黒の祭壇

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Emptiness is conceived - 30(完結)

「大げさに騒ぐんだね、直すっていったろう」
「いや、だって、だって……!」
 自分の手とフェルテンの顔を交互に見つめながら、エドワードは意味不明な言葉を繰り返す。
 床に座り込んだエドワードに痺れを切らしたのか、フェルテンは手を伸ばすと、元に戻ったばかりのエドワードの右手首を掴んで引き上げた。
「あ…!」
 よろけながらも起き上がらせられて、視線が今までより近くなる。
 フェルテンは頭を掻きながら呟いた。
「まあ仕方ないかなー、ここに来るまで信じてない女は多いもん」
「…………これって、そこのでかい赤い石のお力って奴か?」
「んー、まあ、そう」
 掴んだままの手首をぐい、と引いて、男は中央の島に向かって歩き始める。彼の好奇心はエドワードの戻った手足ではないらしい。
 心臓の鼓動が早いのは恐怖や混乱ではない。無理矢理島に連れて行かれていることなど、今のエドワードの頭からは飛んでいた。

 手足が動く。
 曲がる。感覚が分かる。思ったように動く。
 これが、本物の賢者の石なら。

 ――――アル。

 脳裏に、鎧姿のままもう何年も一緒に旅をする弟の姿が浮かんで、涙が出そうになった。
 もう嫌だった。
 本当は、これ以上、一分一秒だって、あいつの鎧姿を見ていたくはなかった。夜中に眠れず一人で本を読む弟も、美味しそうな料理を差し出されても、手を振って断る姿も、なのに。

『僕はいいんだよ。兄さんの手足さえ戻れば』

 ――なんて、こっちが辛くなるようなことを、本心で言ってしまえる優しい弟。
 自分が巻き込んだ。
 自分がやろうって言った。
 なのに、全てを奪われたのは弟で、自分だけ両手足元に戻って。
 きっと喜ぶ。あいつは優しいから、喜んで、よかった、って言って。きっと一人で旅をする。エドワードを巻き込まないために。自分一人で、自分の姿を取り戻すために。

 鼻の奥に、つん、と詰まる物がある。
 脳裏は昔の笑っていたアルフォンスの姿で埋め尽くされる。
 俺、何年見てないだろう。
 兄さん、って言って屈託なく笑うアルを、何年。
 ぐつぐつと、脳が沸騰する。ぞくぞくと背中に鳥肌が立って、気がついた。
 無意識に押し殺していた、自分の後悔。肌を突き破って、それは口も突破した。

「――譲ってくれねえ?」

 奪い取ろうと思っていた石だが、ダメもとで聞いてみる。
 これがあれば、弟を治せる。笑うアルフォンスを見ることが出来る。探した探した青い鳥。やっと目の前に現れてくれたのに。

 手足が無事に元に戻ってしまったことで、エドワードは混乱していた。
 大佐にいくら不穏な噂を聞いたとはいえ、こいつが手足を治したのは事実だ。シルビアの身体を治したのも本当なのだろう。代償に求める物がろくでもなさそうには思えるが、約束は守っているわけで。
 そして今のところエドワードは大佐達が危惧する代償は口に出されてはいない。言われていない以上、変態だと確定して蹴り倒すのは早計すぎた。
 ここで約束も守らず女性の身体を治さないほどの悪人ならエドワードも心起きなくぶん殴って賢者の石を奪えるものだが。
 その妙な躊躇と良心が、我に返ると間抜けな台詞を吐かせてしまう。
 エドワードの頼みに、橋の途中でぴたりとフェルテンは止まり、手を掴んだまま後ろのエドワードを振り返った。
 その表情には怒りもなにもなく、驚きだけが浮かんでいて。

「……いるの? これ」
「え、あ、うん……」
 己で言っておきながら、ふざけるなと怒鳴られると思っていたエドワードにとって、男の反応はあまりに予想外だった。
「変な奴。誰が使っても使えるものじゃないよ」
「それでも欲しい」
 これ以上ないほどに、思いを込めて睨み付ける。アルフォンスを救える石。こいつらの実態を暴くのは頂く物を頂いた後でもかまわない。いや、むしろ石さえ貰ってしまえばどれだけ暴れようと関係ないわけで。
 そんな裏の思いまで読み取ったとは思えない物の、欲しい、というエドワードの言葉は、起爆剤だったのか。

