黒の祭壇

黒の祭壇

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Emptiness is conceived - 22(完結)

どれだけの間泣いていたのだろうか。
 目の前に脱衣所に転がしていたはずのタオルが突き出されて、嗚咽が止まった。

「……拭きなさい」

 やっぱり困ったような声で言われて、おそるおそる顔を上げた。
 大佐はどこか申し訳なさそうな顔で、ぽすぽすとエドワードの頭を撫でた。

「あ――――、すまない。からかいがすぎた」
「………………」

 ひく、としゃっくりが漏れる。
 男の気配が優しいのに安堵して、タオルを奪い取った。

「……、い、……、いいから、とっとと出て、けよ……」

 言葉が詰まるのはまだ喉が痙攣しているせいだ。
 奪ったタオルでごしごしと顔を拭いていると突然恥ずかしくなった。

「泣きやんだら、服を着てくれ。……困るんだ、目のやり場に」

 大佐の発言で、一瞬にしてその意味するところを知る。
 瞬きをしてそんなことをいう男の顔を見上げたら、なぜか大佐はそっぽを向いた。
 その顔が気まずそうで、頬は少し赤みを帯びていて。
 ……驚いた。男は照れているらしい。

「大佐」
「悪かった、ちょっと……確かめたかっただけなんだ。まさかあんなに泣くとは思わなくて。てっきり蹴り飛ばすものだと」
「――――――――――」
「本当にすまない」

 それは、男がやっぱりエドワードの身体のことに気がついたという証拠とも言える台詞なのに、不思議とショックはもう受けなかった。

「……なんで出ていかねえの?」
 目のやり場に困るなら出て行けばいいのではと突っ込めば、男はうう、と詰まった。

「君。出て行ったが最後二度と扉を開けないだろう」
「…………」
「なんだか、逃げそうで」

 男の指摘は正しかった気がする。
 今大佐が部屋を出て行ったら当分会わないだろう。そしてこちらも今を逃すとろくに話が出来ない気がしてきた。
 えい、と大佐の顔にタオルを投げつける。

「後ろ向いてろ。着替えるから」

 立ち上がって、目の前の男の胸を押した。大佐は素直に反対側を向いて、それが妙におかしかった。

 パジャマを着る気になれなくて、鞄の中から引っ張り出したのはTシャツとジーンズだった。
(……さらし巻かなくてもいいのか……)
 窮屈だった胸は大喜びしているようだが、複雑な気分になる。
 すっかり涙は引いて、先ほどまでの不安が嘘みたいだ。
 わあわあ泣いたので気が抜けたらしい。

 ……あっさりしたもんだな。

 こんなに簡単にばれるのか。
 着替えて部屋の方を向いたら男はベッドの脇に腰掛けて、律儀に背中を向けていた。

「……もういいぜ」
 ぱたんと旅行鞄の扉を閉めながら言うが、大佐は振り向かずに首を落とす。

「そうではないかな、とは思わないでもなかったんだ」
「?」
「……偽乳じゃなかったのか」
「――――、って! そこで手をまじまじ眺めるなよ!」
 右の掌を広げてじーっと見つめている大佐の行動に熱が上がる。思わずべし、とその掌をはたき落とすと、座り込んだ大佐が正面に立ったエドワードを見上げた。

「なぜ言わなかった?」
 少し哀しそうな微笑みに、心臓が鳴る。
 大佐はエドワードの左手を掴むと、己の額に当てた。まるで懺悔するように。

「軍に提出された書類を見間違えるわけがない。君は男性で登録されていた」
「だって、俺、男だし」
「――――あんなに胸も尻も出てるのにか?!」
「やかましい!」
 男が心底驚いた顔をしたので、あまりに天然ボケな台詞に思わず頭をひっぱたいた。

 殴られた後頭部に手を当てた男が、人の手首を未だ掴んだまま、狼狽えた顔をして、唸る。
「……どうも、駄目だ、調子が出ない」
「だからさっさと出てけよ」
「それは嫌だ」
 ぎゅう、と手首を掴まれる。離さないと言いたげに。

