黒の祭壇

黒の祭壇

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Emptiness is conceived - 25(完結)

 そもそも、本当にこの男が妙なことを考えているのなら、あのアルフォンスがエドワードが一人でロイの部屋に行くことを許可することなどないはずで。

 だからきっとこれは俺が妙に考えすぎているだけなのだ。
 そうだそうだと己に言い聞かせて、男の後に着いて部屋に入る。
 ロイはエドワードに適当にその辺に座れと促すと、部屋の端に置いてある自分の鞄の中を漁り始めた。
 適当にと言われても。と、うろうろ視線を彷徨わせたが本能的にベッドの上に座るのだけはやめた方がいい気がしたので、椅子を引いて座った。

「ああ、あったこれだ」
 男の小さい声がして、エドワードは顔をあげる。
 右手に何かを握り締めているロイは、エドワードの向かいにある椅子を引き、自分も座った。
 ホテル備え付けの机を挟んで二人向かい合う。
 なんだか妙に緊張して、自然と背中が反った。

「な、なに」
「手を出しなさい」
「え?」
「手」

 ほら、と促すように男の右手のひらがこちらに向けられる。意味の分からないまま右手を出そうとすると違う、と首を振られた。
「左手だ」
 今度はエドワードの動きなど待たず、身を乗り出した男が勝手に人の左手首を掴む。
「ちょ……!」
 そのまま少し腕を引き寄せられて、少し尻が椅子から浮いた。がたがたという椅子の動く音。
「なんだよ!突然」
 エドワードのその抗議には答えず、男は黙って左手に持ったそれを薬指に填める。

「……え?」
 あっさり手首を持った手は離され、エドワードは己の白い指に填った小さい指輪をまじまじと見つめた。
 装飾一つ無いシンプルすぎる銀の輪。指輪など填めたことがほとんどないエドワードにはなんだか指に当たる金属の感触が違和感だ。

「……なに、これ」
「発信器だ。明日は私たちはあの場所に入ることが出来ないからな。万が一も考えて君は嫌かも知れないがつけさせてもらった」
「……へー」

 特に嫌ではない。大佐やアルがそういうことをしたがるのも分かる。無鉄砲な自覚は少しあるが、無策ではない。
 これを渡すがために、俺は大佐の部屋に呼ばれたらしい。
 手を動かしてどこに発信器が内蔵されているんだろうと考え込んでいるエドワードの向かいのロイは、そんなエドワードの姿をどこか楽しそうに見つめていて。

「でも、なんで指輪?」
「他の物は取れと言われれば反論できないかも知れないが、その場所のそれだったら抵抗もできるだろう。どうしても手放したくないと駄々をこねればいい」
「なんでだよ」

 なんで左手の薬指にある指輪なら駄々をこねることが可能なんだろうか。よく分からない。
 首を傾げて大佐を見たら、男は顎を外しそうな顔で目を見開いていた。
「……知らないのか」
「?」
 困ったような声。

「……どうりであっさり填めるわけだ」
「??」

 疑問符だけが頭の中に増殖していって、エドワードはますます首を傾げる。
 向かいでは顔に手を当てて、溜息を吐く男。
 どうも俺だけ無知みたいに言うのは止めてほしい。
 ロイはまるで先生のように指を立てて、エドワードの瞳を見る。その眦は妙に穏やかで、どうもその裏に子供扱いがかいま見える。実に気にくわない。

「いいか、鋼の。左手の薬指というのは普通婚約指輪や結婚指輪を填める指なんだ」
「――へー…………え!?」
「君の設定を思い返してみろ。それは恋人の私が君にあげた婚約指輪だ。おいそれと外したくない物だという風に振る舞え。何があっても外すなよ。これがなくなれば、私たちは何かがあったときに君を助けることが出来ない」