「――――ああ、なるほど」

 突然、男の表情が変わった。
 ぞっとするほどの冷たい笑み。ぎょろりとエドワードを舐めるように見つめる瞳。

「そうか、おまえ……錬金術師か」
「――――――――――!」

 判断を誤ったと悟る。
 本能的に一歩下がろうとしたが、掴まれた手首に掛かる力が強くなった。
「いいよ。約束を守ってくれたら」
「約束って……」
 又そのまま引き寄せられて、男は歩き出した。
 エドワードが転げそうになっていることなんか気がついているだろうに頓着していない。この様子では人が転んでも平気で引きずっていくだろう。
「言っただろ。この石に触って、って」
「触れる?」
 ちょっとゆっくり歩いてくれと言っても聞くとは思えなかった。
 もう男はエドワードそのものには関心も興味も示していない。ただ目の前の物体を石の前に連れて行くことだけしか頭にないらしい。
 まるで屠殺された鳥が解体されるために引きずられていくような錯覚を覚える。そのくらい、こいつの今の俺に対する態度は「物」だった。
 豹変を招いたのは、先程の台詞であることは明白だ。
 エドワードだって石には触ってみたい。本当に賢者の石かどうかを確かめるには手にするのが一番だからだ。
 男の態度には警戒心が疼いたが、とりあえず石に触れることが先決だと思い直す。逃げ出すのも、大佐が言っていた女性惨殺の証拠を見つけることもその後で充分出来る。
 指輪を押すにも、決定的にピンチになどなっていない。エドワードの身体は五体満足だし、錬金術だって使おうと思えば使えるはずで。

「ほら」
 立ち止まった男に、どん、と背中を押された。
 石の前に転がるように押し出されて、すぐ側に立った巨大な鉱石を見る。
 たしかに血の色のような赤だった。
 ある町で見た未完全な賢者の石によく似ている。
 光沢はあるが、一部が乱雑に削り取られてはいるようで、原石の好きなところを勝手にカットしているように歪だった。
 必要な分だけ削り取って持ち歩いているのだろうか。だがこれが本物の賢者の石ならば、これだけの力を使い切るためには世界を百回は滅ぼせるだろう。
 そろそろと手を近づける、その腕が白くて、なぜか手が止まった。

 右腕が白い。
 足を下に向けると左足が白い。
 その事実が、なぜか無性に怖くなった。
 ………喜ぶべき事のはずなのに。
 顔を上げると背後で待っている男は、エドワードが振り返ったことに顔を歪めると、いいから早くしろといわんばかりに手を振った。
 お前は何者だ?
 その問いを口に出したくてうずうずしている。
 真理に取られた手と足を、錬成陣一つ描かずほんの数秒で取り戻した。
 自分がもし再度手を取り戻すならば、またあの扉を開けなければならないと分かっている。簡単にできる事じゃない。
 エドワードは扉の一つも見なかった。それは扉を開けずに身体を戻す方法があると言うことなのだろうか、それともエドワードが気絶していた間に扉は開いたのだろうか。
 賢者の石を持ち帰る。
 それはたしかに希望していたことではあった。けれどまさか、賢者の石をこの男が使いこなしているとは思っていなかった。
 自分がこの石を手に入れても、フェルテンのように扱いきれるのだろうか。
 俺がこれを持ち去ってしまうよりは、ここにアルフォンスを連れてきてフェルテンに頼んだ方がいいのではないだろうか。
 どくどくと心臓が鳴る。
 それは歓喜な誘いではあったが、それをしてしまうと、なにか取り返しのつかないことになる予感がした。
 理由はない。ただ勘、というしかない。
 だが本能は正しいことが多いのだ、いつも。

 この男はおかしい。
 殴られたわけでも切られたわけでもない。乱暴だが手足をもぎ取り元の手足を戻した。ここで殴りつければ、こいつは言うだろう。
『なんで殴るの。僕が君になにかした?』

 ――――してない。
 してないのだ。
 実にうさんくさくて、絶対に悪い奴だと第六感が告げているのに、理性的な部分が邪魔をする。
 全てが『噂』
 女性に酷いことをするというのも、女性の腹を裂いて殺すのも『噂』
 それが真実かどうかを調べに来たのではないのか。最初から、それが本当だと決めつけては駄目だろう、と。
 こいつが悪い奴だとしても、黒幕はもっと別にいるのかもしれない。実行犯は別かもしれない。

 ――――分からない。
 だれが狼なんだ?

「……早くしろよ」
「……!」
 あからさまに怒気に満ちた声がして、エドワードは肩を揺らした。
「あ、ああ……ごめん」
 いけない、そんなことはこの石に触った後に考えてみればいいことだった。約束は守らなければいけないと殊勝にも思ったのは白い右腕のせいだ。
 だから先に身体を治したのだとしたら、その計算は正しい。
 少し屈み込んで、サボテンみたいな赤い石の断面に触れた。
 両手をぴとりと当てると、ひんやりと冷たい石の感覚が伝わってくる。
 削られた石の断面には自分の顔が変に歪んで写っていて。
 これが、いったいなんなんだろう、と思った瞬間に。

 腹の中で、鼓動がした。

(続く)