黒の祭壇

黒の祭壇

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Emptiness is conceived - 38(完結)

 おそるおそる振り返ると、玄関で仁王立ちして背後に嫌なオーラを漂わせているのは、黒髪の上司だった。
 神出鬼没過ぎる。一番見られたくない人間が戸口に立っている現実に、さあ、と血の気が引いていった。
「勝手に部屋を抜け出すなんて何を考えているんだね君は!」
 言いながらずかずかと大足で歩み寄ってくる。隠そうともしない機嫌の悪さに、しん、と室内が静まりかえった。
「エリス少尉が心配して探してたぞ! 足が悪いのに勝手にうろうろするんじゃない!」
 がし、とエドワードの左手首を掴んで、不機嫌な男は怒鳴りつける。
 なんて運が悪い。よりにもよってこの男の耳に入るとは。
 思わず舌打ちしそうになったがそんなことをしたら目の前の男が再沸騰しそうだったので、黙って視線を逸らす。
 まあ目的の物はなんとか手に入れたし、右手の中の物を見られるのは嫌なので、このまま謝って戻れば……

「大佐、いくらなんでもそりゃないんじゃないんですかねぇ……」
「?」

 頭を掻きながら立ち上がって溜息をついたのは先ほどの初老の軍人だった。
 一応上官である男にそんな口を利くのも驚きだが、彼は全く気にしないらしい。

「その嬢ちゃんは、奪われた婚約指輪を探して足を引きずりながらここまで来たんですぜ。それを……」
「え? あ……! わ―――!!」
 彼が言った台詞はエドワードの血を一瞬凍らせた。
 慌てて止めようとするが、無理な話で。

「勘弁してやってもいいんじゃないですか。嬢ちゃんにとっては、大切な指輪でしょう」
 最後まで言い切って、彼は大佐にねえ?と同意を求める。
 周囲の人間もうんうん、と頷きながら、さっきまで怒鳴っていた大佐を見ていて。
 まわりの責めるような視線に気まずい物を感じたのか、男の気配から剣呑なものが消えていった。
「……指輪……」
 ぼそ、と呟かれた台詞に、背筋が凍る。
「ち、違うからな!あんたに貰ったからっていうんじゃなくて!」
 ぽかんとしている男に必死で言い訳をする。けど自分の耳が赤い自覚がどうにもしていて、信憑性があるかどうかは分からない。
 男の瞳がゆっくりとこちらを向いて、別に責められてもいないのにますます肌には熱が籠もった。
「エドワード、君」
「だ、だって! 借り物だから返さないといけないし! なくしたらまずいじゃねえか!」
「……返すのか」

 ぽつり、とロイが小さい声で呟いた。
 みるみると部屋の温度が下がっていく。
 奇妙な沈黙が部屋に流れて、側の軍人が、「……返すんだ」と小さく言った。

「返すんですか…?」
「嬢ちゃん、そりゃ幾ら何でもひでえよー」
「そうですよ、返すなんて、本人の目の前で言っちゃあ……」

「え? え?」
 気がつけば、周囲の矛先は自分に向いていた。さっき庇ってくれた初老の軍人すらも、困ったような顔でこちらを見ている。
 おろおろと大佐を振り仰げば、男はなんだか寂しそうに微笑んでいて。
 ぐ、と罪悪感が襲ってきて口をつぐんだ。
「……とりあえず、迎えが来たから連れていこう」
「あ……!」
 気を抜いていたせいか、男が屈んだ、と思った瞬間に抱きかかえられていた。横抱きにされて頭から湯気が出そうになる。
「ちょ……! 離せよ…!」
「駄目だね。足が痛いんだろう。無理して歩いたら治る物も直らなくなるよ」
「う……」
 たしかにさっきから腫れてきた足がじくじくと痛いが、歩けと言われれば普通に歩く。
 だが先程から突き刺さる視線が、暴れることを許してくれない雰囲気で、突っぱねようとした手が止まった。

