月に村雲、花には嵐 - 5(完結)
今日に限って、報告を他の場所でしていいですか、と言った俺に、准将は怪訝な顔一つ見せず無表情で分かった、と言った。
思えばその時にすでに上司には予想がついていたのだろう。こちらの言おうとしていることなど。その上打ち合わせの居酒屋をさっさと准将自身が予約したとあれば、トドメである。
その辺がやっぱり叶わないな、と思う所以ではあるのだが、あの時の俺に分かるわけもなく。
准将が予約した店は女性達に評判のお洒落なカクテルを出す店で、一つ一つの部屋が区切られており、秘密話をするには丁度いい。
ハボックはこの店が予約が必要であることを知っており、そしてその予約が数ヶ月先までいっぱいであることを知っていたために、今まで入れたことはない。
そしてそんな数ヶ月先まで満員の店に当日いきなり電話して予約できるようなコネもない。
(つくづく……)
得体の知れない男だ、と思いつつ席に着けば、向かいの席で興味なさげにメニューを見下していた男はベルを鳴らして適当にオーダーした。
「ハボック」
こちらも見ずにキールを飲み続ける男。やる気のなさそうな瞳はいつものことだ。浮気相手と会っているときもこんな顔。全く楽しそうではない。
この報告をするときの上司はいつもとても嫌々そう。
「今日の報告」
「……いつも通りです」
キュウリを摘みながら気のない素振りの男に定番となった言葉を呟く。
「……で?」
ぎろりと睨まれ、肩を竦めた。
「いつもどおり准将の浮気写真を渡して、まじまじ大将がそれを眺めて、ありがとー!と爽やかに微笑みながら去っていきましたよ」
ゴン。
個室に響いたのは酒を手にしたまま机に突っ伏す男の頭がテーブルに激突した音だ。
「……やっぱりか」
毎月、エドワードが准将の浮気相手の写真をハボックに求めるのが恒例ならば、それに対して大佐が報告を求めるのもいつものこと。
エドワードは知るよしもないが、とかくこの上司が自分以外の男と彼女が二人きりであっている状況を把握できないわけもなく、エドワードとの屋上デート二回目にはもう呼び出された。
そして毎度毎度の報告会。
同じ報告に、落ちこむ上司。
毎度の事ながらこの恋人達は何がしたいのかさっぱり分からない。
「准将、ユーディーママは」
「もうどうでもいい。エドワードが帰ってきたから別れた」
「……」
呆れも慣れればこんなもの。
毎度のことだった。エドワードが帰ってきたら、その日のうちに浮気相手はざっくり捨てられる。
揉めることはない。准将の浮気癖は有名で、それと同時に本命が戻ってくると浮気相手は捨てられることも有名なのだ。
その、あっさり浮気相手を振るという行為が、大将を大切にしているからなのだろう、と思いハボックは今まで我慢をしてきた。
落ちこむ男に、そのくらいなら何故浮気をするのだ、と聞くこともなかった。
男には理由があるのだと思っていて、それを妨げるようなことをするような狗ではない。
――――でも。
脳裏によぎるは、ぼんやりと空を眺める黄金の兎。その瞳に哀しい物が宿るのは辛くて、それをこの目の前の男がさせているのだとしたら、許せないのだと気がついてしまったのだ。
「……大将が又旅に出たら、又新しい女と浮気ですか?」
思いの外冷たい声になったのに我ながら驚いたが、それで逆に覚悟が決まった。
敬愛する上司は突っ伏した顔を上げて、酒をごくごくと飲み干す。
「……そろそろ、言い出す頃だと思ったがな」
男の声にも、覚悟があった。
溜息混じりに次の言葉を促されて、ハボックの脳から戦う気力が消える。
この男は、分かっていたのだ。
ハボックの考えなどお見通しで。
脇から滲み出る汗は、圧倒的な敗北感。
もともと、叶うわけがない男だから、崇拝してついていこうと思ったのではなかったか。
きっと、自分の言いたいことも准将は全部分かっている。
だったら言う必要もない、と怯懦する心を払った。男にはこちらの言うことが分かっても、自分には准将の考えは分からないのだから。
「……俺、十人に達したら准将に言おうと思ってたことがあって」
「ん?」
一口ちびりと酒に口をつけた男は、爽やかに邪悪な笑みでこちらを見た。
完全に読まれているこれからの台詞に一回唾を飲み込む。
言ったらきっと空気は止まる。分かっていたから今まで言わなかった。背筋にナイフを突きつけられるような恐怖を味わっているのに、その絶望感が心地よい。
ああ、マゾかも、と思う。
この男が、自分の絶対的上位に存在していることが嬉しいのだ。
なら、この言葉を紡いで、ナイフが突き刺さろうが、自分はきっとその瞬間でも笑っている気がした。
「……まだ浮気を続けるのなら、大将を口説こうかと」
男がゲームを続行するのなら、こちらは強制的にでもコールしようと。
「……死ぬ気か?」
流麗な声。だが、そこにはたしかな冷気が混じっている。
男の微笑みは変わらない。
だが、想像以上に機嫌と気温が低下しているのに感づいて、はた、と己の言い間違いに気がついた。
「准将から奪うって言うんじゃないですよ。准将を諦めろっていうだけです。別に俺を好きになれとか言ってるわけじゃなくて」
そんなことは望んでいないし、そんな気持ちは持っていない。ハボックにとってエドワードはあくまでも妹のような、弟のような不思議な存在で、それが恋愛感情になることはあり得ないと思う。それほど、この上司が惚れている存在だと言うことが自分自身の心にセーブをかけているのだ。
