黒の祭壇

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Emptiness is conceived - 12(完結)

「来ないですね」
「ああ。でも来るだろう。今まで集めた情報によると、必ず来る」
 両手を頭の後で組んで、大佐は運転席に凭れた。
 既に8時を何分か過ぎているが、エドワードに近づくのはナンパ男ばかりで、サイゴンの使いらしき人間は来ない。
「一体、何を聞かされるんだろう。僕たちが行ければいいんですけど」
 女性だけしか入れないと言うことが、切ない。姉のことなので、不埒なことをされそうになったら三倍返しだろうが、それでも見えないところで何かもしものことがあったら、とか考えてしまうのだ。
「まあ、聞いた話によると最初の問診を担当する男はセクハラ親父らしいがな」
 聞き漏らしそうな男のあっさりした言葉に、一瞬だけ対応が遅れた。

「――――なんですって?」
「動いた。出るぞ、アルフォンス」
 思わず身を乗り出した瞬間に、がくん、と車が一旦前のめりになる。
 間髪を入れず走り出した車に、思わず天井に手をついて、前を見れば、小さいワゴン車が姉を助手席に乗せて走り出していた。
 一定の距離を保ちながらそれを追う男に、ちらちらと横目で前の車を見ながらアルフォンスは叫ぶ。
「な、なんですかそれ、聞いてませんよ!」
「ん? 何がだね」
 男が軽く顔をこちらに向ける。
「セクハラって」
「ああ」
 すぐに前方に視線を戻した大佐が言ってなかったかな、と暢気な台詞を吐いた。
「べたべた身体を触ってくるらしいと言うのを耳にしたよ。診察なのかすけべ心なのか判断に困るが、おそらく後者だろう、と」
「な、それって!」
 唖然として、数秒後に蒼白。
 まて、あの姉の身体をべたべた触る不逞の輩がいるのか。聞いてない。知ってたらあんなところ行かせてなんかない。
 平然と運転する男に、灼熱の怒りが込み上げてきた。
「なんで黙って行かせたんですか!」
 先ほどその口でエドワードを愛してるとさらりと言い切った男が、身体を触られると知っていて、どうして彼女をあっさり行かせるのか。
 アルフォンスの怒りは至極もっともなことなのだが、ロイには分からない。
「鋼のにはそれは伝えてあるよ」
「……え?」
「まあ、腰を撫でられたり胸くらい揉まれるかもしれないが、頑張れ、と」
 激怒をますます煽る台詞に数分前の己の思考を殴りつけたくなる。挑むように睨んでも、前しか見ていない男には分からない。
「頑張れ、って……、大佐、兄さんが好きなんでしょう?なのに他の男に触られるのをどうして許可するんですか!」
「仕事だから仕方ないだろう」
 視線はあくまでも前の車。もう10分以上2台の車は北に向かって走り続けている。
「だいたい鋼のは男だぞ。あんな偽乳揉まれようが、腰を撫でられようが、そりゃあ気持ち悪いだろうが、それだけだ。その男とやらが彼の可愛さにでも欲情して変なことをしようとしたって、裸に剥けばその気も萎えるだろう……多分」
 その男は十代の女性にしか興味がないのだ、と大佐は言う。
 アルフォンスは存在しない脳味噌を抱えて座り込みそうになった。
 心臓があるなら、それはきっと今早鐘のように打っている。

『男だから』

 もっともな言い分だった。
 大佐は兄を少年と信じ切っている。たとえあそこでセクハラまがいのことをされたとて、相手も向こうが男と知ればびっくりして止めるだろうし、そもそもエドワード自身が傷つくなんて普段の彼を知っている人からしてみれば想像もしないだろう。
 脳に即座に浮かび上がる泣きはらした目の姉。
 大佐にあんな事をされて、あんなに泣いて、意味が分からないと嗚咽した。
 二度とこんな目になんかあわせるかと、抱けない身体を憎く思いながらアルフォンスは決意したのに。
 大佐が想像する男のエドワードなら、あそこで乳を揉まれたところで、ぶん殴ってせいせいした、と笑うのだろう。――――男なら。

