黒の祭壇

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足長おじさんの憂鬱new

 

 

 その郵便が来るのは月に一度の楽しみだった。
「姉さん姉さん来たよ!」
 食事の用意をしていたエドワードの所に、弟がその小さい手には不似合いの、大きな袋を抱えて家に入ってくる。
 振り返ったエドワードは台から降りると、早速開封作業に入っているその郵便物をわくわくとのぞき込んだ。
「アリエスの羅針盤! すげえ! 言ってた奴じゃん!」
 出てきた本の表紙を見て息を飲むと、アルフォンスは嬉しそうに本を手にして踊る。
「やったやった! ありがとうあしながおじさん!」
 そう言って、アルフォンスはどこだか分からない方向を向き、おじぎをするのでなんとなくエドワードも習うように虚空に向かって礼をした。
「姉さん、手紙が入ってるよ。いつものだ」
「読む読む」
 本の隙間に挟んである一通の封筒。
 おじさんが送ってくれる本には、いつも必ずタイプ打ちの手紙が挟んである。
 いつも同じ灰色の上品そうな封筒は、触っただけでも生地が繊細で、兄弟は自分たちのあしながおじさんがかなりのお金持ちであると察していた。
 まあ金持ちではないとこんなに毎月高価な錬金術書など送ってこられないのだが。
 手紙を開き、二人でのぞき込んで読んでみる。
 そこには、先月兄弟が希望した本を送る、ということ。元気にやっているか、又欲しい本があれば手紙をくれ、と書いてある。そして先月、兄弟が書いた錬金術の理論に対する見解が書いてあった。
 いつもそっけないけれど、どうやら錬金術師らしいおじさんの理論は兄弟を唸らせるものばっかりだ。
「おじさんってどういう人なんだろう。すごい錬金術師だと思うんだけど」
 アルフォンスの呟きにエドワードは頷く。
 数ヶ月前から、エドワード達に毎月本を送ってくれるあしながおじさんは、謎ばかりの人物だった。
「……ねえさん、これ」
 そんないつもの手紙の最後。相手が書いたと思われる小さな一言に、二人は自然沈黙した。


『最近、人体関係の本の希望が多いけれど、医者にでもなるのかい?』


 相手は、軽い冗談や問いかけのつもりなのだろう。
 だが、今、まさに禁忌を犯そうとしている幼い兄弟には、その言葉は、痛切に身を抉る物があった。
「……医者、かあ……」
 本当の事など言えない。師匠の所でも言わなかった。
 二人とも分かっているのだ。これが禁忌であるということぐらい。
 母親を生き返らせるために必要なのだ、と言えば、相手はなんと言うだろうか。
「返事、どうしよう」
 おじさんの手紙に、いつも返事を書いていた。ありがとう、助かります。この理論が気になります。
 相手が書いた些細なことにも全部丁寧に答えていた。だから、この問いかけに返答をしなければ、それは相手も奇妙に思うはずだ。つまり、二人は嘘の返答をしなければならないのだ。
 毎月丁寧に本を送ってきてくれる相手を騙すようで、胸が痛いのは自分だけじゃなくアルフォンスもだろう。だからこんなに二人して言葉が出せずに沈んでいるんだ。
「……嘘は、書きたくない」
「でも」
 エドワードの呟きに、アルフォンスは否定的に顔を上げる。
「だから、正直に書こう。今までありがとう。もう大丈夫です。もう本はいりません。次の子ども達に本をあげてください、って」
「……姉さん」
 手紙を持ったまま愕然と立ち竦むアルフォンスは、姉の言いたい事が分かったらしい。
「決行は、明日だ」
「……そうだね」
 ――そう、明日、俺たちは母さんを取り戻す。
 そしたらもう、人体関係の錬金術書も、いらないのだ。
 子ども達に、希望の本を送ってくれるボランティア団体の「本のあしながおじさん」
 その団体から本を受け取ることのできる条件は、「家族がいないこと」なのだから。
 
 
 
 ――それが数年前。
 エドワードは、セントラルにあるあしながおじさん本部の建物の前に立っていた。
「なあ、俺、おかしくない? 普通に女に見える?」
 隣に立つ、今は鎧のアルフォンスにそわそわしながら尋ねると、弟は心底呆れた息を吐いた。
「見える見える。気にしすぎ」
「だ、だって俺、スカートなんかはいたことないし。なんか短くないかこれ」
 スースーするんだけど、とスカートの裾を押さえると、アルフォンスは今度は首を横に振った。
「兄さん、昔はスカートで走り回ってたじゃない。たった数年ですっかり男化しちゃって」
「仕方ないだろ! 事情が事情だし!」
 叫べば、後ろで一つに結んだリボンが頬にあたり、やっぱりむずむずする。
 なにせ女性の格好をするのは、母さんが死んでから数年ぶりなのだ。
 母を失い、人体錬成をすると決め、国家錬金術師になると決意したときに、女性の名前と性別は捨てた。そちらのほうが、軍の中では都合がいいと思ったからだ。
 過酷な旅をするのに、女では不都合の方が多い。弟は当然心配したが、性別を偽ることすら決意の表れなのだと分かったのか、途中から何も言わなくなった。
 数年間女の格好をしていないのだから、自分が女装している変な子どもに見えないかと心配するのは当然のことだ。そわそわと髪を弄ったり、機械鎧が見えないように足を覆った長めのスカートを触ってみたりする。周囲の通り過ぎる人間が気になってちらりと眺めれば、一人の男性と目が合い、男は慌てて視線を逸らして立ち去った。
「な、なあ、なんかさっきあの男の人俺見てたんだけど」
「あーそりゃそうだろうね」
 どうしてだかアルフォンスの存在が遠い。なんで奴はこんなに落ち着いているのか。
「男に見えてたらやばいよな? 本部には女って言ってるんだし」
「もう、くだらない心配しなくても女に見えるって言ってんじゃん。いいからさっさと行って来てよ。鎧の僕じゃ入れないんだから」
 どん、と背中を鎧の手で押され、エドワードは軽くよろけた。
 じと目でアルフォンスを見るが、弟は涼やかな物だ。
 いってらっしゃーい、と手を振られ、しぶしぶエドワードは本部の建物に向かって歩き出した。
 
 
 