准将とエドワードでは准将を取るであろう。だから、そんな自分がこんな、大将を優先する言葉を吐くと言うことは最悪、敬愛する上司と袂を分かつかもしれない可能性を秘めている。
それが予想できない男ではないと思う。だから、己がこの台詞に込めた気持ちを分かってくれていると信じたかった。
どうしてあんないい加減なことをするんですか、なんで大切にしてやらないんですか、たくさんたくさん言いたかったことを、全ては載せられないから小さく告げる。
「……あの子まだ若いんだし、こんな不誠実な男につきあわされ続けるのはかわいそうです。准将だから我慢してましたけど、いいかげん」
「……あの子以外はどうでもいいよ」
「――――――――――」
ふて腐れるように呟かれた言葉は、紛れもない本音だった。
頬杖をついて、何杯目になるか分からない酒をグラスに注ぎながら、量を増やすそれを零れそうなくらいグラスにいっぱいにして、男はまるで失恋したばかりの学生のように頼りない溜息を吐いた。
「……大佐」
「……おまえが、ずっと気にしているのは分かっていた。そろそろ我慢も限界だろうな、と思ってはいた」
ここで答えなければ、多分ハボックが自分の元から去るだろうと言うことも、だから男は気がついていた。
「……大佐」
呼び慣れた名前をぽつりと呼んだ。准将だ、と訂正することはない。いつもならしつこいくらいに言うのに。
一旦吐露する、と決めた男からは普段の堂々とした素振りはどこかに消え、情けない顔でぐるぐるとマドラーを廻している。
准将の扉が開いた、と察した。
意固地な上司はハボックに対して、質問の扉への鍵を外したらしい。
つまり、それくらいには大切にされているのだ、自分は。
そして気がつく。…結局、この男から離れるなんて出来ないのだ、と。
「……なんで、浮気、するんすか?」
普段なら問わない、そして答えないそんな愚問。
「……エドワードがしろ、っていうから」
だが、上司は素直に答えた。
あげくに、俺は悪くない、恋人が悪いんだもん、ふん、って素振りを見せられたので、さすがに目が回る。
子供かこの男。
「いや、あんたに捨てられたくないとか、そういう気持ちがあるから許可してるんでしょうが!」
非難を恐れず言えば、准将は酒をかき混ぜる手をぴたりと止めて唖然とこちらを見た。
「ハボック…おまえ、本気でそんなこと思ってるのか?」
「だって、じゃないと毎回ああやって浮気相手を気にする理由が」
「――――――――――聞くが、エドワードは寂しそうか?」
男の呆れた問いに、何言ってるんですか、と答えようとして止まる。
(…寂しそう?)
そんな姿は一度も見たことがない。いつでも笑って平気そうにしている。
けどハボックにはそれは彼女の矜持なんだとか、崩れたくないプライドなんだとか思っていて、でも、たしかに。
「……見たこと、ないです」
「ほら見ろほら見ろ」
わーい、勝ったーと言いたげに指を指されてそこで気がつく。
三十もとうに超えた男は、完全に酔っぱらっていた。珍しくも。
「あの子は私のことなんかどうでもいいんだよ。じゃないといくらなんでも恋人に浮気しろなんて言うわけないだろう」
やけくそみたいに笑われて、ハボックはますます混乱した。
やる気なさそうに浮気を重ねる男は、そうしたいからしているのだと思っていた。エドワード一人ではなんだか知らないが足りない物があるのだろうと。
でも、これはあれだ。
まるで、ふて腐れた子供の駄々ではないか。
いやいや、待て。我が中央軍部ではあくまでも大佐に振り回されながらも耐えている健気なエドワードの図式が出来上がっていたが、ひょっとして、これ。
――――逆じゃないのか?
ひやりと脇腹を汗が流れる。
ひょっとして、俺達は全員、何かを間違っていたのではないだろうか。
たしかに大将はハボックの前でも誰の前でも、寂しそうだったり辛そうだったりという素振りはまったくなかった。それを、彼女のやせ我慢だと、耐えることに慣れている子供のいつもの我慢なのだと軍部の全員が思っていたのだ。
……でも、本当に、そうなのか?
目を離した隙に、准将のコップの中は空になっていた。
「准将、そもそも大将はなんで浮気しろだなんて」
「…………」
さっきまですらすら喋っていた上司は唐突に口をつぐんだ。
気まずそうに視線を逸らされて直感。
――――悟る。
ここにあるのだ、根本の原因が。
浮気しろ、などと大将が言い出したからこそ、この事態だ。
准将を殴ろうとする男を何度も宥め、裏切り者と罵られ、大将にはありがとう、と頼られる度に罪悪感に胃がきりきりするというこの現象の全ての根源はここだ。
もう少し酔わせたら喋るだろうか。
酒のせいで多少頬を染めた上司は、憮然と鶏肉を食べている。
「准将が、無理させるんじゃないんですか?」
お願いだから、浮気でもしてくれと思うほど。
突如脳裏にあの二人のベッドシーンが浮かんで、何とも言えない微妙な苛々が発生したが、首を振った。
この男の執着っぷりから言えば、あり得そうで怖かった。
「……違う」
聞き取れるか取れないかの声で、尊大なはずの男は俯いて地の底を這うような声を出した。
「だったら、大将が中央にいない間、大佐が我慢できないんですか?でも、そんなの分かり切っていた事じゃ」
「……我慢も何も」
男はははは、と己を嘲笑する乾いた笑いを発生させる。
「……させてくれないんだ」
ううう、と泣きそうな声で、男は空疎な言葉を載せた。
(続く)