 ああ、でも違う。そうはならないかもしれない。
 アルフォンスだとてそういう兄だと思っていたが、先日のあの態度を見ると、やはり身体を触られるということは、男の思う以上に女性にとってはダメージな出来事なのだと知ってしまった。
「兄さんは、それ……知ってるんですか?」
「全部伝えた、と言っただろう。嫌そうな顔をして、まあ、暴れないように努力する、と言ったよ。…次のアジトに連れて行ってもらう前に正体がばれるのは好ましくないからな」
 無理矢理首根っこをひっ掴んで居場所を吐かせたところで、その後乗り込むまでの間に教祖様とやらがそこに残っているかどうかは分からない。
 だからなるべくなら、教祖の居場所が分かるまでは派手な行動を起こしたくないと思っていた。
 それは、分かる、とても、よく…。
 だからこそ、兄は我慢するかもしれないと思った。身体を触られようが卑猥な台詞を吐かれようが。
 そしてそれを「男だから別にいいだろう」と危機感を全く持っていない大佐も、
 ――――当然、なのだ。
 本気で車から転がり出て前の車を体当たりして止めたくなる。

(どうしよう)
 強いようでいて弱いところがある姉だった。
 胸なんかいらない、邪魔、とか言いながら大佐に触られて泣くような。
 又泣いて出てきたらどうしてやればいいのか。そんな思いをさせてまで、自分は彼女に守って貰わなければいけないのだろうか。
 自分はずっと姉を兄扱いしてきたと思う。それでも問題なくやっていけていたし、女性扱いすることを姉は拒んだ。そしてあまりにも普段の態度からは女性らしさが欠けていたから。アルフォンスも時折姉の性別を錯覚しそうになるくらい普段の様子は少年だった。
 この前、泣きながら帰ってくるまでは、それでいいのだと思っていた。
 でもやっぱり違う性では分からない部分があるのかもしれないとあの時痛感した。自分にとっては平気なことでも姉にとっては平気ではないこともあるのだろう。それがどのようなものなのか、アルフォンスには予想が出来なくて。
「大佐」
「ああ、もうすぐ着くな。ちょっと距離を離すか」
 前の車が右にウインカーを出す。すでにかなり郊外に来ていたため、このまま同じく右に曲がれば気づかれる可能性がある、と、大佐は速度を落として、直進するつもりらしい。

 男は、悪くない。
 こちらが何も言っていないのだから悪くない。いくら兄さんのことを好きだと公言しているからとて、いや、それを男性として認識しているからこその行動だ。アルフォンスにいちいちそれを伝えなかったのはエドワードが伝えてくれるだろうと思っていたからだろうし、エドワードが伝えなかったのはこうしてアルフォンスが心配するからだろう。

 なんだか、全てが最悪の目を出している気がする。
 各々が、精一杯、自分に出来ることをしていて、誰も悪気はない。
 だが、たった一つ、大佐に隠しているそのことのせいで、大佐の行動が姉を守るという方向に向かわないのだ。
 守る必要なんか無い存在だと思っているのだろうし、それは正しい。けれど、今回のように女性としての弱点を集中して突かれる場合は別なのだ。

 ――――ああ。
 どうしよう。

 大佐に言った方がいい、と心の中で囁くものがいる。
 言えば彼は血相を変えて止めるだろう。作戦は失敗するだろうが、姉は嫌な思いをすることがない。でも、姉はきっとアルフォンスに怒鳴る。命を取られるわけじゃなし、嫌なことぐらいたくさんやってきているのだ、それと何が違うんだ、ばかばか、と怒鳴って、きっと、殴る。
「……アルフォンス。降りよう」
 気がつけば、車は止まっていた。

 エンジンを止めて、車から降り立つ大佐に続いて自分も外に出る。ぱたん、と閉じられた扉と、その数10メートル先に見える屋敷。
「……私だってね、鋼のが腰を触られたりするのは正直剛腹なんだよ」
 大佐はその屋敷を見据えたまま、ぽつりと呟いた。
 途端、大佐の周りだけ空気が歪む。圧縮された悪気が、アルフォンスにまで伝わってきた。
「今は、あの格好だから余計にね。錯覚しそうになる。あの子は笑って気にしないだろうが、私は嫌だ。彼に……」
 触る者は、誰でも嫌だ、と。
 声にならないそれが何故か脳に訴える。びりびりとした震動が大気を震わせた。一人の男の短い言葉は、空気の中に淡々と染みこむ。