 母を亡くし、途方にくれた俺たちの所に、ある日新聞の広告が目に入った。
 それは、親を亡くした子ども達に、毎月1冊、希望の本を届けてあげるという、ボランティアをやっている団体の広告だった。
 その団体にはあしながおじさん、と呼ばれる匿名のスポンサー達が存在し、子ども達が希望の本があれば、おじさんにお願いすれば届けてくれるという物。
 本を読みたいが、親がおらず、金もなく、不憫な生活を強いられている子ども達に、勉学の楽しみを、という趣旨の団体だった。
 当時、少しでも母さんの錬成のための知識を得たかった俺たちは、その広告の住所に連絡をした。
 簡単な試験とアンケートと電話調査はあったが、めでたく俺たちはその審査に合格し、普通に生きていては得られないであろう高価な錬金術書を毎月購読することができたのだ。
 俺たちに毎月本を送ってくれるあしながおじさんは誰だか分からない。発送元も団体の住所で、俺たちの手紙も団体に送ったのをおじさんに団体が転送するらしい。
 トラブルを防ぐために、お互いの直接の接触や、プライベートを喋るのは禁じられているのだ。
 そのため、俺たちにはおじさんの名前も年齢も性別すら分からなかった。
 だが団体の人が言うには、その子ども達の希望する書籍を提供できそうな相手をカップリングしているようで、どうやら錬金術の本が読みたいという俺たちにあてがわれたのは錬金術師のあしながおじさんだった。
 そして、さすがにあしながおじさんに選ばれるだけあって金持ちなのであろう彼……? は、俺たちに高価な錬金術書を惜しみなく送ってくれた。
 そんな、お世話になった団体に、一方的にさようならを告げる手紙を送り、不義理とも言えるやり方をした俺たちだったが、先日セントラルであしなが本部の団体の建物を発見して、じくじくとしていた後悔の気持ちが復活し始めた。
 いてもたってもいられず、弟と相談の結果、謝罪にいこう、ということになったのだ。
 ピナコばっちゃんから聞いた話では、団体は唐突に接触を打ち切った俺たちのことを、とても気にしていたようだった。二人には、引っ越したと伝えて貰うようにお願いしたけれども、突然のことすぎたため、本当にいい人達に貰われていったのか、と何度も心配する電話があったと聞き、申し訳ないとは思っていても今までなにもしていなかった。
 だが、謝罪すると言っても、あちらには姉と弟の兄弟と言ってあり、そして弟は鎧な上、俺一人で行くしかない。
 そのため数年ぶりに女物の服を買い、びくびくとしている俺に向かって、弟はあっさりとしすぎていて虚しくなる。くそう。
 女は度胸だと息を吸い、どう謝罪するかも考えず、エドワードは本部の扉を開けた。
 個人宅ではなく、さすがボランティア団体だけあって、扉は普通に開かれている。一歩中に入ると綺麗に花の飾ってある受付があり、座っている女性が顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
 爽やかな笑みを浮かべる女性に近寄ると、エドワードは、意を決して唾を飲み込む。
「あ、あの……数年前に、リゼンブールのエルリックという家の兄弟がここにお世話になってたと思うんですけど」
 エドワードの言葉に、お姉さんは初めて眉を顰めた。
「申し訳ないんですが、この団体の制度を利用している子ども達の個人情報は教えられないので……その兄弟がいるかどうかはお教えできません」
「いえ、そうじゃなくて。あの、俺があの時ここにお世話になったエルリックなんですけど、お話が」
「――え?」
 彼女はそこできょとん、と一瞬目を見開き、はっとした表情を見せ、電話を手に取った。
「……少々お待ち下さいね」
 先ほどまでと違う柔らかい笑みで受話器を持つ彼女は、どうやらエドワードに対する猜疑心を解いたらしい。緊張が解け、ほっと息を吐くと、エドワードは受付の机にもたれ掛かった。
 
 
 
