月に村雲、花には嵐 - 8(完結)
小鳥が鳴いている。
たいさーたいさー、と聞こえる気がするがおそらく間違いだろう。
鳥がそんな声で鳴くはずがない。
確信してロイは寝返りを打つ。
小さい溜息も、鳥にはふさわしくないので、おそらく間違いだ。
「大佐、起きろ、起きろってば!」
揺さぶられてやっと気がついた。ぐるぐる廻る視界で思う。
あ、これはロイの小鳥だった。
「いくら今日が非番だからってもう少し早く起きた方がいいんじゃね?」
ぶつぶつ言いながらパジャマにエプロンの少女がテーブルに次々と料理を並べていく。
ツナとベーコンのサンドイッチに、ポテトサラダにコンソメスープ。
起き抜けだというのに、匂いのせいで腹が減ってきてしまったロイはそれでも我慢をして台所とリビングを往復する小鳥を頬杖をついて眺めていた。
(……新妻)
とか言ったら怒るだろうから言わないが。
ピンクのエプロンはいつ購入したんだろう。前は少なくとも持ってなかった気がする。
昨日エドワードはロイの家に泊まった。
今までどおり隣の寝室だが。
まあ、情けなくも、夜ばいにでも来ないかなあ、とかアホな妄想をしたことも前はあったりするのだが、昨日あそこまで揉めたからにはそれはないはずで。
それでも少しは悪かったなと思ったエドワードが「抱いてください」とか言いながら枕でも持って登場しないかな…と期待していたというのは口が裂けても言えない。
今此処でそれを呟いたらこのほのぼの朝食はちゃぶ台ひっくり返し家庭内暴力に豹変するのが分かっているからだ。
最後にコーヒーを運びおえて、向かいに座ったエドワードと一緒に朝食を摘む。
向かいの彼女は日々どんどん美しくなっている気がする。
露を弾きそうな艶やかな金髪といい、成長してますます張りのでてきた肌といい、抱きしめたらまるで綿みたいに柔らかい身体といい。
吸いこまれそうな金の瞳で見つめられるだけで、へろっとなってしまう男が多いのは本能的に仕方がないのだろう。
手に入れたときは単純に嬉しかった。
絶対にいつか手にすると決めていたくせに、初めてキスしたときには緊張していたのだから笑わせる。
不安なんて、ない振りをして、初めてのキスで俯いて耳まで赤い彼女に冷静な振りをして微笑みながら、本当は心臓が早鐘のように鳴っていたなんて、一生言えない。
今だって、エプロンをして料理を運ぶ彼女の姿だけで、顔には出さないけれども心の中では抱きしめたくてたまらなくなっているだなんて。
そんなことを考えながら口と手を動かしていると、ほんの十分で料理はなくなってしまった。
ちら、と反対側を見れば、エドワードはまだ食事中。
「ありがとう。おいしかった」
食べ終わって言えば、子供は向かいで少しだけ頬を染めてレタスをぱくついた。
「いいよ…、ご飯作るくらい」
「君はなんでもすぐに覚えるな」
このコンソメスープにしたって、最初は生の人参を最後にいれていた物だが、今は丁度いい具合に味もついているし、前みたいに「美味しいかと思って」などと言いつつ砂糖を入れたりなんかしていない。
「だって」
フォークにつきささっているレタスはもう彼女の口の中には無いはずだが、やっぱりもぐもぐ口を動かしているのはおそらく照れ隠しなんだろう。
「やっぱり美味しい料理食わせたいじゃん。好きな人には」
「――――は? え、それは……」
「はいはいごちそうさま!」
問い返す間もない。
凄い勢いで立ち上がったエドワードは、ばばばばばっ!とロイの目の前の皿を奪取すると、そのまま台所に飛び込んでいった。
「あ……」
伸ばしかけた手が空中で浮いたまま、ロイは声を掛けることも許されず逃げる背中を見送る。
「あ~」
がしがしと頭を掻いて、椅子に再度座り込んだ。
多分今、あの子を追いかけて抱きしめれば、抵抗はしないだろう。首まで真っ赤になっているかもしれないが、首筋にキスするくらいなら怒るまい。
それ以上すると、あっという間に険悪になる。
