黒の祭壇

黒の祭壇

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月に村雲、花には嵐 - 20

 昼になった。

 朝食として用意した食パンは、もう一度焼いて、中に朝食で使う予定だったサラダを挟んだ。
 台所で、腰を手に当てて、ふむ、とロイはトレイの上の紅茶とサンドイッチとスープを眺める。

「こんなものか」
 いつまで経っても目を覚まさないエドワードに、朝食を振る舞うことは諦めた。
 時計はすでに十二時を越えていて、今までは寝ているのを起こすのは可哀相だったのでしなかったけれど、さすがに起きてもらおうと決意。

 トレイを手にして寝室に入ったら、そこに布団の上の膨らみはなくて、パジャマを着た少女が半身を起こして悩んでいた。

「鋼の。起きてたのか」
 声を掛けて近寄る。少女はロイの姿を確認すると、又俯いてベッドに視線を戻した。
「……食事を持ってきたんだが、食べられるか?それとも起きるならリビングに行くか?」
「……」

 返事はない。
 ベッド脇のテーブルにトレイを置いて、ロイはベッドの端に腰を下ろした。

「鋼の?」
 熱でもあるのかと疑って、額に手を伸ばす。エドワードは抜け殻のように虚ろだった。
 頬を撫でれば瞳を閉じるところを見ると、見えていないわけでもロイが分からないわけでもないらしい。

 でも、これではまるで昨日のことが忘れたいくらいショックなことだったように思えて。
 自分には後悔もなにもなく、幸せな記憶でしかないそれだが、エドワードがそうとは限らないことに今更気がついた。

 意識が数秒消えそうになる。
 心音は突然走り出したみたいに速く打ち始めた。

「はが……」
「――――ごめん」
 ロイの声を遮って、エドワードは心持ち腰を上げると戸惑うロイの背中に両腕を廻してきた。




「…………」
 わけがわからず、いつもなら反射的に背中に廻すその腕も止まってしまっている。
「は、鋼の……?」
「ごめん、俺、俺さ…、ひどいこと、言ってた」
「は?」

 優しい腕がロイを抱き寄せる。
 いつもとは逆の展開に、正直喜びよりも戸惑いが先で、狼狽した。

「あんなこと、絶対好きな奴相手じゃないと出来ねえ……」

 そっと離れたエドワードの手が、ロイの肩に置かれる。
 俯いた少女は、赤い頬を隠そうともせず、呟いた。
「あんな、何一つ防御することも出来ない格好であんなことして、そんなの、よっぽど好きじゃないと、よっぽど信頼してないと出来るはずなかった」

 経験は、数万の知識より尊い。
 知らなかった、とエドワードは愚痴る。

 起きてから、ずっとそんなことを考えていたのかと呆然。あの、虚ろな表情はそのせいなのか。
「……そんなの、当たり前だろう」
 ロイにとっては、今更常識みたいなもので、だからエドワードの言葉に不思議な気持ちになる。
 だがそのロイの台詞に、エドワードは又萎縮したのか震えた。

「うん、だから……それが、身体だけ繋がったって意味がないって事を、知らなかった自分が」
 ごめんなさい、と再度エドワードは呟く。

 するり、と。
 その言葉で数ヶ月間身の内に巣くっていたロイの中のどうしようもないいらいらは、消滅して役目を終えた。

「幻滅なんか、するはずがないんだ。好きな人相手ならそれがなんでも。もっとあんたを信じれば良かったのに、俺、きっと信じてなかったんだ」
 エドワードが伸びをして、ロイの瞼の上に口づける。
 まるで、謝罪と感謝と親愛のキス。
 今度こそ本当に心臓が止まりそうになって息を止めてしまったロイに視線を絡めて、エドワードはロイの両手を包み込んだ。

「……俺が、大佐ならなんでもいいって思うんだから、大佐もきっとそうだったのに」
「…………」
「俺、大佐にひどいこと、強要してた」

 手に触れる熱に、なんだか泣きそうになった。
 今までの漠然とした不安が形を変えて声になり、自然と漏れる。

「……他の女を抱けばいい、とそういう問題では、ないんだ」
「うん」
 何度も伝えた言葉。今までは伝わってなかったそれ。

「君以外の相手だと、気持ちよくなんかなれない」
「うん、そうだな。……俺も、あんたとだったら、またしたい」

 はにかむようにエドワードは笑って、その手は離れた。
 最後に聞いた言葉は、朦朧とした意識でもしっかり捕らえて頭の中で再生される。
 己の欲深さに情けなくなった。
 
 何ヶ月もかかって、やっとエドワードに届いた言葉。
 伝わらないもどかしさで、やけのように女を抱く必要はもうないのだ。
 これからは、押し倒したときにあからさまな拒否の視線で見つめられることも、渾身の力で抵抗されることも、ない。

「……大佐?」
 黙り込んだロイに不安に思ったのか、おそるおそる覗き込んでくるエドワードを抱きしめた。
 体温が、まるでお風呂のお湯のようにロイの中に染みこんで広がる。
 エドワードの鼓動が肌を通して伝わってきて、まるで自分と一つの生き物みたいに錯覚した。
 幸福に陶酔して、蕩け落ちそうだ。
 離れたら消えてしまう夢のような気がして、エドワードの肩に額を埋める。

 ……軽く触れるくらいなら、と思っていたけど。

 多分、もうそれではすまないなと自覚。
 昼飯とどちらを先に食べようかなどと、不実な事を考えている男の気持ちも知らずに黙って抱きしめ返すエドワードを少しだけ哀れに思いつつも、手を緩める気など、毛頭ないのだ。 

(続く)