 恋人。誰が。いやこいつが。
 嘘と分かっているくせに頭は攪拌されて気を抜くと湯気が身体から吹き出そうな気がした。

「た、助けなんかいらねーよ」
 咄嗟に、首を振りながらそう言ったのは、湯気を頭から散らすためだったのだが、男には否定に取られたらしい。
「……前、スカーに襲われたときに助けてやったのは誰だったかな」
 微笑みながらも、その口元は少し歪んで、全身からは穏やかなプレッシャー。
 男のあからさまな威圧に、ぐ。と息を詰める。
 忘れるはずもない、あの時エドワードを助けたのはロイマスタング様だ。

「鋼の」
 詰まったエドワードに気がついた男が、再度エドワードの左手を取る。
 そのまま生身の指を握りこまれて、心臓が収縮した。

(………しまった……)

 嫌なことに、俺と大佐は恋人同士(という設定)なのだ。
 俺はこいつに婚約指輪を貰ったなんて、現実ではあり得ない状況に身を置いているわけで。
 目の前の男は、少し目線を落としてエドワードの指を見ている。
 視線がこちらを見ていないことに気がつけば、安心した頬は一気に赤くなった。

(……やば……)

 頼むから、手首には触れるなと思う。
 そんなことをされたら必要以上に速い脈が絶対にばれる。
 近くで見れば、実は思ったより色が白いことも、彫りが深い事も、最近気がついたことなのだ。
 気がつくと、同時に心臓が故障することも判明しているので、わざと目線を逸らした。

「この端の部分に小さい突起があるだろう」
「…………」
 そう言って、指輪を撫でる手。
 なんか、その動きがいやにむずむずする。
「これを押せば、私たちのところに通知が入る。危なくなったら押しなさい」
「危なく、って」
 いいからその手を離してくれないだろうか。
 男はほら、と言って手を持ち上げると、指輪の脇にある小さい突起を指の爪で指し示す。

「ここだ、分かるな?」
「分かる、……けど」
 ぎゅう、と手を上から握り込められた。びっくりして顔を上げれば、男の顔は思ったよりも間近に存在していて、その瞳はやけに真剣だった。
「いいか、危険になったら絶対に押すと誓いなさい。くれぐれも何とかなるだろうと過信しないように」
「……わかったよ」

 理屈よりも何よりも、この男から離れたくてエドワードはしぶしぶ頷いた。
 そのままぐいぐいと手を引いてなんとか離れようとするが、男は未だエドワードを見据えたまま手を離さない。
 おかしい。用件は終わったはずだ。これ以上人の手を握り締める必要性などどこにもないはずなのに。
 なんとなく嫌な汗が背中を流れた。

「エドワード」
 滅多に呼ばれない名前を告げられて、緊張は最大まで高まる。突然部屋の空気までもが明瞭に感じ取られて、唾を飲み込んだ。
「な、なに」
「どうも君は信用ならない。繰り返すが、危なくなったら…」
「しつけえな、わかったって言ってるだろ!」
 手を離そうと振ってみるが、男はとうとう右手までも捉えて離さない。両方の手のひらを掴まれて、エドワードは動けなくなった。
 なんで、こいつこんなにしつこいんだ?
 なんだか泣き出しそうなエドワードに、ロイは容赦なく同じ言葉を繰り返す。
「わかった、じゃない。敬語を使え」
「わかりました!」
 もうやけくそになって叫んだ。
 だから離せと手を振っても、まだ男はお気に召さないらしい。
 いい加減にしてくれないと、赤いのが顔だけじゃなくて、手にまで伝染してしまうではないか。
 万が一にも己のこの恋心を見抜かれたらと思うとぞっとする。一番いいのはそれが分からない距離まで離れることなのに。

「誓えるな?」
「うん」
 駄々をこねてもきりがないと、あっさり頷いた。だが、ロイはむう、と唇を歪める。
「うんじゃない」
「はい、誓います!」
「――――よろしい」
 ぱ、と手が離れて、いきなり力を失ったエドワードはすとん、と椅子に落っこちた。

「ベールでも掛けてやれば良かったな」
「は?」
「いや、こちらの話」
「?」
 一転、幸福そうに微笑んだ男が満開の笑みでこちらを見ている。
 さっきまでの真剣さはどこへやら、いきなり部屋中に甘ったるい匂いが漂い始めた気がした。

