黒の祭壇

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Emptiness is conceived - 37(完結)

「よかったわー、どこも大きな怪我がなくて」
「はあ……」
 ぽんぽん、と染みる消毒薬を塗ってくれながら、女性の軍人さんは優しく微笑んでくれた。
 ふふ、と軽く笑ってくれるのは、エドワードを落ち着かせる為だろうか。
 扉の向こうでは多数の人間が走り回っている音がする。秘密という鍵で閉ざされていた地下は、今や縦横無尽に軍人が荒らし回り、神秘もなにもあったものではない。
 エドワードはその中の一室、救護室だったであろう場所に連れ込まれ、女性の軍人さんに治療を受けている途中だった。
 足を捻ってしまったと感じたのはやっぱり本当で、先程から少し腫れている。ひょこひょこと足を引きずらないと歩けそうにない。
 少し動いただけでもずきずきとする。
 復活したばかりなのに、可哀相な足だな、と黙って左の脹ら脛を撫でてみる。
「もう少ししたら、お迎えの車が来るから、貴女は一足先に病院に行きましょうね」
「え? いや、病院なんか」
「ダメよ。絶対に検査してもらわないと。こんなところ早く出た方がいいわ、ね?」
「…………」
 心配そうに歪められた眉で分かった。
 この人は、俺が男の人に酷い目にあわされて、怖がっていると思っているのだ。
「辛かったね……」
 言って頭を撫でてくれるその瞳は少し潤んでいて、彼女の中で俺は一体教祖に何をされたと思われているのかと考えると目が廻ってきた。

 ……あれ?

 あの時、大佐の表情がなんともいえず腫れ物に触るようだった事を思い出す。
 え? ひょっとして。
「ここを出たらお風呂にも入れるし、病院は個室にしてもらえるから。お医者さんも女性よ。気にしなくていいわ」
 ぎゅ、と手のひらを掴まれる。女性の愛情と慈愛に満ちた優しげな微笑みも、どこか悔しそうで。

 ……あれ。
 ひょっとして、俺。

「……ここ、出るんですか?」
「ええ。ほんとはこんなところ一秒だっていたくないでしょうけど、もう少しだけ我慢してね」
 それにしても、遅いわね、と言って彼女は立ち上がる。触れた手は濡れていた。彼女のそっと拭った涙だ。

 …………俺は、あいつらに暴行されたと思われてるのか?

 椅子に座ったまま、頭を抱えてみる。
 ああ、どうりであいつがあんな、教祖を丸焦げにしようとしたり、男に触ったら怖いだろうとか言っていたわけだ。
 アルはそうは思ってないようだったが。

「ちょっとだけ様子見に行ってくるわね。ここに一人でいて、大丈夫?」
 遅い迎えを急かしに行ってくれるようだ。扉を開ける直前で、女性はこちらを心配そうに見ながら声を掛けてくれた。
「え? ああ、一人なのは別に…………」
 それより、ちょっとお願いが、と立ち上がろうとした時には、急いでいるらしい女性は、分かったわ、と言ってすでに扉の向こうだった。

 半分起き上がりかけたまま、閉じられた扉を見て茫然と固まる。
「あー」
 頭をぼりぼりと掻いた。
 まいった。別に俺はそんな急いで病院に行く必要もなければ、こんなところ一刻一秒でもいたくないわけでは全然ないのだ。
 それよりも。

 左手を上げて、手の甲を眺める。
 そこに填っていたはずの指輪。
 あの時フェルテンに投げ飛ばされて以来、どこにいったか分からない。そういえばなんで大佐、指輪で助けを呼んでいないのに来たんだろうか。
 このままここで待っていると、この部屋から連れ出され、もう戻っては来れないだろう。そもそもあの指輪は婚約指輪でも結婚指輪でもなんでもなく、サイゴンに潜入するために必要だっただけで、ええとつまりなくてもいいといえばいいわけで。

『君への結婚指輪のつもりで選んだんだ。君にその気はなくても』

「…………」
 あの時言われた、恥ずかしい台詞が蘇る。

『私は作戦ですませるつもりはないがね』

 あんな言葉達を思い出して、一人で赤くなっているなんて、かっこ悪すぎる。
「……なくて、いいんだけど」
 なくていいのだ。別に必要じゃない。全然全くさっぱりいらないし、きっとあのままゴミとして処分されるだろう。なんにしてもこのままだとエドワードの指に再度填められる事なんて、ないはずで。
 だが、なんだかそれが、とても不快だった。
 填めたい訳じゃないが、貰った物は大切にしなきゃいけないと思うのだ。うん、そうそう。一応あの状態の時に指に填ってた、そう、戦友ってもんで。
 決して決してあいつが恥ずかしい台詞を言いながら嬉しそうに俺に填めたからなんて理由なんかじゃ全然ないったらないんだけど。

 がた、と椅子を揺らして立ち上がった。
「あー! もう!」
 痛い足を引きずって、扉に向かって走る。
 どうしても駆けることはできないが、部屋の場所は覚えている。壁を伝っていけば辿り着くだろう。

