黒の祭壇

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月に村雲、花には嵐 - 10(完結)

「……仕事じゃ」
 などと一応反論してみる。頭は初期化された生まれたての赤ん坊で、言葉は載せてはいるが理解していない。

「違う。そんな内容の仕事はない。あの時エドに与えられてたのは壊れた水路の修復だからな」
「どこかの馬鹿な奴が無理矢理連れ込んだとか」
「おまえ、あのエドを無理矢理連れ込める奴とかいると思うか?」

 言ってみただけだ。
 そうならいいなー、なんて思って。
 今度は、ハボックの方が頭を抱える番だった。

 落ち着け、俺。

 いや、いいよ。
 誰とホテルに入っても、いいよそりゃ。個人の勝手だよ。でも、まさか。あの子に限ってそんな。
  五感が麻痺して、煙草の匂い以外は分からない。
 まるで顔面神経痛になったみたいに、頬が動かせなかった。
 先ほどから背中は嫌な汗を滲ませて、意識は錆びた歯車みたいに回転数を落としている。

「質の悪い噂じゃねえよ。見た奴も一人じゃないし、写真に撮った馬鹿もいる」
「………なんでそんな」
 思わず二本目の煙草に手を出した。
 落ち着くには煙草だ、多分。
「しらねえよ。しらねえからみんな騒いでるんじゃねえか」

 ――――そう。

 彼女にはロイという恋人がいることを、みんなは知っている。それが浮気癖のある最低男(と思われているが)だったとしてもだ。
 だからといって、腹いせに他の男と浮気をするような彼女ではないと、誰もが理解しているのだ。

 彼女に対する失望?そんなに尻の軽い女だったのか?それともとうとうロイと別れたとか?いやいや、実は准将の性格に嫌気がさして浮気をしてやるって気持ちになったとか。
 それってなんだ、エドワードが思わずヤケになるくらい酷いことを准将がしたってことなのか?
 分からんぞ、案外旅先で一瞬に恋に落ちて。
 そんなの冗談じゃねえ!

 などと。
 さっきから男性休憩室では喧々囂々大騒ぎだそうだ。

「へー」
 他人事のように半目でブレダを見た。だが煙草を持つ手がどうも震えて仕方ない。

 あの。

 花のように笑う少女が、浮気?

 男とホテル?

「……ありえねえ」
 とてもゆったりと、時間が流れていく感覚がした。ありえないから認めたくない。けれど、同時に背後に今殺人鬼がゆっくり、一歩ずつ床を踏みしめながら近づいている気がするのはなぜだろうか。

「……ハボ。准将には言うなよ」
 ブレダの怯えたような声で、パチ、と視界がクリアになった。

「無茶ゆうなよ!」
 慌てて首を振った。それは無理だ、不可能だ。
「なんでだよ、こんなことばれたら…」
「―――――ばれるに決まってるだろ! こと大将の事で、准将の耳に入らない出来事なんてあるわけねえよ!」
 それに、絶対一人や二人は准将に告げ口する奴が出るに決まっている。

 とうとう振られた、ざまあみろと。

 言う奴が出るに決まってるのだ。確実に匿名で。直接言ったら死ぬからな。
 俺達が知っていることは、確実に准将も知ってしまう。それは覚悟しておいた方がいい。

 冷気が、身体に充満した。

 ―――――拙い。
 ハボックは昨日彼女に電話を貰った。
 准将は確実に、彼女の浮気疑惑を知っている。

 その二点から、導き出される結論が、余りにも絶望的で。

 ……大将、あの男は。

 我らが敬愛する上司は、大将と違って、恋人に対しては全く寛大ではないんだ。
 自分が浮気をしても、相手の浮気は絶対に許さない。
 しかも、ハボックは知っている。
 男が手も出せずに我慢をして我慢をして、それでも構わないと思ったのも全て彼女への愛情故で、彼女が他の誰にも手を触れさせないからこそ、許せていた行動なのだと。

 それが。

 自分は手を出せないのに、他人の手に導かれて抱かれたなどと。
 例えそれが真実ではなくとも、噂だっただけだとしても。
 ――――いや、もし、真実だったりなんかしたら。

 あの子は知らないんだろう。
 あの男が彼女のいないところでどれだけ冷酷になるか。
 手を出そうとした者が何人いて、そしてそれらが全てどのようにして潰されてきたか、男は絶対に言わない。ハボック達はみな、知っているので、誰もあの子に手を触れようとはしなかったのだ。

(大将、それは……)
 手ひどい、裏切りだぞ。
 本当は准将のことが嫌いか、憎いのではないかと思うほど。
 
 赤い熱気を纏って、発火布を手にして笑う男。
 いつもその腕は、彼女を奪おうとする者に向けられていた。
 だけどいつだって、その手は彼女に向かうことだって出来たのだ。
 しなかったのは、ひとえに。
 エドワードが准将を好きだと言うからで。

「あ……………!」
 どく、と音を立てた心臓は、時刻を告げる。
「い、今何時!」
 壁の時計を探す。
 知っているはずの場所が分からないことに動揺しながら灰皿に煙草を擦りつけて消した。
「お、おい、ハボック……!」

 笑う男の幻影が消えない。

 息をするのが辛かった。
 本能が、理性が、全ての事柄が危険だと告げている。
 今、二人を会わせては駄目だ。彼女は知らないのだ、あの男が、どんなに、それこそ狂気じみたほどの愛情で彼女を縛り付けたいのか。
 手に入らないなら殺したとしても、きっと納得してしまう。
 慌てたブレダに事情を説明する余裕もなく、軍服の上着を手に取った。
「ハボ! 突然……!」
「エドが帰ってくるんだよ………!」

『明日の夕方四時の列車で着くから、土産渡すな』

 電話口の明るい声。
 あの時にはもう、男とホテルに行った後だったりしたのか?
 部屋を飛び出て廊下を疾走しながら、ハボックは唇を噛んだ。
「…馬鹿野郎………!」
 駅に暢気に降り立ったりしたら、その瞬間に駅が炎に包まれたってきっと、おかしくないんだって。
 おそらく、彼女だけが知らないのだ。



 四時まで、後十五分。

(続く)