黒の祭壇

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Emptiness is conceived - 9(完結)

のどかな土曜日。

 部屋で先日入手した錬金術の本を読んでいたアルフォンスは、ぎぎぎ、とホラー映画さながらの動きでゆっくりと開かれていく扉の音を聞いて、首を回した。
 この部屋にノックも無しに入ってくるのは一人しかいない。
「おかえりー兄さ……」
 戸口で、俯いたまま呆然と立っているのは、我が兄、というかほんとは姉。
 今日はなんの気分転換か髪をおろして、服は昨日と一緒。
 片手はスカートの端っこをぎゅう、と握り締め、もう片方の手で目元をごしごし拭いていた。
「――――――――――にいさん!?」
「アルぅ……」
 べそべそべそと、あの兄が泣いている。
 よたよたと両手を伸ばして近づいてくる兄に慌てて駆け寄ると、小柄なエドワードはぼす、とアルフォンスに飛びついてきた。
 尋常じゃない。
 あの兄が、昔買ってた子猫が死んだとき並の大泣きをしている。
「う、う、う――――――――――」
 安心したのか、アルフォンスに縋り付くとわんわんと鳴き始めるに至ってはもう頭の中は大混乱で、高速回転。
 そんな小さな兄の背中を抱きしめたくとも、手が届かない。

「……どうしたのさ」
「うー」
 泣きまくっていては話にならない。
「なにがあったの、ねえ、なにかされたの?」
 やっとそこでまさか。という思考が入ってきた。
 そうだ、いくら錬金術があるとはいえ、今の兄はこの格好なのだ。
 アルフォンスから見下ろしただけで、兄の背中と項が見える。多分、男にはたまらないだろうその格好。
「兄さん! ちょっと! 泣いてちゃわかんないよ! なにがあったの!」
 縋り付く身体を悪いと思いつつ無理矢理引きはがして、肩を揺さぶった。
 目は真っ赤に腫れていて、涙が次から次にぽろぽろとこぼれ落ちる。アルフォンスにしてみればかわいそうで見ていられないのだけれど、それに欲情する男の方が、多分――多い。
「……なんで、俺泣いてるの」
「しらないよ! 教えてよ!」
 エドワードはそこにいたって泣いている事実に今気がついたとばかりに、ぽかん、としたまま、そんなことを言った。
 とりあえずこの様子ではアルフォンスの想像する最悪の事態にはならなかったようだ。ちょっと安心した。
「……おかしいな、こんなこと、なんでもないと思ってたのに。なんだかすげえ泣けて」
 ぐしぐしと鼻を啜りながらエドワードは目元を擦る。
 目に傷がついては溜まらない、とアルフォンスはその手首を取った。
「なにがあったの」
「大佐が……」
「――――――――――なんだって!」
 よりによってあの男か。
「大佐がいるから大丈夫だと思ったのに! 逆だったの!? まさか、ばれちゃったの!?」
 だったらあの男のこと、ここぞとばかりに既成事実を作ろうとしてもおかしくない。
 己を構成する鋼の成分が軋みを上げて、火花を散らしているかと思う。それはきっとこの激情する怒り故だ。
 いつも元気で、なんでもないから、と首を振るけれど。
 たしかに兄は強くて、奔放で心配はしていないけれど、アルフォンスがいない時を狙って、酷い目に遭わされそうになったことだって何度もあるのだ。
 アルフォンスにとってエドワードというのは、本人には絶対に言えないけれど守りたい宝物のようなところがあって、その点軽口で姉を口説く大佐は、絶対にほんとのほんとに姉が嫌がることはしないと思っていたから、信頼していたのだ。

