表情に己が言った台詞がいかにアホだったかに気がついた。

「―――――――まちがえた!」
 慌てて一歩下がって首を振るが、男はどう考えても固まっていて。
「……何言ってるんだね君は。いくらそんな格好だからってそこまで頑張らなくてもいいだろう」
「あ、う……そうですね」
 全くその通り。女心を理解とか、やっぱり似合わないこと考えるんじゃなかった。
 がっくり首を落とす俺に一体何を考えたのか、大佐は唇に手を当てて考え込む。
「ふむ……まあ君が女心を理解できない理由は、性別だけの問題じゃないよ」
「え、そうなんか?」
「そうだね。君は単に恋をしていない。だからだ」
 あまりにも普通に、そして真剣に大佐は歩み寄りながらそんなことを言う。今日一日で何個脳細胞が壊れたかなあ、なんて思う俺はその様を唖然と見つめるだけだった。
「人を好きになれば、女心も分かるかもな」
 男の笑顔は寂しそう。ぴた、とエドワードの頬に手を当てて、それでも微笑んだ。
 触れた掌が冷たい。これだけ冷気を纏った月夜なら当然だ。そこがじんわり自分の熱で暖まっていくのを目を閉じて感じた。

 おとなしくしている自分が信じられない。
 多分この男の仕草があまりにも優しいからだ。まるで愛おしい物に触るようにおそるおそると手を伸ばされると、にゃぁ、と鳴いてみたくなるのは気まぐれか。
 人を好きになる。恋をすると言うこと。
「……ああ、そりゃ、あんたは得意だよな」
 あれほどの浮き名を流した男だ。女心を理解するのなんか、食事をするより、きっと簡単。
「そうでもないよ、私には恋に浮かれる女性の気持ちは分からない。だって私にはそんな幸せな経験はあまりないんだ」
「幸せ」
 目を開けて反芻する。
 幸せな恋。それはきっと自分の母親のような。帰らない人を待ち続けている間も、多分その死の瞬間まで幸せな恋をしていた女。
 たとえ、他人から見てどうであろうとも、彼女はきっと幸せだった。
「あんた、幸せじゃないの?」
 男は、あれだけの女性とつきあい、言い寄られ、遊んでいるのだ。きっと楽しくて幸せなんだとエドワードは信じて疑っていなかった。
 だけど大佐は首を振る。
「……君を好きになるまではそうだったかもね。でも実際、こんなに苦しいなんて知らなかったよ。さっさと諦めてしまえ、と思うのにこうして今君が私に触れられても逃げないというだけで、馬鹿な期待をしてしまうんだ。愚かだと思わないか?」
「………え」
「頬に他人の手が当たっている状態で、目を閉じる物ではないよ鋼の。男は誤解するから」
 そうして大佐は、諦めたように嗤う。頬に当たる手を何故か握り締めたくなった。
 呼吸が止まる。いつもなら速攻で返せる皮肉がでない。やっぱり脳細胞が溶かされて、このままではどんどん馬鹿になる。
「た、大佐、質問」
「ん?」
「ひょっとして、俺口説かれてるの?」
「――――――いや? 別に。私の気持ちを伝えているだけだが」
「……」
 ちょっと頭が漂白されてとても綺麗。
 ああさっきから俺の頭白ばっかり。

 ――――――――――あれで。

 あれだけフェロモン全開で人に迫っておきながら。
「それを口説いてるっていうんじゃねぇのかよ!」
 大佐の両手首を掴んで、ぺい、と自分の顔から離す。このまま放置していたら俺の精神がゲシュタルト崩壊しそうだった。

「……だって。本気で口説けば、君は困るだろう」
「――――――――――」

 ……なんだか泣き出したくなった。
 ああ、……この、男は――――――――――本気なんだ。
 初めて分かった。本気で俺が好きなんだ、この馬鹿上司は。
 じゃあ、あの冗談めかした口説き文句も、食事食事、遊ぼう遊ぼう、の子どもっぽい誘い文句も全部全部、わざと、だったのだ。俺の負担にならないために。
 思えば確かに、うるさいばか、と返したらそこで終わりだった。
 無理強いはなかったし、本気にするのもばかばかしいくらいの気軽な言葉達の連発は、エドワードにとって日常的に拒絶しておけば別に心にも残りはしなかった。
 全身の血液が脳天に集中して、焦げ付きそうになる。
 あんたの嘘は優しすぎるんだよ、馬鹿野郎。
 しらねぇよ、そんなの。困るからって、今充分困ってる。
 本気じゃない口説き文句でも、もう泣き出して逃げたいくらい困ってるのに。
 思わず身を縮めて俯く。こういうぬるま湯みたいな優しさは困る。
 どうするんだ、俺、あんたを騙してる。一番大切なことを何も話してない。なのにそんなに優しくされたら罪の意識に苛まれるじゃないか。
 男はそんなエドワードの頭を軽く撫でて、あやすような声を出す。
「……本気で口説いていいなら、全力でするよ。逃げられる物なら逃げてみたらいい。逃げられるところまで」
「…………」
 息を呑む。
 瞬間、ぞ、と背筋を冷たい物が駆け上がった。
 真綿にくるむようだった声が、最後のところで氷に変わる。優しくしたいのも真実ならば、きっと食らい尽くしたいのも真実なのだ。
 こいつが本気になったら、勝てると思えない。
 大佐の腕が、頬を通り過ぎる。先ほどからお気に入りなのか、纏め上げられた一房に男は又手を当てる。はね除けようと顔を上げた瞬間、男の悪魔が囁いた。
「逃がさないがな」
「ぎゃ――――――――――!」
 悲鳴は本当に反射的。項に、濡れた感触。それが目の前の男の唇だと気がついて、慌てて一歩逃げるまで数秒の時間がかかった。
 怒る以前に理解不能。
 完全に限界を超えた状態で項に手を当て半泣きの俺に、大佐は
「いや、隙があったから」
「なんだそりゃ!格闘技の試合かよ!」
「格闘技……色気がないね、君も」
「てめーにやる色気なんかこの空気一グラムほどもねえよ!」
 油断した。なんだこのセクハラ男。
 う、うなじなんてアルフォンスくらいしか触ったことないのに。
 馬鹿だった、ちょっと真剣な瞳にほだされて真面目におとなしくしていた俺が馬鹿だった。
 さっきとは違う感情で泣きたくなる。大佐はそんな百面相の俺をからかうのか、優しく微笑むと
「明日は、髪をおろしなさい」
「――――――――――なんでだよ!」
「じゃないと、又キスしたくなるから」
「――――――――――!」
「と、いうかするから」
 なに、その悪魔の微笑み。
 本気で、口説いてない、だって…?
 嫌な第六感に震えた。
 駄目、こいつが本気で口説き始めたら、絶対に捕まる。
 この予感だけは男から隠し通さないと、今まで築き上げてきたものが無に帰す。

 ……この男は、俺が女だと知ったらどうするのだろう。
 口説くのをやめるのだろうか、それともよりいっそう励むのか。
 あっさり、興味をなくすのか。
(――――――――――)
 最後の想像にだけ、心臓が痛いと叫んだ。

(続く)