黒の祭壇

黒の祭壇

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Emptiness is conceived - 20(完結)

「…………」
「…………」

 無言。
 お互い。
 エドワードは石になったように動けない。

 両手に抱えた下着と着替えの量なんて、せいぜい胸元のタオルを隠すぐらいで。
 いつも飄々としているはずの男は男で、なぜかうっと詰まった顔をして気まずそうに書類をぎゅう、と握りしめた。

 どうしようどうしようどうしよう。
 今まではいくら何でも服を着ていたわけで、身体の線がどうのこうのと思っても服でごまかせていたわけで。バスタオル一枚、しかも巻いただけで正直いつはらりと落ちるか分からない。
 自分で見たって女の身体だと思うのに、男が感づかないなんてありえない。

「……たいさ」

 ぼんやりと、それしか知らないかのように呟いた。
 そうじゃなくて、本当は何か、しなければいけないことがある気がするのに、何も思い浮かばない。

 心臓の音がばくばくと喧しい。喉元までその音があがってきて、声が出せない。
 視界が薄くなる。気を抜いたら、倒れそうだ。
 でもそんなことになったらもう完全に終わりで、なんとか踏みとどまっているけれど、前にも後ろにも動けない。
 さっきまであんなに暑い暑い言ってたのに、まるで今は冷蔵庫にいるみたいだ。

 恥ずかしい、とかそういう気持ちは全くない。ただ、ひたすら、怖い。
 殺人犯が、警官に職務質問されたらこうなるのだろうか。どういう対応を取るのが最適解なのか、未だに脳は探し出せない。
 ああ、なんで脳みそが二つないんだろう。二つあれば一個ぐらいまともに動いてくれるかもしれないのに。

「……君のことだから、いくら偽乳ついてるとはいえ、パンツ一丁で出てくるかと思ったのに」
 呆れたような笑いが男から漏れて、は、と冷えた身体が少し戻った。

 ベッドに座り込んだまま、大佐は飄々と肩をすくめておもしろそうに見ている。
「……悪いかよ」
「いいや、別に」
 やっと、それらしい受け答えができて、少し持ち直した。

「ていうか、なんであんたがこんなところにいるんだよ。アルは?」
「アルフォンス? 私がこの部屋に入ったときはいなかったが」
「だからなんであんたがこの部屋にいるんだよ!」

 鍵はかけているし、男が合い鍵を持っているはずがない。聞くまでもなく予想はつくが、聞かずにはおれなかった。
 男は右手に持ったペンをくるくると回す。もうその仕草で分かった。

「……サイテー」

 やっぱり錬金術か。それ以外にあるはずはないのだが。

「失礼な。アルフォンスがいたなら、伝言を頼んで部屋で待とうかと思ったがいなかったのでな」

 だからって不法侵入していい理由になるのか、それ。

 安心したら、ふる、と震えが来て鳥肌が立った。
 俯けば己の胸の谷間が見えて、蒼白になる。
 前でえいえい、とタオルを谷間に突っ込んでいるだけだ。ぴ、と男が引っ張ったらあっさり落ちる。
 いや、今はまだ距離があるし、俺は入り口だしあいつは奥だし。服さえ着てしまえば別に問題な………。

 ――――服?

 旅行用のパジャマは窓際のトランクの中。
 ホテル備え付けのガウンも、やつが座っているベッドの上。

 すなわち。

 大佐の隣を通らないと、俺はどちらの服にもたどり着けない。

「……………」

 また意識が拡散しそうになって、右手の指で左手をつねってみた。
 エドワードにしてみれば、判断ができなくなって困ったからあの場所で立ちすくんでいるだけだったのだが、それはロイにとってみればエドワードを観察する時間をたっぷり与えられたと言うことで。
 本当ならば、速攻で脱衣所に戻らなければいけなかったのだ。
 なのに、汗ばんだ肌や、纏められた髪、風呂上がりで火照った頬と、なめらかな身体のラインを見せられて、その下の肌を想像しない男がいるはずもなく。
 冷静そうな男がその下にどれだけの獣を隠しているかを、エドワードは気がつけないでいた。

 張り付いた足がなんとか人肌に戻ったのをいいことに、ロイの態度に変化がないのを誤解して、パジャマを取りに行こうなんて考える。
 すたすたと隣を通り過ぎるだけで、パジャマを手にしたらまた脱衣所に戻ればいい。男はこちらをあまり見ていないから、多分大丈夫だと、希望的観測。
 大あわてで逃げる方が、逆に怪しい。
 自分がもし男なら、ここで平然と上を脱ぐぐらいでないと怪しまれる気がする。向こうは別に気にしていないようだから、こちらも通常通りで接しなければと、……そういう思考が浮かぶまでにえらい時間がかかった。

「鋼の、君、今日の面接とやらはどうだったんだ」
「……べつに、普通」
「教祖様とやらには会えそうなのか?」
 通常通りの会話をしながら、大佐の方をなるべく見ないようにして、服を抱えたまま歩いて窓際に向かう。

 だが、心臓は動きすぎで、本当は喉に鼓動が詰まってさっきから何度も唾を飲み込んでいる。
 寒いと言った身体は今度は暑くなってきた。現金すぎる。
 トランクまで多分十歩くらいしかかからないはずなのに、とてもその距離が遠い。怖くて思わず早足になりそうなのを必死で押しとどめて、怪しまれないように普通の速度で歩いた。