 なんだか困ったのはこっちの方だ。
 駄々をこねる子供みたいな大佐、今まで見たことがなかった。
 手を離してくれそうにない男に諦めの念。すとんと大佐の隣に座って見上げると、やっと大佐は手を離した。
 どう扱っていいか分からないと思っているんだろうなと、なんだかさきほどから自信の消えた大佐の瞳を見て思う。

 しかたがないことだ。
 軽蔑したり嫌がられなかっただけありがたいと思わなければならない。

「いくらなんでも、体型までは作り替えられないよな、さすがの君でも」
「当たり前だろ」
「なら」
「……説明、いるよな」
 と視線を向ければ男はこくこくと頷いた。

 変だなと思う。
 正直男は、怒るか、気味悪がるか、ひょっとしたら喜ぶか、その三つの内のどれかだと思っていたのだ。
 まさかここまで態度が変わらないとは思わなかった。

 話し終わったら、大佐は長い長い溜息をついて、
「……とりあえず、紅茶いれていいか」
 と言うと人の答えも聞かずに部屋に備え付けのバーでお湯を沸かし始めた。

「別に、酒飲みたきゃ飲んでもいいぜ」
「そんなことをしたら理性に自信がなくなる」
 あっさり返されて、意外に思った。数秒後に嬉しさが襲ってきて、慌ててあげた髪を下ろして手櫛で整える振りをして誤魔化す。
 よかった、と脳味噌が勝手に呼吸をしていて、情けない。
 嫌われなかったことが、こんなに嬉しくて、違う意味で泣きそうになった。

「君は男に戻るつもりなのか?」
 バーで紅茶のパックを開けながらこちらに視線も向けずに男が問う。
「親父が見つかればな」
 ホーエンハイムを見つけないことには、どうにもならない。賢者の石探しの合間に探してはいるが何処に行ったのかさっぱりわからず。
 優先順位は賢者の石なので、今はあまり真剣に捜索していない。

「産まれたときは男で、誰にも言うなと言われて育てば、隠すのもしかたがないか。……私はてっきり、自分が信用されていなかったのかと思ったよ」
 手櫛を通す手が思わず止まった。

「単に男で通した方が気楽だっただけだ」
「そうだろうな、いくらアルフォンスがいるとは言え、女性と知られたら君たちの旅には障害の方が多いだろう」
「軍には……」
「言わないさ。その方が君も私も多分都合がいい――ああ、でも」
 今気がついたと言わんばかりに、男は唇に手を当てた。
「女性だと言った方が、徴兵される可能性は下がるだろうな」
 誰しも戦場に女の子供を連れて行きたくはないものだ。

 紅茶を二つ手にした大佐がエドワードのところに戻ってくる。
 ほら、と乱雑に渡されたコップを受け取りながら、気になっていた言葉を漏らした。

「……なんか、かわらねえのな、あんた」
「ん?」
「もっと、怒るか気味悪がるか喜ぶか、どれかと思ってた」
 どす、と又隣に座った男がんー、と言いながら天井を見上げる。

「どれでもないな、ただ困っている」
「………」

 指先になぜか力が困った。
 さっきもそう言えば言われた。
 なくした恐怖はなんでこんなにあっさり復活するんだろう。さっきまで憑き物が落ちたみたいに冷静だったのに。

「よく、アルフォンスが許したな」
「え?」
「サイゴンに行くことをだ」

 ずず、と紅茶を飲みながら言う大佐の横顔を見た。
 激しくすっとばされた内容。でも分かってしまう己が恨めしい。大佐はいつでも一から十まで言わない。それは俺が理解できると知っているからだ。予測できる言葉をわざわざ言わないところがある。

「セクハラ親父に言い寄られる、と彼に告げたときに、あんなに動揺していた意味が分からなかったがそういうことか。兄ではなく姉なら、理解できる。君がなぜアルフォンスに伝えていないのか不思議に思ったんだ。……言えなかったのか」
「言えば、止めるだろ。あいつ優しいから」