「別に指に填めなくてもいいし」
「持ってるくらい、黙ってりゃわかんねえよな」

 一人でうんうんと頷きながら扉を開ける。
 まるで逃げ出すみたいにこそこそと顔を覗かせたが、廊下は軍人達が忙しそうに闊歩していろいろと運んでいるだけで、エドワードの事は視界に入っていないようだった。
 あのお姉さんが帰ってくるまでに、戻ってくればきっとばれない。
 だって、ほら、もったいないしさ。
 なんかに使えるかもしれないし。
 ……捨てられるくらいなら、貰った方が。
 言い訳がましいと突っ込む声をとりあえず銃殺しながら、エドワードは部屋をそっと逃げ出した。

 いつもなら一分もかからず着く距離なのに、壁に寄りかかりながら歩いたのでかなり時間がかかってしまった。
 そしてなんだかところどころ焦げ臭い上に真っ黒に変色している。
 通路で焔をまき散らしながら歩いてきたと思われる誰かさんのせいだろう。なにもそこまでやらなくても。
 さっきまで監禁されていた部屋に辿り着いてみると、扉は開いていて、中では数名かの軍人さんが戸棚を開けたり、床に線を引いたりしている。
 ひょこ、と顔だけ覗かせてみると、大佐はいなくてほっとする。
 アルフォンスがぶち切った鎖もそのまま、床に転がったベッドのシーツは焼け焦げをつくったまま、まだ湯気を出している。
「お? 嬢ちゃん、どうしたんだ?」
 入り口で立ち止まっているエドワードに、座ってメモ書きをしていた初老の軍人が声を掛ける。
 その声で全員がこちらを向いた。
「あ、あの……この部屋に、指輪なかった?」
「指輪?」
「そう、こう、指に填める小さい銀色のシンプルな奴」
 左手の薬指を指さすようにして説明したら、部屋の中の軍人達の動きが固まった。
「なくしたのはこの部屋かね」
「え、あ……うん」
 頷くと、さっきまでだらだらと仕事をしていた軍人達は一斉に床とか引き出しを開け始める。
「そりゃ一大事だ!」
「嬢ちゃん、どういうタイミングで落としたか覚えてないか?!」
 なぜか蒼白になった軍人達は一人は床に這い蹲り、一人はエドワードに唾を飛ばしながら声を掛ける。
「え? えーと、ベッドから投げ捨てられた。俺、どこに投げられたか見えなかったからわかんないんだ」
 あはは、と笑って誤魔化したが、その台詞がどれだけ軍人達の脳味噌に衝撃を与えたのか分かっていないらしい。

 ベッド。投げ捨てられた。しかも自分は見ていない。

 イコール、少女は婚約指輪を第三者の男に捨てられた上にこのベッドに押し倒されたと言うことだ。
 それは事実ではあるのだが、実際はその後可憐(そうにみえる)少女が殴り倒して鎖で縛ったわけなのだがそんな風に今のエドワードが見えるわけがない。
 その上足を引きずりながらここまで指輪を探しに来たとなれば、彼らの意気も高揚するというものである。

「待ってろ! 絶対見つけてやるからな!」
「嬢ちゃんはそこの椅子に座ってろ!」
 ずい、と椅子を引かれて促される。
「え、いやいいよ俺も探す」
「駄目だ!」
 あんまり時間がないので、自分も手伝うと言いかけたのに軍人全員に怒られた。
「足怪我してるのに。いいから座ってなさい。見つけてやるから!」
 足を怪我しながらも健気に婚約指輪を探そうとする少女、というオプションまでついて、軍人達はそっと涙を拭いそうになる。
「や、悪いよ。だって俺の指輪なんだし、俺が……」
「あった! これじゃないのか?!」

 それでもなんとか手伝おうとするエドワードに、歓喜に満ちた声がかかった。
 端の方で何も喋らず一人黙々と箪笥の下に手を突っ込んでいた青年軍人が、指輪を持って高く掲げる。
 すがすがしい笑顔と共に見せられた指輪は確かにロイに貰ったそれだった。
「ああー! それだそれ! わー! ありがとう……!」
 痛いのも忘れて駆け寄る。
 満開の笑顔のエドワードに、誇らしげに軍人は指輪を手渡し、エドワードはぎゅう、とそれを両手で握り締めて微笑んだ。
「よかった……ありがとう」
「いいえ、そんな、どういたしまして!」
 美少女に見上げられてお礼を言われて嬉しくない男性などいないだろう。その少女が他の人の物だと言うことに一抹の寂しさを覚えながらも、達成感と誇らしい気持ちで若い軍人は頭を掻く。
「よかったなあー」
 最初に声を掛けてくれた初老の軍人も感慨深そうに言ってくれて、エドワードは彼にもうん、と言って頷いた。

 よかった。なくしたらどうしようかと思った。
 これで後は最初の部屋に戻って、知らんぷりして出てしまえばいい。
 大佐も別に指輪なんか探さないだろうし。どうした、と言われたらなくした、と言ってしまえばいい。持ってる、なんていったら指に填めろと言われそうで、なんだか嫌だった。
 もう一度探してくれた軍人にお礼を言おう、と顔を上げたところで。
「――――エドワード!」
 思わず肩が竦むような、叱責が飛んできた。

(続く)