「まあ! 本当にエリディアちゃんなの?!」
 通された部屋にいた大柄の女性は、大げさなくらいに頬に手を当て、ぶるんぶるんと肉を揺らせながら近づいてきた。思わずひぃ、と叫びそうになったが、エドワードが足を一歩後ろに踏み出した瞬間には、がっしりと抱きしめられていた。
 六十代くらいだろうか。白髪の目だつ、優しそうな女性だった。ひとしきりその肉厚に揉まれじたばたとしていると、しばらくしてからやっと手を離してもらえる。
 吸い込まれるような灰色の目にじい、と見つめられ、エドワードはいたたまれず、少し視線を逸らした。
「心配したのよ。突然解約を申し出てきたから」
「え、あ……覚えて」
 正直、何人も相手にしている本部だから、たった一家族の兄弟など覚えていないかと思ったのだ。だが女性は首を横に振った。
「今までお世話した子は全員覚えてるわ。あなたたちは、とくに希望してくる本が大人でも解読不可能な本ばかりだったから、やっぱり目だってて。でも本当によかった。元気そうで……」
 またぎゅう、と抱きしめられ、エドワードはちくりと痛む胸に唇を噛む。
 少しは、心配をかけていたかと思ったが、そんなものではなかった。自分たちの想像は甘かった。涙ぐむ女性の姿に、俺たちがあの時、どれだけ人の善意を踏みにじっていたのか痛感して脳髄がきりきりと痛んだ。
「……ごめんなさい」
 素直にそんな言葉が出て、俯く。女性はいいのよ、と言いながら頭を撫でてくれた。
 母親がいたころを思い出し、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「今はどうしてるの? どうして今日はここに?」
「え? あの、それが。今はとりあえず自分たちで生計も立てられるようになって、あ、弟はちょっと用事があって来れないんですけど。それであの時勝手に消えちゃったから、謝りに来たんです」
「まあ、わざわざ。ちょっと見ない間にこんなに綺麗になって。もてるでしょう」
 ふふ、と笑いつつ彼女はエドワードの頬に手を触れた。
 思わずぽかん、と見上げてしまう。
 綺麗? 誰が?
 思わず「女に見えますか」といいそうになるが、怪しいので堪えた。
「……普段こういう格好を余りしてないから、慣れてなくて…」
 スカートがすうすうするんです、といえば、女性は首を傾げた。
「あら、普段はどうしてるの?」
「あ、弟と一緒なんですけど、今ちょっと旅をしてて」
「まさか、子どもだけじゃないわよね?」
「……そ、っ、それはもちろん……!」
 ぎく、とするが咄嗟に嘘をついた。女性はあからさまに胸を撫で下ろし、じくじくとした罪悪感がエドワードを襲う。
「そ、それであの……」
 脳裏に浮かぶのは毎回手紙をくれていた自分たちのあしながおじさん。この団体への謝罪はできたけれど、まだ彼への謝罪はできていない。
 今はもう新しい人相手に同じような事をしているのだろうと思うが、一番親身になってくれて手紙もくれていた相手がどうしているのか、気になって、エドワードは唾を飲み込むと本題を語り出した。
「あの、俺たちの面倒を見てくれてたおじさんは、何か、言ってましたか……?」
「ああ……心配していたわよ。すごく。きちんと返事をくれる子達だったのに、なにがあったのか、って」
「……そ、そう、ですか……」
 あんなに放り出すようにして、一方的に手紙を打ちきってしまった。あれだけ本を貰い、世話になっておきながら。
 胸が痛くて思わず服の胸元をぎゅう、と握るようにすると、エドワードは意を決して顔を上げる。
「あの、謝りたいんですけど……。あ、会うことはできます、か?」
 手紙を出せば、届けてくれるかもしれない。だけど、あれだけ酷い事をした相手には、どうしても直接顔を見て謝りたかった。
 どれだけ自分たちがあの時、あのおじさんに励まされたか。親がいなくて寂しかった俺たちに、錬金術の事と、小さな励ましをくれるあの手紙が、抱きしめて眠りたいくらい嬉しかったか。
 だけど、母さんを取り戻す直前になると、頭の中がそれでいっぱいになってしまって、結局、あれだけよくしてくれた人に、俺たちは酷いことをしたのだ。
 一度だけでいい。直接頭を下げて、あの時の謝罪と、そして感謝を伝えたい。
 己が間違ってしまったからこそ、思うのだ。あの時、あのおじさんに一言でも相談していたら、きっと必死で止めてくれただろう。そうしたら俺たちは、ひょっとしたら――やめていた、だろうか。
「……あしながおじさんと、子どもが会うのは禁止されているのよ。理由は分かってると思うけれど」
「はい。知ってます」
 なにせ、手紙すらタイプ打ち。名前も知らない。お互いが偽名を使い、やりとりは本部が仲介で行う。顔など見てしまっては厳禁だ。それでも、迷惑を掛けるつもりはない。一度会って謝れれば、それでよかった。
 幸い、自分は今この姿で生活していない。どこかで出会おうとも、あちらがこちらに気づくことはないだろう。
 それは言えなかったが、旅に出るからその前に一目だけ、と言えば、女性はそわそわとしていたが、暫くして溜息をついた。
「……貴方はもう、うちの団体の世話になることはないのね? もう、欲しい本は自分で買える?」
「え? は、はい」
「なら、うちに所属している子どもではないから、規則は通用しないわ。相手のおじさんも、もう今は引退していて所属していないのよ」
「え?」
 意外だった。彼なら、又他の子ども達に丁寧な手紙を書いているのだと。
 不思議そうなエドワードに苦笑して、女性は言う。
「だから、私たちにはもう、あなたたちに対する規則は適用できない。……連絡を取ってみるわ。ただし、あちらが会ってくれるかどうかは、分からないわよ。そして、絶対に相手に迷惑を掛けないこと。誓える?」
「――はい」
 その、一直線に女性を見つめるエドワードの視線に、彼女は何事かを察したらしい。
 エドワードにソファーへの着席を促し、彼女は棚のファイルを手に取った。
 
 
 