「ふふ、ふふふふふ」
 ――――それを、裏切られた。
 ええと、手っ取り早く半殺しにするのはどうすればいいのかな。
 いろいろな方程式を頭の中で組み立てる。
 普通にするとつまんないから、なんかもう少し溜飲が下がる方法はないだろうか。
 ぶっそうだと言うことには気がつかず頭の中でたくさんの悪巧みをひとしきり考えた後、素晴らしい考えに思い至って、ぽん、と手を叩いた。
「そうだ、兄さん、大佐を囮にして、スカーをおびき寄せるって言うのはどう?」
「……はは、アルフォンス、それ、いいかも」
 兄さんは冗談と思ったらしく、微笑んでアルフォンスから離れると、ベッドに置かれたタオルを手に取る。
「ばれたわけじゃないと思う。あいつ最後まで俺の胸作りもんだと思っていろいろ考えてたし」
「……な。」
 つまり、それって。
 ごしごしと泣きはらした顔をタオルで拭いて、ふう、と息を吐き出すとベッドに座り込むエドワード。

「人の胸、揉みまくりながら、すごいな、どうやったらこんな真に迫った胸が作れるんだ、まてよ、乳房というのは9割が脂肪なんだからその辺の市場でぶつ切り脂肪を買ってくれば作れないこともないのか。問題はこんな形に綺麗にすることだが、とかなんとかずっと言ってた」
「………」
 唖然。
 これはなんだ。鈍い大佐に感心すればよいのか、人の姉の胸を揉みまくったことに文句を言えばいいのかよく分からない。
 だって、その様子はどう見ても、不埒な考えがあるものではなくて、単に知的好奇心でしかないではないか。
「一発殴って錬成して走って逃げてきた。ここに帰ろうと思って走ってたらなんかどうしようもなく泣けてきて。なんでか分からないけど」
 じゅん、と鼻を噛むと、服をばさばさ脱ぎ散らしながらパジャマに着替える兄。
「……寝る。なんかどっと疲れた」
「うん、その方がいいよ」
 てっきり大佐にばれたのかと思ったアルフォンスは、どうやらそれが杞憂だったと知ってほっと胸をなで下ろす。

 (大佐……鈍い)
 女性には不自由してないと言い切る割には人の胸が本物か偽物かも気がつかないのか。さすがに大佐のその行動が不埒な目的のためのものだったら、兄がなんと言おうとも顔の形が変わるまで殴ってやろうと思っていたが、単純に錬金術師としての興味の話だったらしいので、あまり文句も言えなくなる。
 自分達とて、興味深い錬成物が目の前にあればとりあえず触ってみていろいろ考えてしまいそうな気がするからだ。
 だが、分かってはいるが気が収まらないのは己でもシスコンだと理解している。

 だって、泣かせたのだ。
 手足を失って以来、機械鎧のリハビリでも泣かなかった兄が泣いたのだ。それこそ体中から絞り出すようにして泣くなんて、考えられない。
 人のたった一人の大切な身内をそこまで壊したのだと理解すれば、無いはずの目は灼かれるように痛んだ。
 もぞもぞと布団に頭までくるまった兄を確認すると、部屋を出ることにする。
「……アル。大佐になんかしようとしてるなら、やめとけよ」
「――――なんで」
 ぎくりとして、ノブに廻した手が止まった。

 振り返ると兄は布団にまだくるまったまま姿は見えなかった。
「ここでおまえが叫ぶ方が変だろ。男ならつくりものの胸触られたところで、弟までが激怒する理由がない」
「…………」
 その通りだった。
 兄さんが文句を言う分にはいくらでも言い訳も立つけれど、弟までがその事実を知って大佐に詰め寄ったならばそちらの方がおかしい。女性でなければ胸を揉まれたとてそこまでの問題ではないのだろう。それも、エドワードの話を聞くにあの時の大佐は変な目的ではなく、単純に学術的興味なので。
 錬金術師としてその気持ちは分からないでもないだけに。
「……わかったよ、兄さん」
 口ではそう答えたけれど納得はいかない。

 とりあえず、大佐にばれないやり方の報復だけは何個か思いついたので、それを実行しようと部屋を出た。

(続く)