 男の視線が、いつもと違って妙に気になる。
 肩がすうすうして、肌寒い。なんか泣きそう。誤魔化すために気にしてない素振りを装って喋った。

「一応、教祖には、明日会うことになったんだ」
「へぇ……」

 処女で初潮が来てないからだそうですよ、とは言えないが。
 目をつむって駆け抜けたい気持ちを耐えて、やっとトランクの近くまでたどり着く。エドワードのベッドに座り込んだ男は、口元に数枚の書類を当てて、何かを考え込むような顔で。

 ……視線が、ちくちく刺さってくる。

(―――――――――、こ、怖い)

 別になにがどうというわけではないが猛烈に嫌な気分。
 一番嫌なのは大佐の隣をすり抜けるとき。
 それさえ乗り切れば後は二歩で終わる。最も近づいた後は人と人は離れていくもので。

「鋼の、では一応明日でけりがつくと?」
「多分」
「……そうか、私の方も少し君の耳にいれておきたいことがあって」
 ちょうど隣をすり抜ける瞬間に、興味深い言葉を聞いて、一瞬だけ歩みが止まった。

「……え?」

 さっきまでのことも忘れて、ぱ、とベッドに視線を向けたら、男はなぜか立ち上がっていた。

「―――――――――!」
 なんで。と思うまもなく手を引かれて、咄嗟にはだけそうになったバスタオルを押さえた。

「……っ、あ!」
 そのまま、すぐに背中にシーツの感触。一度も今日寝転がっていなかったベッドはあっさりエドワードを埋め込んだ。
 咄嗟のことで思わず目を閉じる。左耳に、何かが軋む音。
 スプリングの揺れが治まって、やっと瞳をあけた。

「……鋼の」
 なぜか小さい声がする。

 仰向けに転がった自分の顔の両脇に、なぜか二本の腕があって、見上げた先は天井ではなく、大佐の顔だった。

「……、な……!」
 何かを言いたいのに、苦しくてそれ以上の言葉が出ない。
 ばくばくばくばくと鼓動は喧しい。背中に冷や汗が伝うのが分かる。
 頭の中、酸素の足りない身体はまずいまずいまずいと繰り返している。

 ぎし、とまた音がした。
 それは大佐が完全にベッドの上に上がったためにした音だと気がついて、悲鳴が漏れそうになった。

 押し倒されているのだ。
 どう考えても。

 この体勢は、自分で抜けることができない体勢なのだと、今更に気がついた。
 だって、両脇は男の手が邪魔して、頭上には男の顔がある。バスタオルは幸い外れていないが、男の顔がエドワードの泣きそうな顔を身体を観察しているのは嫌でも分かった。

「た、たいさ……」
 どけとか、やめろとか、そういう強がりは出ない。
 ただひたすら、――――怖い。

 泣きそうな俺に何を思ったのか、大佐は左の頬をそっと撫でた。安心させるためなのかもしれないが、今のエドワードには触れられることがもう恐慌だ。

「軍部に行って聞いた話だとね」
「…………」
「殺された女性達は――――、鋼の、聞いてるか?」
「き、聞いて……る……」
 がちがちになってただ震えているエドワードの表情に、ロイが目を見開いた。

「まいったな、ちょっとした冗談のつもりだったんだが」
「うぇ?」
「あとは好奇心か」
 おそるおそる見上げたエドワードの視界に、男が近づいてきて、軽く額に口づけが降りた。
「……………!!」
 ひぃ、と叫ばなかったのを褒めて欲しいくらいだ。

「そんなに怯えなくてもいいよ、別にセックスしようってわけじゃない」
「んな、な、な………」
 ぱくぱくと金魚みたいに口を開けて、赤裸々な言葉を留めようとしても、もう聞いてしまった物は覆らない。
 考えないようにしていたのに、直接的な表現をされて、一気に熱が上がった。

「殴られるかと思ったのに、怯えるとはね」
「……、っや……っ!」
 降りてくる手が怖くて、思わず押しのけようと手を突っぱねた。だが男は意に介せず、両手を下ろして、腕をシーツと背中の間に滑り込ませる。

 落ちてきた男の顔はエドワードの肩口に埋まって、右手は、腰を掴んだ。左の掌が、自分の首筋に当たっている。
 無機質ではない、人の身体が発する熱が、首の後ろから滲んで、触れられていると実感した。背中を一回りして腰に当たった大佐の右手は、よりにもよって一番細い部分をタオルの上から掴んでいて、水気のあるバスタオルの感触が押しつけられてきている。

「――――――――――、あ」

 恐怖も、混乱も何もない。
 自分でも分かるくびれた腰、男にしてはない筋肉。そこに手を回されて、自分の胸は大佐の胸を押している。男の胸は当然、平らで、エドワードみたいに弾力のある柔らかい物はついていない。それが自分に分かるのだから男に分からないはずはない。
 しかもタオル一枚しか肌を防ぐ物はなくて。 

 どれだけ抱きしめられても、キスされてもそれが服の上からなら別に、いくらでもごまかせた。ほとんど裸に近い状態さえ見られなければ、……いや、見られても、触られなければ、まだ、まだ、って。

 視界が、ぼんやりと滲み始めた。
 男の吐息が肩を揺らした。

 妙に冷静で、そして、空っぽ。

 ――――たぶん、これを絶望というのだ。

(続く)