 ……電話をその場でかけ始めるとも思っていなかったが、まさか心の準備もないままに、一時間後に待ち合わせになるとも思っていなかった。
 ちょうど、今近くにいるそうよ、とか忙しい人だからこれを逃すと会えないわよ、と言われたら、「心の準備が!」なんて事を言えるはずもない。
 待ち合わせの公園は、エドワードも何度も通ったことがある。このベンチに座ってハンバーガーを摘み、隣ではアルフォンスが鳩と遊んでいた物だ。
 今日はさすがにアルフォンスはいないので、一人なわけで、しかもいつもはしていない格好なんかでこんなところに一人でいると、らしくもなく不安がどんどんと膨らんでくる。
 黒い長ブーツとスカートで、機械鎧の足を覆い、手袋と長袖で手は隠している物の、不安ばかりで背中に汗を掻いてきた。
 どんな人なんだろうか。一言お礼を言いたいだけだけど、うまく言えるかどうか分からない。
 しかもいつもの調子で「ありがとな」ではいけないのだ、あくまでも女性らしく振る舞わなければ。
 ……って、もともと女なのに女性らしく振る舞うことをすっかり忘れてしまっている自分もどうなのか。
 会えるのかと思うと、緊張の余り心臓が喉から飛び出そうになってきた。
 当時の記憶が蘇ってきて、なんだか目が廻ってくる。
 なんて言おう、ありがとう、といえばそれだけで話が終わる。ごめんなさい、か? 何がと言われたらどう返そう。本当に嬉しかったと言えればいいのだが、あまり自分は会話が得意ではない。
 エドワードの人生に影響を与えた人はたくさんいて、その中で感謝すべき人は多い。そのうちの一人は誰かと言われると、今の道に自分を引きずりこみやがった東方司令部の片思いの某大佐と、あのあしながおじさなのだ。
 ふたりぼっちだった自分たちに、頑張れと言ってくれたのはとても嬉しかった。その道が間違った物だと知っていれば言ってはくれなかっただろうけれど。
 なんとか落ち着こうと深呼吸を繰り返す。
「ねえ」
 ……そんなときに、突然上から声が振ってきた。
 反射的に顔を上げ、待ちわびた人だと勝手に判断し立ち上がろうとしたら、そこにはおじさんというには若すぎる、茶色い髪の青年がいた。
 ひょろりと高い背。服装もあまりにさばけていて、初対面の人と会う時に着る服には思えない。
「……え?」
 おじさんにしては若すぎないかと思っていると、青年はにやにやしながら声を掛けてくる。
「一人?」
「……はあ」
 まさかこの人なんだろうか約束の相手は。いや、でも若いよな。まだ二十歳そこそこに見える。ひょっとして代理の人? いやいや、でもそんなの聞いてないし。
 相手の正体が掴めずぐるぐると頭の中だけで考え込んでいたら、男はにやにやをもっと濃くしながら、エドワードの腕を掴んだ。
「一人なら遊びに行こうよ。さっきから見てたんだよね、ずっと」
「……え、あ、いや、人を待っていて」
「えー待ちぼうけくらってんだろ? いいじゃんそんな奴」
「待ちぼうけじゃなくて、こっちが先に来すぎただけで」
 相手はまだ来ていない。
 ――ていうかこいつ、待ち合わせの相手ではない、とそこで初めてエドワードは気付く。
 どうしよう、逃げ出したいが、待ち合わせている以上この場所を離れられない。
 手をぶんぶんと振るが、男はがっちりとエドワードの左手首を掴んで離してくれない。
 下ろしてウェーブのかかった髪が揺れ、頭のリボンが乱れる。いつもなら殴り飛ばすが、あまり騒ぎになっても困るため、エドワードは離して、と叫ぶしかなく、だが男はそんなか弱い少女の抵抗を嘲笑うかのように手を離さなかった。
「ちょ、ほんとに人を待ってんだから! もうすぐ来るはずだから離せよ!」
「それって恋人?」
「違うよ! そうじゃないけど」
「恋人じゃねえならいいだろーが」
 よくねえよ! と思うが、男はどうしても手を緩めない。
 ああ、錬金術で一発なのにこんな奴。通りすがりの人の視線まで浴びている。みな心配げにこちらを見てはくれるが、やっかいごとに巻き込まれたくないのか、そのまま通り過ぎてしまう。
 こんな痴話喧嘩に軍が出てくるはずもなく、だからって殴って大事になってしまい、相手が来てくれなかったら……
 目の前の男の邪魔っぷりが苛立たしく、睨み付けるが男はにやにや笑顔を崩さない。
 これ以上長引いたらさすがに堪忍袋の緒が切れる。しょうがないが一発殴りつけようかと息を吸い込んだ瞬間、目の前の男の肩に誰かが手を置いた。
「……すまんが、その子は私を待っているようでね。君は立ち去ってくれないか」
 低くて艶のある美声。近づくまで全く存在を感知させないその気配のなさ。ぞくりと背筋に鳥肌が立つ。
 嫌と言うほど、自分はこの声を知っていた。
「た……」
 たいさ、と言いかけなんとか声を飲み込んだ。肩に軽く手を置かれただけの男が、不機嫌を露わに睨み付けようとして、背後に立つその男の尋常ならざる気配に即負けを察したらしい。何も言わずに舌打ちだけすると、そのままあっさりと立ち去ってしまった。
「すまなかったね。待ち合わせ場所を考えればよかった」
「………………」
 私服のスーツにコートを上から羽織った黒髪の男が、立ち去る男を見送るとこちらに微笑みかける。
 真っ白になった頭のまま、エドワードは外れそうな顎をなんとか押さえる。
 ……なんで。
 ここにロイ・マスタングがいるのか。
 らしくもない私服なんて着て、やばいくらいに似合っていて、一気に顔が茹で上がる。
 いや、そういう問題じゃない。ここにこいつがいるってことは、いるってことは。
「……待たせたね。君が?」
「え、あ……」
 思わず咄嗟に声のトーンを上げる。
 手の平がじわじわと汗を掻いて顔色はおそらく蒼白だ。ひょっとして、ひょっとしなくても。
「あ、あなた……が?」
「……」
 男は何も答えなかったが、軽く口元をあげた。それだけで全てが分かってしまう。心臓が喉から飛び出てしまいそうな錯覚を押さえて、エドワードの頭は混乱の余り気絶する寸前までヒートした。
 しかも、気づいていないのだ。
 この男は、たまに会う小さくて生意気な国家錬金術師と、目の前の女を、同一だと気づいていない。
 脳裏を蠢くのは、毎日手紙を待ち望んでいた日々。
 母親の錬成に失敗し、絶望に浸っていた俺たちを叩き起こして、奮い起こさせたあの男。
 どれだけ感謝してもしきれず、でもそんなことなど言えなくて、子どもの我が儘など余裕で交わしながら、時折心配そうに頭を撫でるこの男に堕ちるのはすぐだった。
 でも、好きになったからって伝えるつもりもなければ、迷惑を掛けたくもなかった。
 国家錬金術師になってから、世話になってばかりいるあの男は――なんだ、もっと前から、自分たちの側にいたのだ。
 エドワードは崩れ落ちそうな身体を必死で耐えて、目の前の男を穴が空くように見つめる。
 天気なのに、まるで土砂降りの雨に打たれているようだ。身体が冷たくて、冷え切って、なのに嬉しくて、そしてどうしようもなく切なかった。
「――……」
 目の前の男が目を見開き、驚いているのが分かったがもう止まらない。
 勝手に目からはぼろぼろと涙が落ちてきて、視界はあっという間に大佐の姿をぼやけさせた。
「ど、どうしたんだ。そんなに怖かったのかね」
 近づいてきた大佐が、落ち着けるように肩に触れようとしたのか、それでも一旦止まった。エドワードは目を覆うこともせず、俯きひたすら鳴き始める。
 こんな、初対面でいきなり泣き出したら変に思われる、とか大佐も困ってるじゃん、とか言いたいことはたくさんあったのに、何もできない。
 今までの数年間、あいつに抱え込んでいた思いと世話になったおじさんに対する感謝がいきなりぶつかって一つになったのだ。感情が制御できず、恋心は二倍に増えた。
「ご、ごめんなさ……」
 泣いてごめんなさい、と言いたかったがそれすらも嗚咽で止まる。
 困ったように見つめる男が直視できず、エドワードは俯き、スカートの裾を掴むと鼻を啜った。
「あ、ありがとう。ごめんなさ……」
 ――本をくれてありがとう。
 優しい手紙も嬉しかった。成長を見守っている、と慈愛に満ちた文面に擬似的な父親のような憧れを持っていた。なのに、なのに、心配する手紙を裏切る行為を、己はしたのだ。
 こいつが手紙の差出人だと分かれば、あの時、最後の手紙に書いてあった言葉の意味も分かる。
 何をするか、心配だったのだろう。そして、それを裏切り、あんなことをした自分は、知らないうちに彼の元で、また世話になっていた。
 ……いつの間に。いつの間にこんなに、甘えて頼っていたのか。
 最初からずっと、大佐だったのだ。
 言葉が出ずに泣き続ける俺に何も言わず、大佐は黙ってずっとつきあってくれた。
 やっと泣き止んだ俺が、我に返って今更蒼白になっていると、あいつは何も言わずに頭を撫でて、又、今度、会おうか、と言ってくれた。
 