単に、そういう事をしなければ。
ああいう方向に話のいかない、綺麗で透明な世界にさえ身を委ねれば、おそらく上手くいくのだ。
(結婚でも申し込んでみようか)
断らない気がした。
でも、最初に抱こうとした時も、断らないだろうと、ロイは勝手に思っていたのだ。 あの子の愛情はいつも感じていて、二人きりになった時、時々甘えたりする仕草も可愛くて、拒絶が返ってくるとは思ってなかった。
だから案外、絶対に嫌だと言われるかもしれない。
キス以上を許してくれないあの子のことだから、充分ありえるのだ。
もし本当にそうなったら、かなりロイは立ち直れない。
昨日みたいに、拒絶され、愛情を疑いそうになってもこうして朝、ああいう発言をするからロイには分からなくなるのだ。
どうして、と聞いたことは何度もある。
…………答えは今まで一度も返ってこなかった。
エドワードが台所から戻ってきたのは、それから五分後。
エプロンを外しながら、コーヒーを飲んでいるロイの側までやってきた。座るロイの前で、困ったように立ちつくす。
「思うんだけどさ」
「ん?」
ぼす、となぜか胸元に押しつけられたエプロン。
反射的に受け取って見上げると、ポニーテールを解きながら、少女はぶすっとした顔で呟いた。
「あんた、女をこの家には連れてこないの?」
「……は?」
君が今ここにいるだろう、と言いそうになるが、すぐにそういうことを言っているのではないと気がつく。
自由を得た彼女の髪が細い糸になってロイの視界を塞ぐ。髪を掻き上げる仕草が艶めかしいだなんて、気がついてもいないに違いない。
「それは、私の浮気相手の話か」
瞬時に、声が固くなったのはエドワードにはお見通しだろう。ロイも別に隠していない。
「そう。どうして連れ込まないんだ?」
「君は、ここに浮気相手がいてほしいのかね?家に連れ込むまでになればそれは本気だ」
「いて欲しいわけ、ねーだろ」
首を振った子供が、ロイの膝によじ登ってきた。
膝にかかった重みに、息を呑む。頬を紅潮させた少女は、ちょこんとロイの膝に横抱きに座ると、無防備にも胸に寄りかかった。
「……この家には、俺以外の女がいたら嫌だ」
「…………」
まるで針金に心臓を絞られるような感触に、一瞬腕が動かなかった。
暖かい肌。自分から密着してくる身体に、まるで親に抱かれたみたいに目を閉じるエドワード。
内臓に迸るのは、言葉に出来ない彼女への愛情だ。
失ったら自分がどうなるか、考えたくもない。視界が揺れるのは眩暈のせいなのに、それすら心地よい。
伸ばした手で、腕の中にエドワードを閉じこめると、安心したように彼女が小さく息を吐く。
のどかで、ゆったりして、愛情を見せてくれる恋人と過ごす甘美な時間。
分からないことはたくさんあるし、エドワードが理解できないことも多いけれど。
「君が、男の子の格好をしていたのは一年前までだったな」
「ん?」
少しきつく腕を廻せば、見上げてくる甘えた恋人。
もう、それだけでいいかと、思えた。
「……まだ、一年か」
この子が、女性として生き始めてからまだ、二年だった。
だから、そうだな、こうして無防備に膝によじ登ってきたり、甘えて擦り寄ったりする、せいぜいその程度の恋愛なのは仕方がない。
普通の十八歳と違うのだ。
この子はまだ一歳で。
それを普通の女性通りに捉えた自分が間違っていたのかも知れない。
(…………長い目で、見るか)
そもそも、少女をいつまでも少年にさせていたのはロイであって。
この現状も自分に一端の責任があるのだろう。
「でも、キスぐらいはいいか」
「ん? なんか言っ――――――――――」
聞き漏らして、彼女が顔を上げた瞬間に、吐息ごと塞いだ。
震えた身体は、ロイを押し戻そうとして、数秒の躊躇いの後、ロイの服を掴んだ。
その、言葉にはしないけれど、仕草のあちこちにみえる許諾と親昵に。
脳のどこかが朦朧と、酔った。
(続く)
