黒の祭壇

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月に村雲、花には嵐 - 12

 

 毛穴という毛穴から、汗が噴き出す。
 目の前の上司から、目が離せなくなった。
 その顔はこれ以上ないほどの壊れた笑顔で。

 ――――時折、本当に時折。

 恐ろしくなることがある。目の前のテロリストなんかよりも自分の横で冷酷な瞳で指示をする男が。
 この男がもし、道を違えたら。
 その思考を暗黒の中に突っ込んだら、いつか自分達が討つはめになるかも知れないというその危うさをあっさり霧散させたのはエドワードだった。
 彼女がロイの腕を引っ張って、時折ひょこりと現れて。
 窓を開けて風を入れ替えるから、この人はまだ自分達の側にいてくれるのだ。

 そんな彼女は首筋一発の男の手刀であっさり気を失って、男の腕の中で眠っている。
 だが、そんなエドワードに目をやることすら許されない空気が、目の前の上司からは滲み出ていた。

 この駅は、こんなに暑かっただろうか。
 はあはあと、息を荒くしなければいけないほど、汗が噴き出るものだろうか。
 指を動かしたらその瞬間に切り落とされそうな緊張感。
 ハボックから冷静な思考をじわじわと奪い、己が身に蓄えている焔は、立っているだけでまるで死の気配だ。

「すまんが、ハボック。鋼ののこの荷物は、軍部の私の部屋に持っていってくれるか」

 淡々と、男はハボックにそう告げた。



 唾を飲み込む。
 それに否といえる人間がどこにいるだろう。
 心臓の心拍数が数えられない。ただ、嫌な予感と悪寒が、ハボックを苛む。

  だってそれは、今から大将をどこかに連れ去ると言うことだ。

「じ、准将……!」

 エドワードをどうするつもりですか、と喉まで出た声は、少女を両手で抱え上げた男の気配で容赦なく潰された。
 この辺一帯の空気が毒で汚された気がする。
 そんなの、彼女と一緒の准将から、感じたことなどただの一度もなかった。
 だから、こうなってしまったという事実が無性に哀しい。
 男の怒りは尤もだ。ここまで、コケにされて――――彼女にはその自覚がなくとも、怒らない恋人などいない。

 立ち竦むハボックを、ロイは黙って見つめていた。
 腕の中の最愛の少女は、静かに呼吸をしている。

 …どこに、いたんだ、今まで。

 少なくとも、ハボックはロイが目の前に立つその瞬間まで、全く気配を感じなかった。
 一応訓練しているはずの大将と自分が二人して、ここまで殺気を滲ませた男の存在を感知できなかったのだから、もう、絶対的に敗北が確定じゃないか。
 追いかけても、止めても聞く耳など持たないだろう。
 それが分かっていたから、准将が現れる前にエドワードを連れ去ろうと思っていたのに。
 結局、そんなハボックなどお見通しだったのかも知れない、つくづく。

 勝てないのだ、この男には。

 今までなら、喧嘩をしても少女相手に男はいつも機嫌を取って、口で謝っていた。
 何も言わずに何も聞こうともせず、最初から意識を失わせるなんて真似、したことがない。
 ハボックが恐いのは、いきなりそんなことをしでかした男の壊れ具合なのだ。
 だって、もう、准将はエドワードとの対話を止めたと言うことだ。
 どういうことだ、と怒って詰っていい。その権利は准将にはあるだろう。
 なのに、今の上司はもう、この少女の意見など聞く気がないのだ。

 ……当然、かもしれない。
 あんなことをされたら、誰だって。
 
 理性が急激に冷凍された。
 それは、ハボックが男の行動を許可したと同じ事だ。
 事実、そうだな、と思った。
 多分、殴られても仕方ないことを、この無自覚な少女は上司にしたのだ。
 
「今日と明日は、休みを取るからな」
 よいしょ、と腕の中の少女を抱え直して、荷物を全てハボックに押しつけると、ロイは踵を返す。

「あ、あの……!」
 もう、止められないのは分かっていた。
 この声に振り向いてくれるかも分からない。
 なのに何故か、声は押し出されるように漏れた。
 この男はもう、意思の疎通を拒んでいる。人の意見など聞きはしないだろう。彼女が男の手の中に落ちた以上、所詮准将の狗である自分は、黙って待てをするしかない。

 だが男にとって、ハボックの存在はハボックが思う以上に大きかったらしい。
 男はただ静かに振り向いた。

 その圧倒的な重圧感を持った瞳に、喉が締まる。
 喉元に刀を突きつけられている錯覚に、眩暈がした。
 指一本動かせない、まるで兵器のような瞳が、ハボックを射抜く。
 彼女がこれから何処に連れ去られて、どういう扱いを受けるのか、想像できないわけじゃないのに、止める気力なぞ、奪われている。

「た、大将をどうするつもり……ですか?」

 愚問だ。

 聞いても明確な答えなど絶対に返ってこない。
 ハボックがそう思うのと同様に、ロイにも愚問だと思えたらしく、男は口の端だけを歪めて笑った。

「さあ………?」

 胸元に頭を凭れて気を失っているエドワードを、ロイは一瞥する。

「…………どうしようか?」

 それはまるで、愛した男の首だけを手に入れて満足だと笑う、寓話の女性のように。
 愛おしそうに、ロイはエドワードの顔を見て微笑んだ。


  


 ホームに次の汽車が入ってくる。
 その轟音に、一瞬ハボックの思考は視界に飛び込んできた鋼鉄の物体に移った。

 その汽車が止まり、人が降りてきた時にはもう、ハボックに手元には二つの旅行鞄だけしかなく。

 男の姿はどこにもなかった。 

(続く)