 
 
 あの時、俺が泣きまくっていて話にならないからだろう、仕切り直そうと言って大佐はあの日、俺と別れた。
 後になって考えたら、よくばれなかったなと思うのだが、あまりに格好が違うせいか、奴の中では俺と結びつかなかったらしい。
 帰って弟に話すと、アルフォンスはとんでもなく驚き、泣きっぱなしだったから又会う、と言うととにかくばれないようにと大量の服を買ってきた。
 それらはみな、機械鎧を自然に隠せる格好で、かつあまりに女の子向きのびらびらしたものだったので、とんでもなく抵抗したかったが、「いつもとかけ離れた格好の方がばれないよ!」という弟の力説を退ける理由が見つからなかった。
 やっとのことで服を脱ぎ、慣れない口紅なんかをとって翌日軍部に行けば、男はいつも通りの仏頂面だった。
「鋼の。珍しいな」
 いつもの三つ編みに赤いコートで執務室にひょっこりと入る。これでも会うときは、ばれやしないかとどきどきしたものだが、大佐は昨日見せたのとは全く違う雰囲気を纏い、椅子から身を起こした。
 執務室には男しかいない。何度も来たはずなのに、今日だけは二人きりになるのにいやに緊張した。
「近くまで来たんで」
「……それだけで君が寄るとも思えないな。どうせなにかあるんだろう」
 秀麗な眉を寄せ、あからさまに不機嫌そうな表情をするのを見ていると、昨日の優しい男とは別人のようだ。
 ぼけっと顔を凝視してしまい、男はますます眉を寄せた。
「なんだね。髭でも生えてるか?」
 そう言いつつ顎をさする仕草に我に返り、エドワードは慌てて首を横に振った。
「相変わらず寝ぼけたツラだなと思っただけだよ」
「君はほんと減らず口だねえ……」
 呆れた嘆息も慣れた物だ。いつもならうるせえ、と返すのに今日は何故か言葉に詰まって、エドワードは俯いた。
 本気で気づいていないのか。いや、気づかれたら困るのだが。
 昔、あしながおじさんに嘘をついた。あの時、もう嘘はつきたくないと思った。なのにこうして今もこいつに嘘をつき続けている。
 だからって胸を押さえると、隠している膨らみを感じてしまって又落ち込むのだ。
「それにしても君、その格好はどうにかならないのか」
「え?」
 心臓が竦む。まさかばれたのかとおそるおそる見上げれば、大佐は複雑そうな顔をしながら、エドワードの汚れたコートをつまみ上げた。
「埃まみれじゃないか」
「あ、これはちょっとさっき路地裏でひったくり追いかけてたから」
「……さっき引っ立てられてきた泥棒を捕まえたのは君か。一般市民に取り押さえられたという割には、ひどくぼろぼろになってるなと思ったんだ」
 また溜息。
 いつもなら気にならないのに今日だけはひどく不安になった。
「うるせえな。いいだろ、ひったくり捕まえたんだから!」
「それはそうだけどね。君。あれはやりすぎだ」
「ほっとけよ! 腹減ってたからいらついてたんだよ!」
 コートに触れた手を振り払い、ぷい、とそっぽを向くと、瞬時に後悔した。
 だというのに男は柔らかい微笑を崩そうとはしない。
「ならば肉でも食べに行くか?」
「なにが楽しくてヤローなんかと……」
 又勝手に憎まれ口を叩く口とは裏腹に、盛大に腹の音が鳴って、出しかけた文句が止まる。
 男はぷっと吹き出すと、腹を押さえながら笑いを堪えていた。
「なんだよ!」
「いや、いやいや……君は面白いな」
 宥めるように言われて、ちょっとむっとする。
「食べに行こうか」
「……ぉう」
 結局、その穏やかな表情には叶わない。しぶしぶ、という振りをしながらも結局とことこと男の食事に付き合う自分は、なんなんだろう。
 昨日のあの男の態度とは違いすぎる。
 これが男性と女性の差なんだろうか。今みたいな関係も心地いいけれど、胸が苦しくなるばかり。
 自分の少し前を歩いて、豚がいいか牛がいいかと悩んでいる男に、昨日の女は自分なのだと言えば、こいつはなんというだろう。
 軽蔑するだろうか、笑い転げるだろうか。いや、むしろ……。
 考えると最悪の想像ばかりで泣きそうになってきた。いつの間にこんなに弱くなってしまったんだろう。
 気づいてくれなくてほっとしているのに、昨日との態度の違いに傷ついているなんて、勝手にもほどがある。又会うと言っていたが、次に会うときまでにこの心は落ち着いてくれるんだろうか。
 エドワードは気づかれないように溜息をつくと、大佐の後を追いかけた。
 
 
 
