月に村雲、花には嵐 - 14(完結)
「おはよう」
ぱちぱちと、目をしばたかせながら、横になった少女がシーツに埋もれている自分の手首を眺めているのが目に入る。
どうやら、目の前の光景が理解できないらしい。
動かないまま、その瞳がおずおずと上に向けられて、ベッドに腰掛けたロイの顔まで到達したところで、エドワードは慌てて身を起こした。
「え……え?!」
きょろきょろと辺りを見渡して、場所を確認する。
そんなエドワードをどこか滑稽な気分で見ている自分。
不思議だ、いつもなら愛しい仕草の一つ一つに、なんだかもう、全く心が動かない。
愛を失ったわけではないのに、どこか実験動物を観察するような気分になってしまっている。
「大佐の家……?なんで……?」
彷徨った視線が、ロイに絡む。
エドワードはその瞬間、あり得ない物を見たような顔で硬直した。
「……大佐?」
怯えたような彼女の声に、ロイの方こそ不思議に思う。別に何かをしたわけではないのに、なぜ私の顔を見た途端に、エドワードはこんなに絶望的な顔をするのか。
「……どうしたんだよ、あんた」
「何が」
答える声は恐ろしく固くて、それはエドワードにも伝わったらしい。さっと顔を強張らせて、一歩後じさった。
「なんか……変、じゃねぇ?」
「そうかな」
ロイには自分の顔など見えないから、エドワードがなぜこう怯えるのか想像がつかない。般若みたいな顔をしているとは思えないし、きわめて冷静なつもりでいるのに。
なのに、エドワードは、ぽつりと
「顔が、能面みたい」
と呟いた。
ああ、と頭の中で豆電球。
そうか、そんなに感情のない顔だったのか。
「君に話があったので、家まで連れて帰ってきた」
溜息をつきながら彼女の疑問に答えれば、少し納得したのかベッドの上で足を正すエドワード。
「説明して連れて帰るのが面倒くさくてな、抵抗されるのも手間だし」
「――――――――――」
今まで彼女には言ったことなどない、乱暴な言葉の羅列に、少女はますます縮こまる。
いつもなら、そうではないと宥めるのに、もうどうでもよかった。
ただごとではない、どこかおかしいと、流石にエドワードも気がついたらしい。不安そうな顔がロイを伺っているのが分かったが、別に心は泡立たなかった。
面白いな。心が機械になったみたいだ。
軍部でふぬけの将軍と渡り合う時、こうして脳髄を計算と、解析に浸す。それ以上の感情は必要ないからだ。
エドワードと居るときにはそんな計算なんて必要なかったのに。彼女の前で脳髄がギアを切り替えることがあるなんて、思っても見なかった。
「……本当は手足を拘束して詰問してやろうかと思ったのだが」
「え?」
「――――やめた。君がここで逃げるなら、もうそれまでの話だと思って」
「え、大佐?」
ロイが発言すればするほど、エドワードの声が焦りを帯びた物になっていく。
鈍い子供だと思っていたが、ロイが自分に向ける感情を変化させたことには、流石に気がついたのだろう。
怯えると言うことはそれなりにやはり自分のことは好きなのだろうな、ただ、ロイが求める物とはちがっていたが。
それは己のせいだと、それを教えなかった自分のせいだと思うことにして、まだ立ち上がるのを堪えた。
「……君は、私に浮気していいと言ったが」
ぎゅう、とベッドの上の拳を握り締める。忘れたはずの人間らしい感情が、流石にこの言葉を言う前には戻ってきてしまった。
「私は、君に浮気をしていいなんて言ってない」
「――――――――――え?」
その瞬間、彼女は本当に意外そうに、唖然とロイを見た。
ので――――――――――もう。
誤解かどうか、とか聞く理性が消えた。
ぺち、という滑稽な音が静かな寝室に響く。
それでも、一応なけなしのなにかは残っていたらしい。
彼女の頬を叩く手は軽かった。
いきなり左の頬を叩かれた少女は、それでもまだ、信じられない顔をして、ロイを見ていた。
……自覚、ないのか。
天然も、ここまでくるといっそ凶悪だ。
知らないから許されると言ったものではない。いくら知識が乏しいとはいえ、恋人に他の女とのセックスを望むからには、浮気が何を意味するかくらいの知識はあるはずだろう。
少し赤くなった頬にゆっくり掌を当てて、へたりとシーツに座り込んだエドワードは、ロイの冷たい目を黙って見ていた。
起きたばかり、多分何が何だかよく分かっていないだろうに、この仕打ちを受ければ、泣き出したっておかしくない。
謝る気など、ロイにはない。
怒っていないと思っていたが、こうして無神経丸出しの少女を見ていて嫌でも分かった。
……なんだ、腹を立てているのか。
ただあまりにも腹が立ちすぎて、逆に頭の芯が冷え切ってしまっただけなのだ。
「……なんのこと?」
そんなロイを逆上させかねない言葉をエドワードが呟く。
冷え切ったはずの芯が、一瞬だけ熱を持った。
もう一度叩こうかと思うが、そこでさすがに誤解かも知れないという都合のいい感情が襲ってくる。
だって、あまりにもエドワードは無邪気で、本当に心当たりがなさそうなのだ。
だったら、こんな怒りなど馬鹿馬鹿しく、逆に今から土下座して謝らなければいけないだろう。
「……浮気?」
エドワードはロイの言葉をまるで、与えられた天の声を繰り返すかのように、反芻していた。
「浮気って、なに」
「…………」
なんだか、答えてやる気が一瞬で失せた。
そのくらい自分で調べろ、とか思う。優秀なおつむがついているんだろうに。
「他の男とデートしたり、キスしたりセックスしたら浮気だね」
当たり前のことを、とりあえず教えてやらなければいけないのは面倒くさいと思いつつ溜息を吐き出しながら答えた。
人に浮気をしてもいい、と言ったではないか。
なのに、浮気ってなに、だと?
本気だったら単に馬鹿だと思うし、嘘だとしたら単に性格が悪いだけだ。
「で、デートも?」
震える声がついてくる。
「そうだね、普通は」
当たり前じゃないか、と言おうとして顔をそちらにむけたら、一メートルほど前にいる彼女は、あからさまに泣きそうな顔をしていた。
ひやり、と嫌な冷気が背中に貼り付く。
こめかみに、氷が押しつけられたような感触。現実の光景から、一人だけだんだん離れていく錯覚。
この、瞬間まで。
今の今まで、これだけ心を冷たくしながらもそれでも。
まだ、まだ――――
信じていたのだ、それでもと。
「…………浮気、したのか」
「――――ごめん」
エドワードは、告解する罪人のように、弱々しい声を出した。
(続く)
