Emptiness is conceived - 8(完結)
「………」
やっと顔を上げた。興味深い言葉に、さきほどまで脳天に集まっていた熱は一瞬で消えた。
弱みは、弱みだと気がついた瞬間から守るしかなくなる。
この男の弱点は多分俺だけじゃない、中尉や中佐、少尉達。彼を慕う人たちは同様に彼に慕われているのだ。
「俺も……なの」
知らなかった。俺も大佐の弱点なのか。
「そうだよ。君は私のアキレス腱だ。幸い誰もそれに気がついていないからいいものの、あの魑魅魍魎の渦巻く軍部内でそれを気取られたら何があるか分からないからね。だからさっきから自重しろと言っている。……弱点なら、切り捨てろよ、と言う言葉は聞かないよ。君も分かってるだろうが、それは出来ない相談だ」
先手を打たれて、開けかけた口を閉じる。まさに言おうと思っていた台詞を取られてしまった。
大佐の言うことも分かるのだ、たしかに自分だってアルフォンスが弱点だとは思うが、だからってそれを捨てられるかと言えばそんなことできるわけもない。
だけど大佐のいうように本当に俺があいつの弱点なんだとして、今までそんなこと一言も言わなかったんだから、突然の事態に頬が赤くなるのはしかたないことなんだと無理矢理納得させる。
「……君が思っているより大人は汚いから」
大佐が見上げる俺の後頭部に手を当てる。なんだか恥ずかしそうに笑った。
「だから、こうして腕の中でじっと男を見上げるのはやめること。いいね?」
突然ぐい、と頭を俯かされて、また胸に顔を埋める羽目になる。
掌を背中に回されて、締め上げられそうなほど抱きしめられれば、さすがに息苦しくなった。
まるで二つのものを一つにしたいみたいに押しつけられても、大佐と俺は別の人間なんだから泥玉や粘土みたいに一つにはなりようがないのに。
「私の忍耐力に感謝したまえよ」
「く、くるしい、くるしいって大佐!」
ぎゅうぎゅうと押しつけられた状態のまま、大佐の額が俺の肩にもたれ掛かってくる。
「………!」
頬に当たる自分以外の人間の髪の感触に意識が遠のきかけた。
「なんなんだよ! 昨日からこんなことばっかりじゃねえかてめえ! 児童淫行罪で逮捕されるぞ!」
「……君、淫行罪の内容分かってないだろう。一回実地で体験してみたらきっと分かるぞ」
大佐の頭が肩に載せられたことで、やっと胸から解放された頭が外に出た。
ぷは、と息をして、すこし整える。暑苦しい服の感触が消えて心地よい。
だが男は引き続き、エドワードを抱き寄せたまま、黙り込んでしまっている。
「……なんなんだよ」
抵抗しようと思ったが、あまりにも静かなその態度に、なんとなく気勢をそがれて肩を落とす。
呼吸は出来るし、抱きしめられているだけなら、特にそこまで嫌ではないのだ。
肩に当たる大佐の髪の毛の感触だけがちょっとぴりぴりするけれど。
「なんか、嫌なことでもあったのか?」
「………」
そんなはずないとは思うが、まるで慰めて欲しいけれど口に出せない意地っ張りな子供が母親に甘える時みたいな、俺が小さい頃よく母さんの腕にすがりついて何も言わずにふくれて泣いていた時を思い出す。
そんな時母親は、いつも小さいエドワードの背中に手をまわして、ぽんぽん、と叩いてくれた。
だから同じようにしてみる。
「大佐」
「………」
返事はないけれど、もう一度背中をあやした。時折この男は寂しそうに俺を見る。それがなぜだか分からないけれど、今の大佐はきっとそんな顔ではないかと思った。
「大佐ってば」
「……」
「たーいーさー」
「……なあ、鋼の」
やっと返事が返ってきたので、ちょっと耳がぴくりとした。
おお、いい感じ。
何も言われず抱きしめられたままだとなんだかこちらまで不安になるので、なんでもいいから声を掛けられたことが嬉しかった。