「……、じゃ、俺帰っていい?」
「つれないね、せっかく婚約が成立したのに、もう帰るのか」
 やれやれと溜息を漏らされて脳が凍結した。
「…は?」
「その指輪は私がさっきホテルの下の宝石店で買ってきて錬金術で細工をした物でね」
 男は立ち上がると、硬直したままのエドワードの前に立つ。
「君への結婚指輪のつもりで選んだんだ。君にその気はなくても」
「んな……!」
 文句を最後まで口に乗せる前に、手が伸びてきた。

 しまった、と思う間もなく男の両腕はエドワードの横を通り背中に廻される。
 そのまま有無を言わさず脇に手が回り、引き寄せられた。
 抵抗する暇は与えられず、あっさりと自分の顔は大佐の胸に沈む。それはあまりにも迅速すぎる動きで、エドワードは何が起こっているかも分からなかった。
 自分が男の胸に押しつけるように抱き寄せられていると気がついたのは、奴が一連の作業を終わらせた後だ。

「うーん」
「うーん、じゃねえよ! 離せコラ!」
 まるで人の抱き心地を確かめるかのように男は呻きながら、人を抱きしめたまま静かに立っている。
 こちらばかりじたばたと暴れるのはきっと心拍数の違い故だ。
 きっと奴はこんなことなど何とも思ってないに違いない。エドワードみたいに赤くなったり青くなったり、腰が抜けそうになったり、男の胸板の厚いことに目眩を起こしたりしていないのだ。

「やはり気持ちがいい。君を抱きしめていると私はどうやら幸福らしい」
「……俺は息苦しい!」
「そうか、それはよかった」
「よくねえ!」
 飄々と躱される度に実感するのは、この男の自分勝手ぶりだ。今までならすぐに遠慮して離してくれたというのに。

「言っただろう。遠慮する必要はなくなった、と」
「――――――――――」

 びく、と肩が震えた。
 忘れかけていたその言葉の意味が、今になって形を成し始める。

「君は、息苦しいと言ったね。気持ち悪いとは言わなかった」
「…………」
 思考はじんわりと麻痺し始めているのに、心臓は危険を感じ取って速度を上げた。
 なんだか、自分の台詞は失敗だったらしい。まんまと男の罠にはまっていくようで。

「息苦しいのなら、少し離れればいいだけだ」
「あ…」
 言って、痛いくらいに押しつけられていた身体が少し離された。
 自分と大佐の間に出来た空間に待ってましたとばかりに空気が入り込む。それでも男の体温を感じる距離なのに代わりはなく、背中に回っていた手は、まだ肩に移動しただけだった。
 つまり抱きしめられてはいないまでも、男の腕の中であることはまだ継続中で。

 気持ち悪いわけがない。好きな男に抱きしめられて嫌だなんて思う物か。息苦しいのは確かだったから、ついつい口から出ただけだ。
 でも、多分、俺はそこで気持ち悪いから離せといわなければならなかった。
 咄嗟に嘘は出ない。口から漏れたのは本心だ。
 なんだか途方に暮れて大佐を見上げる。人の肩を掴んだままの男は、そんなエドワードの頼りなげな様子に肩に当てていた手をゆっくり頬に当てた。

「失敗したね」
「……な、なにが」
「私は、君が私に抱きしめられても気持ち悪くはないということに気がついてしまった」
「――――――――――!」

 違う、と否定するのは簡単だが、それを言っても嘘だねと一刀両断されるだけなのは分かった。ほかの言い訳を考える間にも男の手のひらはエドワードの頬を優しく撫でていて。

「キスされても気持ち悪くないかどうかを知りたくなるのは当然だと思わないか?」
「…………!」
 いつのまにやらロイの片手はエドワードの腰をしっかり掴んで固定していた。 
 悲鳴を飲み込んだのはみっともない声をあげそうだったからと、恐怖がそれを押しつぶしたからだ。鼓動は早鐘のように打っているが、それはまさか期待のせいだとかいわないよなと己の当てに出来ない心臓に愚痴て見る。
 そんな馬鹿なことを考えている間にもゆっくりと大佐の顔が降りてきて、エドワードは慌てて片手で男の顔を押し戻した。