「どうしてあんなことをしてたのかって? 私も小さい頃、錬金術の本が欲しかったけど買えなかったから、そういう子ども達の気持ちがよく分かったんだよ」
 数日後、待ち合わせた喫茶店で女の子の格好をしたエドワードに紅茶を勧めながら、ロイは自分も優雅な手つきで紅茶をかき混ぜる。
 仕切り直しと言ったとおり、大佐は約束通りやってきた。又数時間前からあれこれ悩みなんとか服装を女らしく整えたエドワードは、未だ慣れない言葉遣いに戸惑いながら、慎重に言葉を綴る。
「今はどうしてやってないんですか?」
「仕事が忙しくなってしまったのと……。君たちと連絡が取れなくなってから、少しね」
「……ご、ごめんなさい…」
 軽く振った台詞に予想外の物が帰ってきて、エドワードは反射的に謝る。
 しまった。今ひょっとして地雷を踏んだか?
 未だどうも緊張してうまく会話が繋げない。
「気にすることはないよ。こうして無事でいてくれるだけでよかったんだ。なにか事情があったんだろう?」
「……そうなんです。急に、引っ越すことになって」
 最初から作っていた嘘が口をつく。
 幸い、相手には名前も住所も知られていない。そういうルールだったために、大佐が知っているのは田舎に住む、姉と弟の兄弟、ということだけだ。
「新しいところでは幸せにやっているのかい?」
 労るような微笑と、安心させる声。思わず見とれてしまいそうになる精悍な風貌は、どれだけ女を蕩けさせてきたのかと思う。実際に自分もそうなっているのだけれど。
 赤くなる頬を誤魔化し、そうです、とちいさく嘘をつくけれど、男はそれに気づかず微笑む。
「残念だね。君に本を送って、手紙を貰うのが私のささやかな楽しみだったんだよ」
「え、あ、わ、私も、です……」
 慣れない言葉遣いは舌が絡まりそうになる。何度か詰まりながら呟いても男は微笑をしまたまだ。
「だが、幸せならいいんだ。……たまにでいいから、又会ってくれるかな」
「え?」
「君と会っていると、心が落ち着く」
「…………」
 がつん、と後頭部をハンマーで殴られたらこんな感じだろうか。
「落ち着く、んですか?」
「そうだね。とても」
「……」
 だが、無理は言わないよ。と彼はあくまで丁寧に言った。
 エドワードは呆然とし、しかしその表情を見せれば彼を傷つけるとすぐに気づいたため、俯きながら手の平を握りしめる。
 穏やかな世界。
 穏やかな会話。
 優しい声で優しい事を話す男。
 それに対して、丁寧に、優しい言葉を返す女。
 ……エドワード・エルリックでは、それは与えられない物だ。
 自分はいつでも、彼に対して怒って怒鳴って、そうしてあいつは呆れたように笑う。こんな優しい世界は存在しない。
 いつもの自分では与えられない物でも、この格好をしていれば与えられるのだ。
 不思議と、全く嬉しくなんかないのに、それでも首を縦に振ってしまう。
 男はほっと息を吐いて、か細くありがとう、と呟いたりなんかしている。
 その度にエドワードは呼吸困難と闘わなければならなかった。
 罪作りな男だ。もうこちらは茹で上がって倒れそうなくらいだというのに、今も平気な顔でエドワードに話しかけてくる。周囲の視線を集めているのは分かっているはずだろうに。
 名前すらお互い知らない。
 伝えてはならないからだ。俺は、あいつのことをあなた、とかあの、とか呼び、奴は俺の偽名を語る。
 こんな嘘だらけの関係に、もう一つ巨大な嘘があると言うことだけあいつは知らない。
 ……なあ、俺が、エドワード・エルリックだって知ったら、あんた、やっぱり、怒るのかな。
 ――おかしい話だった。
 謝ろうと思って会ったはずなのに、また、謝らなきゃいけないことを自分で増やしているのだから。
 
 
 
 それから、週に一度ほど、大佐は俺を呼び出した。
 呼び出しがあれば慌てて女物の服を着て、髪を下ろしたりまとめたりカールを入れたり。まるでデートのようだねと弟にはからかわれたけれど、間違ってないのかもしれない。
 いつばれるかと気が気じゃなかったくせに、何度も会っていたら慣れてしまった。
 すっかり声を作って、女のような口調で喋って、錬金術の話をにこにこと聞いていたら、大佐は「こんな話を喜んで聞く女は君くらいだ」と困ったように笑った。
 合間に行く軍部では、男はエドワードには普段通りに怒鳴る。
 ……変な生活だった。
 いつかは、会うのをやめないといけない、と女の自分が呟く。
 いつかは、ばれてしまうだろう。取り返しがつかなくなる前に、もう会えない、と言わなければいけない。
 だが、あいつは、俺と会うと心が落ち着くと言う。一緒にいると楽しい、と言う。そんな言葉、エドワードの自分にはかけてもらえることなんか、絶対にない。
 そのギャップが苦しくて、そして嬉しいのだ。
 ずるずると呼び出しに応じて、今日は公園の露天に連れ出されて、手を繋ごうとする男の誘いを断って、隣を一歩遅れて歩く。
 その背中を見ているだけで、泣きそうになる。
 ……なんとなく、この男は、今のエドワードが抱きついても、振りほどきはしないだろうと思った。
 鋼の錬金術師が抱きつけば、気持ち悪い、と振り払うだろうが。
 ――結局、それが、あるからこうなっている。
「どうした? 疲れたかね?」
「いいえ」
 歩みの遅いエドワードを振り返り、心配そうにかかる声。首を振りながら、エドワードでは聞くことのない声に、陶酔しながら一人で傷つく。
 この時間は、奴の誘いを断れば、二度と手に入らないものだ。
 大佐の隣で、喧嘩もせずに歩いて、デートの真似事をして、あいつのくだらない話に笑って、優しくして貰って。
 あいつが、恋人や女性にしてくれるはずのものを一時的にでも貰えて嬉しいはずなのに、心の暗闇はどんどんとエドワードを空っぽにしていく。
 これは、自分ではない。
 本当のエドワードは、性別は女だけどがさつで、手が早くて、いつも大佐に怒られて。……バカで。
「……ほんと、ばか……」
 思わず漏れた声に男は気づかなかったようだ。思わず立ち止まってしまったエドワードに振り返り、どうした? とだけ聞いてくる。
「君、最近元気がないね。君の笑顔を見たいんだが、私はどうすればいい?」
 男は軽く屈み込み、エドワードと目線を同じにすると、頬をそっと一度だけ撫でてきた。
 触れられた箇所が熱くて、そのまま指で触れて握りしめたくなる。
 潤んだ金色の瞳が、大佐の瞳の中に映っている。何も言えなくて唇を噛み、首を振るしかできない。
「ごめん、なさい……」
「もういいよ。謝るくらいなら、笑って欲しいな」
 だが、そんな微かな望みにも答えられないくらい、心臓が針に刺されたようで、呼吸が苦しい。
 こうして謝っても、大佐はこの謝罪を、数年前のことだと思っている。そうではないんのだ。今のエドワードが、今の大佐に謝っている。
 でも、謝罪の内容も喋れないのに、これが本当に謝っていると言えるのか。
 だけど、口を開いて息を吸うのが怖かった。軽蔑した目が想像するだけで身震いするほど恐ろしい。
 ……嫌われたくない、側にいたいなんて我が儘は言わない。ただ、嫌いにならないで欲しい。微かなようで大それた願いだ。だから口に出せない。
 そうして、エドワードは何も喋れないからこそ、ひたすら涙を堪えて俯くことになる。こんなことでは、大佐が困ると分かっているのに。
 案の定、いつまでも笑えないエドワードに、ロイは少し困ったように頭を撫でてくる。
「……もう、会わないようにしようか」
「……え?」
 思ってもいなかった言葉が振ってきて、涙が一瞬で引っ込んだ。エドワードの視線に、男は気まずそうに頬を掻く。
「すまないね。本当はあしながおじさんは、子どもと直接会ってはいけないのに。私が甘えてしまった」
「……え?」
「――今日で最後にしよう。私がいると、君は謝ってばかりだ。そんな顔をさせたかったわけじゃない」
「あ、ちが……」
 咄嗟の言い訳は、もう男の耳には届かない。
「君といる時間は、本当に楽しかったよ」
 ありがとう。と男はそれこそ物憂げに微笑み。
 エドワードは呆然と立ち尽くしたまま、頭の上から落ちていく血液の感触に、思わず倒れ込みそうになった。
 
