黒の祭壇

黒の祭壇

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Emptiness is conceived - 36(完結)

 足から力が抜ける。
 己の身体にかかる荷重が緩んだことと、奇妙な熱気に誘われてか、フェルテンがシーツの隙間から顔を覗かせた。
 だけど、視線を向ける気にも殴りつける気にもなれない。
 頭はほどよくとかれた蜂蜜のよう。身体は熱を受ける側から力をちきちきと奪われていく。
 目は、そこがまるで世界の中心かのように扉の先の人間だけを見つめ続けていて、逸らせない。
「たい……」
 最後まで言い終わる前に、男は扉の前で悶絶している男達を平然と踏みつけてこちらに歩いてくる。
 ほんの数歩の距離なのに、視界に見える確実な光景なのに、妙にふわふわと現実感がなくて。
 なのにやっぱり身体は鳴っている。細胞が緊張を解かれて一つ一つ静かに眠りにつくようだ。
「鋼の……」
 目の前に立った男は、焦点の合わないエドワードの頬をそっと撫でた。
 そのまま見下ろして、喉に小骨が詰まったような表情で唾を飲む。
「……私は、間に合ったのかな?」
 頬を撫でていた手はそっと肩に置かれる。ぼろぼろのエドワードの服を見て、ロイはやっぱり苦々しげに唇を噛んだ。
 名前のつけられない、それでも込み上げてくる衝動を、唇を噛んで押しとどめる。
 暴れ出したいような情動と、眠り込んでしまいたい身体が反発して、エドワードは視界に映るロイをただ黙って見つめるだけしかできなかった。
 心臓は痛くて、暴れたために鎖が擦れて、足首は血が出ているし。力のない足で蹴り上げたから、少し捻ったみたいで左足がおかしい。
 視界が滲むのは目も痛められたんだろうか。分からない。男の顔が見えなくて、一番助けて貰いたくなかった人間に、こんな形で助けられて。

 二回目だ。
 スカーに襲われて、死ぬかもしれないと思った時、やっぱりあいつが来た。あの時はもっと飄々としていて、こんなに心配そうな顔で見つめてなんかいなくて。
 ――――ああ、なんだかもう分からない。

 だって顔が見えなくて。
 たいさ、と口に出したら崩れてしまいそうで、黙ってその軍服の裾を掴んだ。
 ぎゅう、と握り締めて俯く。歪んだ視界の端で、男の表情がどこか変化したようだが、どう変わったのかは分からなかった。
 いきなり背中に手が廻されて、そのまま胸に押しつけられる。
 よろけて力を失いかけて、慌てて残った手で大佐の服を掴んだ。
 鼻に思い切り吸い込んだ、硝煙の匂いと、男の匂いになぜか顔が火照った。
 なぜかすとん、と胸を滑り落ちたものは、名前を聞けば緊張だと答えるだろう。ぎりぎりの綱の上から降ろして貰えたような感覚。
 大佐、と小さく声に出したが、服に吸収されてほとんど聞こえなかった。なのになぜか聞き取ってしまったらしい耳のいい男が、人の後頭部をゆっくりと撫でて、ますますと抱きしめる。
 抱きしめられるような目にはあっていない。なぜこいつはこんなに切羽詰まったような表情でいるのだろうか。
 分からないけど、人の体温は心地いい。ずっとこうしていたいような気までする。

「――――ラブシーンは後にしてくれませんか、大佐」
「………!!」

 飛び込んできたかわいい弟の綺麗な声に、一瞬にして我に返った。ぬるま湯から雪の中に引っ張り出されて、眠気が一気に吹き飛ぶ。
 慌てて顔を動かして弟の声の方を向こうとしたら、そっと身体が離された。
 どこか申し訳なさそうな顔で、ロイはすまない、と一言謝る。
 なんだかわからなくて瞳をぱちくりさせていると、小さく咳払いをして、その、と男は呟いた。
「今は、男に触れられるのも嫌かもしれないのに」
「…………なんで?」
 コイツの思考回路は時々よく分からない。どうして触られるのが嫌だという話になるのだろう。
「なんでって君……」
「だって、大佐じゃねえか」
 少し狼狽えているらしい弱気な男に真実を告げる。
 うわぁ……、とアルフォンスが頭に手を当てているのが見えたが、よく分からない。
 目をまん丸に開いて、情けなく口を開けている男も意味不明。