「てめ……! このセクハラ男!」
「人聞きの悪い。婚約者だろう」
「そんなん作戦の一巻だろうが!」
 重力との攻防戦を繰り広げている間にも男は邪魔をされているにもかかわらず健気に抵抗する。

「私は作戦ですませるつもりはないがね」
「あ……!」
 開いた片手がエドワードの手を掴んだ。
 そのまま両手を大佐の手のひらで固定されて、男の顎から外されてしまう。
「……!」
 抵抗するものがなくなった大佐は満足そうに微笑んで、エドワードはなぜか息を呑んだ。
「あ……」
「諦めなさい」
 ゆっくりと降りてくる男の顔。抵抗するための腕は拘束され、腰はがっちり抱え込まれている。
なによりもだんだん近づいてくる大佐の顔が直視できなくて、エドワードはぎゅうと瞳を閉じた。
 だって、こんなの見てたら心臓壊れる。今でさえ意識が飛んで倒れそうなのに。

 そういえば前も一回キスされていたくせに、あの時と心構えが違うのは何でなのだろう。
 不意打ちで一瞬で離れていったあの時のキスと、今のではまったく別物なのだと、本能的にきっと俺も大佐も分かっている。
 それこそ大暴れして逃げ出せばいいのに、なんでこんなに硬直して緊張しているんだろう。

「鋼の」
 突然名前を呼ばれて、反射的に目を開けた。
 視界いっぱいに映ったのは大佐の顔。おそらく数センチくらいしか離れていない。しまった、目を開けるんじゃなかった、と思ったのになぜか瞼は降りてくれなかった。

「気持ち悪いなら、そう言ってくれれば、ここでやめておくけどね」
「………」

 喋る度に男の吐息が唇に当たる。
 どくどくと胸は鳴って、痛み始める。
 それこそ少し体勢を崩せばあっさり唇が触れそうな距離のくせに、やめておく、だと?

 ここまできて、そんな。
 それなりに覚悟をしたのに、今になって――――
 男の優しさなのかも知れないが、なんかそれ、あまりにあまりに自分勝手じゃ……。
 込み上げてきた物が破裂しそうになって、エドワードは知覚してしまった。

(ああ、俺――――――――――)

 こいつに、キスして欲しいんだ。
 抱きしめて欲しいんだ、きっと。

 こんな状態で、走りすぎの心臓が破裂して死んでしまうんじゃないかと思うのに、胸に倒れ込みたくて、自分が背伸びをしたくなる理由がそれしか思い浮かばない。
 今のエドワードにとっては、気持ち悪いと男に言うことの方がよっぽど難しい。
 男は自分の答えを待っている。ここで再度目を閉じれば、もうそれは了承の合図。自分で言ったようにもう大佐は遠慮はしてくれないだろう。
 結論の糸は遙か遠く。そこに辿り着くために走る気力は潰えている。

「大佐、あの」
 捕らわれていると思っていた手はもう外されていた。
 思わず左手で男の腕を掴む。
 決めてもいない結論を言いつのろうとした瞬間、ドンドン、と荒々しいノックの音が飛び込んできた。

 二人して、蝋人形みたいに固まった。
 視線を絡ませてはいる物の、そこには先ほどまでの甘い空気などない。
 特に男の反応は顕著で、びっくりしているエドワードの顔を数秒だけ見ると、はあ、と溜息をついて頭を掻いた。

「……もう十分経ったのか」
 あっさりエドワードの身体を離した大佐がドアの方に踵を返す。ドンドン、と扉を叩く音は鳴りやまない。

「大佐ー! 兄さんー! いるんでしょー!!! 約束の時間ですよ!」
 それと同時に聞こえてきた声は、愛しい愛しい弟の物だった。

「……もう少しだったのに」

 と愚痴愚痴と呟きながら男が扉の鍵を開けるのをぽかんと眺めて、エドワードは二人の間でなんの約束が交わされていたのかをようやく、知った。

(続く)