 
 
 これは、振られた、というんだよな……
 いや、別に付き合ってなかったけど。
 ふらふらと、夢遊病のように歩いてホテルに帰り、エドワードは己でも何故こんなにショックを受けているのか分からずばったりとベッドに倒れ込む。
 望んでいたことのはずだった。
 いつかは会うのをやめなければ、とずっと言っていたくせに、まさか相手から言われるとは思っていなかったのだから笑わせる。
「これでよかった」
 そう、何度も呟くのに、その度に関節が痛いのは何故か。
「これでいいんだよな、だって」
 ずっと、あの格好のまま大佐と一緒にはいられない。手を繋ぐことすら拒絶し、近寄ると逃げだし、そんな面倒な女に成り下がっているのは、ひとえに機械鎧がばれないか、正体がばれないか、と不安になるからだ。
 分かっているのに、なんだろうか。どうしてこんなに自分は傷ついているのか。
「どうすんだよ、もう……」
 あいつがあしながおじさんだと知ってしまって。
 あんなに優しく笑うんだと知ってしまって、エドワードとの食事だけであんなに喜ぶ男を見て、心配そうに見つめる視線を見て、恋心はもう破裂寸前までになっている。
 何度抱きついて大好きだと吐露しそうになっただろう。そうすれば、何もかもを喋って嘘をついたことがばれ、終わると分かっていて、それでも心を抑え込む方が辛かった。
 会わなければそんな危険もないのに、もう、あの優しい大佐は見れないのだと未練がましく騒ぐ脳は往生際が悪い。
 勝手に泣けるし、落ち込むし、頭はいたいし。
 ……こんなに弱くなるものだったか。
 ――夢を見たと、思うしかなかった。
 一生言えない片思いの相手とほんのすこしだけデートの真似事をして、楽しい時を過ごさせて貰った。神がいるなら感謝するべきなのかもしれない。
 なのに、だったら、どうしてこんなに苦しいんだろう。
 
 
 