「……兄さん、もうちょっと発言には気をつけた方がいいよ、いろいろ」
「え? なんでだよ、それよりアルこそなんでここに」
 大佐の横をすり抜けて、愛しい弟の所に駆け寄ろうとして――思い切りつまずいた。
 地面にキスする前に、アルフォンスが慌てて抱き留めてくれる。
 冷たい鋼の感触がじんわりと胸に染みて、なんか嬉しかった。

「もう、何してるんだよ兄さん」
「あ、わりいわりい。鎖が邪魔で」

 なんぞといいながらにこにこ笑って足の鎖を見せたのだから、二人にとっては実に奇異な出来事だったんだろう。
 ヒィィ、と小さく叫んだアルフォンスが、慌てて鎖を掴んで引きちぎる。

 あ。俺があんなに苦労しまくった鎖が、こんなに簡単に。

 ばらばらと落ちる鎖の破片をぽかんと見ていると、なんだか理不尽な悔しさが沸いてきた。だが怒り狂っている弟の前ではそんなことも言えない。
「なんでこんな目に!」
「え、いや監禁されてんだからそのくらいするだろ」
「だいたいなんで錬金術で逃げなかったのさ!」
「それが今俺、使えないんだよな」
 ほら、と両手を叩いてみる。相変わらずの沈黙が両手の間から返ってくる。
「なんで……って、その顔じゃあ原因は分かってるんだね」
 肩を落とすアルフォンス。対してエドワードは機嫌がいい。
 そうだ。だってこれでおそらく弟が直せる。万全を期すなら腹の石が育つのを待つだけで。ひょっとしたら腕の一本くらいはあの巨大なレプリカでもどうにかなるかもしれない。

「そうだ、アル。一つだけいいことがあって…」
「大佐! 殺しちゃダメですよ!」

 朗報を報告しようとしたエドワードの向こうにむかって、アルフォンスが話しかける。え?と思って振り返れば、フェルテンがいる場所にあったシーツは――なんだか盛大に燃えていた。
 シーツがじたばたと暴れている。どうやらその中には人間が居るらしい。
 蒼白になるエドワードの鼻に、脂肪が燃える匂いが届いてきて、鳥肌が立った。
 熱風が肌を焼く。大佐の身体は焔の余熱を喰らってか、赤く反射している。
 その横顔はあまりに無機質で、能面のようだ。だが背負う気配はあまりに凶悪で、背筋を凍らせるような迫力があった。
 今大佐にペンの一本でも投げたらそのまま蒸発しそうだ。
 熱気による陽炎が、男の身体の周りを包んでいる。温度差による現象のはずなのに、それはまるで男の憤怒の具現化に見えた。
 目の前のシーツの中では人が焦げる音がしている。掠れた悲鳴まで聞こえるのに、男はまるで頓着していないようだった。
 冷徹に、ただ燃えているシーツを眺めているばかりか、熱で苦しむその姿に向かって蹴りを入れるくらい。
 背中を氷の虫が這う。怒り狂って怒鳴っているわけでもないのに、目の前の男から漏れる怒気だけで、喉が張り付いた。
「たいさー、殺しちゃ駄目ですよ。大佐ってば!」
 声も出せないエドワードよりも、アルフォンスの方が上手だった。身動きすら出来ずに固まる兄とは逆に暢気に呼びかける。
「……あ? ああ…そうだったな……」
 アルフォンスの重なる叫びに、やっと我に返ったらしい。男はこちらを一瞥して、再度発火布を鳴らす。水をかけられたように焔が消えて、男の小さい溜息がした。
「ありがとう、アルフォンス」
「…………しっかりしてくださいよ、もう」
 溜息をついて呆れた声を出すアルフォンスと大佐の行動がなにか示し合わせたように見えて、不安げに見上げた。
「ああ、ここに突入する前にさ、大佐に頼まれたんだ。私が相手を殺さないように止めてくれ、って」
「………………」
 何馬鹿なこと約束してるんだ、と言おうと思ったがたしかにアルフォンスが先程から制止しなければ、この部屋の物は自分達三人を覗いて綺麗に燃えていたような気もする。
 ぷすぷすと音を立てている視界の端のシーツと、床で息も絶え絶えに唸っている火傷の男達を見れば想像はおおげさでもなさそうだ。
 やっと男の気配から刃のようなものが消えて、ほっと息をついた。
 入り口の奥、廊下の方から複数の足音と人の声が聞こえてくる。
 そういえば、とちらりと見やれば、男は軍服を着ていて。
 今からこの部屋に殺到するであろう人たちが、軍人であるのは明白だった。

 サイゴンは、制圧されたのだ。

(続く)