「……君、胸になに詰めてるんだ?」
瞬時、脳がすべての機能を停止した。
当然、身体の機能もすべて停止。それこそ腕や足だけじゃなく、全身が鋼になったかと思うくらい固まった。
え。
なに、こいつ、いまなんかへんなこといった。
肩に手が置かれて、ゆっくり身体を離される。
―――――あ。
まずい。
脳が復帰してない。
なにか考えなければいけないのに、それができない。ただ本能的にやばいということだけ分かる。だけどそれ以上に到達しようとする回路が動き始めていないのだ。
「………」
だから、声すら出ない。
今、何かをしなければとりかえしのつかないことになる。分かっているけど何をすればいいのか分からなくなった。
脳は真っ白い絵の具をぶちまけられたみたいで、まだそれの除去作業すら始まっておらず。
肩に片手を当てたままの大佐がもう一方の手を自分の胸元に容赦なくぺた、と当てた時点で、始めて脳が少しだけ戻った。
「――――――――――!」
ふよふよと揉まれる感触。
「まるで本物みたいだな、なにを錬成したんだ?」
「………あ」
やっと声が出た。だけど身体は冷凍されて、まだ動けない。
脳を吹き飛ばされそうなほどの強風が、触られた部分から吹いてきた。
その間にも全く悪意のない手は単純な好奇心のみで、人の胸をなで回している。
「すごいな、いくらなんでも人体の一部とはいえ人体錬成できるはずはないから」
「ひゃ、や、なに」
やっとびくりと震える感触が戻ってきた。
だけど意識は戻る端からおかしくなって、それ以上前に進めない。
「なにか別のモノを女性の胸みたいに錬成してるんだろうが」
「う……」
必死で唇を噛みしめる。触られると意識を混乱させる麻薬が放出されるみたいで、エドワードの身体を火傷させるのだ。
ぞくりぞくりと身の内を這い上がるこれは。
続けられたら絶対変な、変な声が――――――――――
「や、だ大佐」
「ほんとうに胸が付いてるみたいだな」
あ、あ、あああ。
男は全くエドワードの状態に気がつかず純粋に感動しながら、人の胸をさっきからずっとずっといろいろ呟きつつ揉んでいる。
「多分元は豚の脂肪かなんかなんだろうと思うとロマンがないがな――」
「………ぅ」
「私の方が女性の胸には詳しいはずなのにこんなに完璧に子供に錬成されるとむかつくな」
「っ――――――――――、……!」
白く灼かれた頭と、自由が利かなくなりそうな身体。
脳は既に復帰したが違う意味で動けない。
じわじわと身の内を苛む得体の知れない感覚が、エドワードにもう、立っていられないと悲鳴を伝えてくる。
「ちょっと、ま」
「乳線まで錬成する必要はないしな、脂肪10割で事足りるわけで、外から見ただけではわからないだろうな」
全く容赦のない動きで錬成するならあれとこれと、というつぶやきが耳に入る。
目眩と痺れ。
目の前が点滅して、電流が走る。膝ががくんと落ちた。
「なあ、鋼の。これどうやってくっつけてるんだ? 本格的だな」
力を失いかけてそれでも留まっている俺のことなど全く分かっていないようだった。大佐の頭は完全に錬金術師状態で、今のこの胸の成分表しか頭にあるまい。
「い……」
「い? イナメントか?」
大佐は阿呆だ。そりゃ接着剤。
「いいかげんにしろ――――――――――!」
それは、故意ではなく本当に。
腰が抜けてへたり込んでしまった瞬間に、両手を地面に叩きつける。
何を錬成しようとしたのか、全く記憶にない。
だけど本能的に「大佐をこの場所からどけるもの」だけを考えた気がする。
一瞬の錬成光の後、その結果背後何が起こったかなんてもう見たくもなくて、そのまま踵を返して走り去った。
(続く)