 目が真っ赤に腫れ上がって、丸一日収まらなかった。
 報告書の件で呼ばれていたのにすっぽかして、二日遅れて大佐の元を訪れる。
 もう、二度とあの格好になることはないだろう。扉を開けて、いつもの生意気なエドワードになるだけだ。前と一緒。あいつは俺を男として扱い、汚いとか、乱暴だと言ってからかう。
 ほんの数週間前の状態になるだけなのに、その心の準備をするまでに丸一日かかった。
「準備…できてないか」
 ドアノブを手に取ろうとした直前で、動きが止まる。これが未練や落胆ではなくてなんなのだろう。
 だったらどうすればよかったのかと言われると答えは出ない。
 抱きついて、「本当は女なんですごめんなさい」と言ったところで、だから? もう二度と会いたくない、騙していたのか、他の人間に後見人をさせる、と言われて己が傷つく道を選ぶだけだ。
 何度も昨日考えたことが又頭にモヤモヤと浮かび、ぷるぷるとエドワードは首を振る。
 三つ編みが弾けて頬に当たり、いつもの自分が戻ってくる。
 大佐と会うときはいつも髪を下ろしていた。
 ばれないように、と前日に髪を軽くカールさせたり編み込んだり、我ながら健気な努力をしていたものだと思う。
 もう必要ないのだ。――そう、もう必要ない。
「大佐、いる?」
 最後に一度唇を噛み、大きくドアを開けると、執務室の机に顔を突っ伏している大佐の姿があった。
「……ああ、鋼のか」
「……なにしてんの大佐」
 いつもと違い、酷く暗雲を背負った男が不思議で、エドワードは近寄る。
 机腰に頭をつんつん、とつついていると男はやっと頭をのろのろとあげた。
「腹でも痛いのか?」
「……いや、ちょっとね、落ち込んでいるんだ」
「なんで。女にでも振られたのか?」
「……」
 話の流れでいつものように振ってみたらマジで沈黙と苦々しそうな顔が帰ってきた。
「あ、あれ? わりい、マジだった?」
「……マジだ。いや、違う。振られたわけではない。振ったんだ」
「……」
 女にだらしがないのはいつものことだが、エドワードは本気で謎だった。
「なんでてめえが振ったくせに、てめえが落ち込んでるんだよ」
「振りたくなかったからに決まってるだろう」
「じゃあ振るなよ。そんなめんどくさい女だったのか?」
 意味が分からない。
 大人ってのは謎だらけだ。振ったって事は興味がなかったって事だろう。落ち込むのは振られた方ではなかろうか。昨日の俺みたいに。
「てめえが凹んでてどうすんだよ。振られた女の方がよっぽど落ち込んでるに決まってるだろ」
 相手の女と自分がだぶり、思わず私怨も籠もって怒鳴ると、男はこんな子どもの説教を酷く真面目に項垂れて聞いていた。
「……そうだな。そうなんだ。きっと相手も私の事を好きだったと思う」
「す、すげえ自信だな」
 自分で言うか、と思ったがそういう奴なので諦めた。
「まだつきあっていたわけではなかったが、恋人になってくれ、といえば頷いてくれた気がする。彼女は綺麗で可愛くて、まだ少女だったけれど数年もしたら誰もが放っておかないだろうと思って、他人に取られたくなかった」
「……はあ、そうですか」
 え、のろけ?
 何で俺、こんなところで突然失恋してんの?
 不思議とショックはなかった。昨日散々な目にあったせいでどうも麻痺したらしい。今までの女もああして男に振られてきたんだなということを一つ知った。別にはなから望みなどない恋愛なのだから、失恋はいいんだが、そもそも大佐の言っていることの意味が分からない。
 どうしてこんなところで俺はこいつの残酷な愚痴を聞いているんだろう。
「なあ。取られたくなかったのに、なんで振ってるんだ? アンタの言ってること意味わかんねえんだけど」
「……このままだと、身代わりにしてしまいそうだったからだ」
「は?」
 何故か男は突然、拗ねたように不機嫌らしく吐き捨てた。
「彼女はかわいくて、愛らしくて頭がよくて、綺麗だった。心が綺麗な女性は宝石よりも貴重だ。それに比べて私の片思いの相手は、生意気だし、口を開けば文句しか言わないし、子どもだし、どう割り引いても私の事など好きではないし」
「…………二股?」
「違う。一人だって手に負えないのに。片思いだと言ったろう」
 男はなぜか苛立っているが、振ったのだからしょうがないんだろう。だが聞きたくもないこいつの恋愛事情を勝手に相談されている俺はどうしろというのか。帰っていい? と言いたくなる。
「よくわかんねえんだけど。他に好きな人がいるからその子を振ったってのか?」
「そうだ」
「だけど、その子も好きだったんだよな?」
「そうだ。彼女は本当にかわいかった。外見だけではなく、何よりあの高速に回転しているらしい脳に惹かれる。何か控えめで、いつも何かに怯えているようで、泣き虫で、それでも主張するときは絶対に曲げない意志の強さもすばらしい」
「……」
 のろけたいのか失恋を愚痴りたいのか、どっちかにして欲しい。聞けば聞くほど、じゃあなんで振ったんだと言いたくなる。相手の女性が可哀想だとしか今のエドワードには思えず、だんだん身勝手な男の言い訳にムカムカしてきた。
「だったら、今からその子のところ行って、もう一度つきあってくれって言えばいいだろうが! 片思いの相手は脈がねえんだろ!」
「だが、私が好きなのは君なんだ」
 うっとうしくて話を打ち切ろうと、胸の奥に詰まった虫を吐き出すように叫べば、男はそんなエドワードを直視して、強く重く、単調に言い切った。
「――――――へ?」
 絡むような視線に、一瞬で硬直する。
 机を挟んだ向かいの男は、さっきまでの情けない表情を一転させ、視線で捕縛せんばかりの気迫で、エドワードを見ていた。
「私が好きなのは君なんだ。脈がなくてもなんでも、やはり君しかいないらしい。あんな完璧な女の子を振ってでも」
「…………」
 己が砂になってその場で風になるかと。
 頭に拳銃を押し当てられ、弾かれたのかと思った。自分の脳はもう停止していて、俺はもう死んでるんじゃないかって、そのくらい頭が動かない。
 今、何言ったこいつ?
「鋼の、返事は?」
「………………」
 大佐は何かを言っているが、エドワードの頭では今数分前からの会話がすべて巻き戻し再生する処理に夢中で、聞き取れない。
 それを三度ほど繰り返し、エドワードの中で、なにかのパズルがかっちりと、填った。
 ――ああ、なんだ、そうだったのか。
「…………大佐は、かわいい女の子より、俺を選ぶんだ」
「そうだ。自分でもバカだと思うよ。彼女を抱きしめて交際を申し込んで、何年かすれば嫁にでもすればいいんだろうがね。どうしようもない。やっぱり私は君がいい」
「はは……」
 視界がぼやける。
 本当にもう、なんだろうこいつ、なんでこの男は、こんな開き直った顔して馬鹿な選択をしてるのか。
 ――選んで欲しかった。
 結局、あの女は、俺だけど、俺じゃないのだ。
 大佐の言葉に頷くだけで、怖くて触ることもできなくて、好きだけど、好きすぎるが故に普段の自分を押し殺しているエドワードなんて。
 見て欲しいけど見て欲しくない。女の子の格好をするなら、きちんと、本当の名前で、本当のことを、自分の声であいつに告げたい。嘘はもういやだった。アレは俺の嘘の塊、それでも側にいたくて、逃げ出せなかった愚かで馬鹿なもう一人の自分だ。
 がさつで、口が悪くて、手が早くて、生意気かもしれないけど、そんなのが多分本当の俺で、女らしくも何ともない俺で、だからこそ、大佐に興味を持って貰えないと分かっていても、変えることのできなかった自分。
 ――それを、そんな俺をこいつは、選びやがった。
「鋼の?」
 返事は? と聞く男の表情には期待は一つも見られない。
 奴はきっと、返事がNoだと思っている。
 それがおかしくて、なんだか笑えてしまう。泣きながら笑っていると、大佐は告白をバカにされたと思ったのか、苛立ったように立ち上がった。
「返答する気はないなら、帰ってくれ。そこまでバカにされると、さすがに冷静でいられる自信がないのでね」
「――大佐、明日、夕飯一緒にたべねえ?」
「え?」
 何とか笑いを引っ込め、目を擦りながら聞いてみると、男は表情を戻した。
「返事は明日、食事の時に言う。一晩考えさせろ」
「……考える気が、あるのか?」
 てっきり即答で断られると思っていたのか、男は意外と不思議が混じった顔でぽかん、と突っ立っている。
「待ち合わせは大聖堂の大時計の前に八時、どう?」
「……ああ、分かった」
 反応に困ったのか、大佐はオウムみたいに何も異を挟まず了承する。
 用事はすんだ、とエドワードが部屋を出て行くまで、黙ってただ立ち尽くしただけで見送る男は、完全に虚を突かれて固まっていた。
 
 
 
 ――翌日の夜。
 待ち合わせ場所の時計台にいたのは、ナンパ男を一撃でのして地面に転がし、踏みつけている真っ最中の、世にも稀な美少女だった。
 流れる金色の髪、卵形の小さくて白い顔。吸い込まれそうな純金の瞳の小さな女の子が、ロイを見つけて微笑む様は、その場にいあわせたほとんどの人間の思考を一瞬にして捕まえる。
 思わず鞄を取り落とし、真っ白に固まっている男に、すたすたと近寄った美少女は、その晩、全ての嘘を告白した。
 男が感極まって抱きしめたのはいうまでもない話。

(終わり)