 俺の身体なんか、どうでもいいのにと思う。
 けれど言えばアルフォンスはとてもとても怒る。だから口には出来ない。今日あったことも絶対に言えない。
 言えば泣く。弟の怒りは、涙だ。泣かれるくらいなら、嘘をついてしらばっくれた方がよっぽどましである。

 紅茶を最後の一滴まで飲み干して、息を吐いた。
 そろそろアルフォンスも帰ってくるだろう。
 なんだかどっと疲れたな、と思うのは泣きはらした目のせいだ。
 無性に怖かった。
 ばれたことで、この世が終わるのではないかと錯覚するようで。
 なのにやっぱり変わらず世界は廻って、男は何も変わらなかった。
 勝手に頬が赤くなって唇を噛む。

 ……畜生。
 なんでこんなに度量が広いんだこの男。
 捨てられなくなりそうじゃないか。いっそ嫌ってくれればよかったのに。

 先ほどまで、嫌われたかもと思って絶望に浸っていたくせに、勝手なことを考える頭。
 こんなに、普通の会話が出来るなんて、正直思っていなかった。

「さて、私は自分の部屋にいるから、アルフォンスが帰ってきたら呼んでくれ」
「………え?」
 空になったコップをひょい、と奪い、男は立ち上がった。

「さっき、軍部で新しい情報を仕入れてな、君に教えようとしたんだが、……まあ、あの時はどうもそういう状況ではなかったし」
「――――っ!」
 かあ、と正直に赤くなる頬は、ほんの数十分前に男に押し倒されたときの事を思い出している。

「あ、あれは……!」
「ああ、分かってる。本当にあれは私が悪かった」
 両手を挙げていなされて、ぐう、と詰まった。先手を打って謝られてしまえば何も言えない。
「もうあんなことはしないから。安心していい」
「…………」
 じと目で睨んだのは信用できないからだ。男の態度が変わらないと言うことは同じ事が起こる可能性だってないとはいえない。
「しないよ。本当に――同意がない限り」
 ぴし、と頭に亀裂が入った。
 それってなにか。同意があったらするのか?するつもりなのか?
 いや、でもこちらに同意の意思がなければ問題ないわけで、硬直する必要などない。断ればいいのだ、断れば。

「情報は、アルフォンスにも伝えた方がいいだろう。君だけに言ってもどうやらアルフォンスには伝わらない気がするからな」
 つまり、そういう内容の情報だと言うことだ。暗に理解して陰鬱たる気持ちになる。
 こちらの情報には人死にの話はでないが、大佐の側に入ってくる情報は死体に満ちている。
「後で連絡してくれ、……もう、追い出したりは、しないだろう?」
 核心的に笑う男に目を見開く。

「…………うん」
 男が何をも変わらない以上、エドワードが大佐を締め出す理由はどこにもない。満足そうに微笑む男は今までと全く変化がなくて、エドワードは戸惑っていることに気がついた。
 当たり前だ。想定してなかった。

 では、と服を正して男は部屋の入り口に向かう。
 その後ろ姿をぼんやりと眺めて、エドワードは己の中の不思議な感情に酔った。
 なんだろう、なんか……。
 妙な感じだ。嬉しいのか寂しいのか、分からない。
 結局俺は、どうして欲しかったのかな、と思う。

 ――――拍子抜け、したのかな。

 自分が思っていたより、たいしたことじゃなかったのだ、大佐にとっては。
 それは嬉しいこと? 哀しいこと?

「ああ、そうだ鋼の」
 ドアノブに手を書けた男が今思い出したように呟く。
「?」
「……すまなかったな。知らずとはいえ、押し倒したり揉んだり」
「……………………」

 忘れていたのに、余計なことを言わないで欲しい。
 思い出したじゃないか、無神経にもほどがある。
 別にいいよなんて死んでも言う物か。
 げんなりとしたエドワードの表情にも全く動じない男がくすりと微笑む。

「まあ、……覚悟しなさい。これからは」
「――――――――――へ?」
「私も、遠慮する必要がなくなった」

 では又、と言って扉はぱたんと閉じられて。
 なんだそりゃどういう意味だ何を遠慮だ、何を覚悟なんだと突っ込む時間も男は与えてくれなかった。

(続く)