 男はすたすたと廊下を歩いていく。
 エドワードを抱いたままで、すれ違う軍人達からの奇異な視線と敬礼もとくに気にならないらしい。これくらいの肝が俺にもあれば違ったんだろうけど。
 はあ、と溜息をついてちらりと見ると、相変わらずの端正な横顔は前を向いている。
 足と背中に感じる固い腕がなんだかむずむずして、せめて冷静になろうと数を数えた。
「なあ、なんで分かったんだ?」
「ん? なにがだね」
「俺、結局指輪で助けも呼んでないし、助けに来るなんて思ってなかった」
「ああ、まあそれは愛の力で」
「ごまかすな」
 そんなはずはない。こいつは俺以上に理屈っぽくて奇跡を信じない。ぎゅう、と腕を抓ってみたら痛い痛いと笑われた。
「……すまなかった。さっきは怒鳴ったりして」
 ぽつりと、優しい声が耳元に触れて、喉が跳ねた。
「あー、でも勝手に部屋出たのは事実だし」
 気まずくて、曖昧に笑って顔を逸らそうとするが、そうすると通路を行き交う軍人達と目があってやっぱりいたたまれなくなる。
「指輪なんて、言えば探したのに」
「いや、あれは」
「なんだか、嬉しいことや哀しいことや腹が立つことが一緒に襲ってきていて、どういう顔をすればいいのかわからないな」
「…………」
 男が、めずらしく泣きそうな顔で微笑んでいるので、エドワードは下手な言い訳を喉元に押し込む羽目になる。ぽかんと見上げていると、やっぱり大佐は妙に神妙に微笑んだ。
 微かに目尻から感じるのは、悲哀と焦燥で、なんだかたまらなくなる。
 きゅう、と絞られる胸の衝動のままに、そっと手を伸ばして、大佐の頬を抓った。
「なに、変な顔してんだよ。さっきまで怒鳴ってたくせに」
「だが」
「もっとどーん、としてる方がアンタらしいだろ。この、眉の間のハの字はなしな」
 言って、眉の間をえいえいと指で押してやると、男の目がぱちぱちと瞬いた。
 先程より少しだけ、抱え込む腕に力が篭もるのが分かる。通路の真ん中で突然立ち止まった上司が奇妙で首を傾げていると、男は突然人を抱えたまま、手前に抱き込んだ。
「え、ちょ……!」
 顔が大佐の軍服に押しつけられる。視界にさっきまで見えていた白い天井は暗闇に潰された。
そのまま抱き枕みたいに抱きしめられて、背中に軽い圧迫感。
 人肌の温度が、顔にも腹にも伝わってきて、まるで毛布を掛けられたような安堵と共に冷静な思考は周囲の視線を意識した。
「な、な、なに、どうしたんだよ大佐!」
「君に慰められるなんて、情けないな私は」
「は? 何言ってんだ?」
「……思ったより元気で、よかった」
「え?」
 聞き取れなくて、もう一度とせがもうとしたのに、ゆっくりと身体を元に戻される。相変わらずのお姫様抱っこ状態だが、男の瞳から先程までの息苦しい感情は消えていた。
「なんでもない。それより君、結局手足はどうしたんだ」
「あ……」
 言われて初めて、なんの説明もしていなかったことを思い出す。
 両手を少し伸ばしてみた。
「ああ、フェルテン……教祖の名前だけど、あいつが」
「やったのか?」
 男の声は上ずっている。立ち止まりそうになったが思いとどまったらしい。エドワードを見上げる顔は真剣だった。
 それもそうだ。これがどれだけの奇跡なのか、錬金術師が一番分かっているだろう。その事実が軍部にばれただけで、フェルテンは一生牢屋から出られまい。
「……信じられないな。噂は本当だったのか」
「ああ、それについては本当だった。俺もまさかと思ったけど」
「困ったな」
「え?」
 軽く口元を動かして微笑む男。
「せっかく元に戻ったその掌にキスしたくても、両手で君を抱えていては無理だな」
「…………!」
 冷静でいようとした努力を一瞬にして無にする男の台詞に、強張る。
「まあ、これも役得だからよしとするか」
「う……」
 絶対顔が赤いのがばれている。じゃあ降ろせ、と言ったならば、キスされるのだ。うまいこと考えているのか天然なのか。
 逃げ出す場所もなくてせめて男がこれ以上の言葉を発しないようにと、ただ祈った。

(続く)