 ……知らなかった。
 この軍人は、これだけの独占欲を内に隠し持っていたのか。

(本気、なんだ……)
 ある意味呆れまで含めて大佐を見た。男は背中を向けたまま歩き続ける。こちらを一瞥もしないのは、気を抜くと荒れ始めるその黒い影を抑えるためだろう。
「まあ、鋼のになにかするようなら、後で私が消し炭にするから問題ない」
 アルフォンスの躊躇いに気がついたのか、男は振り返って、こちらを見た。
 その視線、切迫した表情に、アルフォンスの鎧を巨大な棒が貫く錯覚が襲う。瞳に宿るは、業火のごとき焔だ。

「君は、気にしなくていい」

 座り込みそうになるほどの悪寒。無いはずの身体が恐怖を感じている感覚。
 それほどに男の笑みは、容赦なく場を凍り付かせた。

 (この人に、言ったら)
 どうなるのだろう。ここまでの激情を、今の今までアルフォンスにすら隠し通し続けていたことに畏怖を覚える。
 男はエドワードの前でいつも甘い顔を見せているくせに、中にはこんな黒い熱情を溜め続けているのだ。時折、アルフォンスの前でそれを漏らしても、姉の前では絶対に見せまい。見せるときはきっと、男が本気になったときだ。
 兄が女性なのだと知られたら、男に躊躇う物は何もない。そんな気がする。

「大佐、もし、もしなんですけど」
「ん?」
 すでに男の周囲から黒いぬめりは消えている。屋敷の前に立って見上げる大人に、小さく疑問をぶつけてみた。
「兄さんが、女性だったら、大佐、どうします?」

「――――――――――は?」
「いや、もし、もしですよ!」
 最近あんな格好ばっかりしてるから、なんとなく、とか誤魔化しつつ言えば、鈍い男は先ほどまでの顔は何処へやら、ぽかんとアルフォンスを見上げた。
「……そうだな、後悔するかもしれない」
「…………え?」
 そう、答えが返ってくるとは思わなかった。

「女性だったら、あと五年してから軍に誘っただろうな。あの年で、こんな茨の道になんか誘わなかった」
 もう少し、身体が成長して、それなりに女性の体型になって。
 ホルモンバランスだって落ち着いた頃に、知識を得たエドワードという女性に再度スカウトに行ったかもしれない。身体を取り戻すなら軍に入らないか? と。
 エドワードが男だから、12の年でも手を引っ張ってこんな道に連れてきたのだ。この子なら、茨だって踏み越えると思ったから。
 女性の思春期は大切だ。無理をさせて、女性の顔に傷や、ましてや子を孕む機能を失わせてしまったりしたら、後悔してもし足りない、と。
 大佐のその言葉に、鎧が強張り動きを一瞬停止させる。

 痛切に、今始めてアルフォンスはあの時の書類不備をそのままにしていたことを後悔した。
 もしあの時大佐にきちんと正直に伝えていれば、この男は最大限兄さんを守ってくれたのだろう。
 自分達が言わなかったから。
 ……知らなければ、守りようもない。
(言ってしまおうか)
 言えば、兄は多分最強の盾を手に入れると思った。近づく物はこの焔が全て焼き尽くしてくれるに違いない。だが多分それを兄は望まず、自分こそが盾になろうとするのだろう、それも大佐のではない、アルフォンスの、だ。

 意識が膨れあがって、衝動が込み上げる。
 ありありと、その身を傷つけてでも自分の前に立って両手をあわせる少女がリアルに、妄想されて。
 ――――――――――視界が、極端に狭まった。
 身体が震える。それは、それだけは、嫌だった。
 言おう! 言ってしまおう! 後で兄さんに殴られるかもしれないが、これも全て兄のためだ!
 意を決して、俯いた顔を上げて拳を握った。
「大佐、あの! 実は!」
「まあ……鋼のが女性なら、とりあえずさっさと孕ませて婚姻届でも出すかなー」

 最悪のタイミングで虚空を見上げて言われたその小さい妄想さえアルフォンスに漏れていなければ。
 多分ロイが事実を知るのはもっと早かったのだろう。

(続く)