黒の祭壇

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Emptiness is conceived - 21(完結)

不思議だった。
 もっとどきどきしたり泣きたくなったりするのかと思っていたのに、現実は全然そんなんじゃなかった。
 抜け殻のよう。
 全力疾走してゴールに着いた後みたいに、何も考えられない。
 ただ胸の真ん中に空洞が出来て、空気が身体を通り抜けていくような気がする。

 嫌われたらどうしようと、よく考えていた。
 大佐に軽蔑した瞳で見られるのは夢で魘されるほどの恐怖で。
 騙している事への罪悪感で、よく夢の中で俺はあいつに謝っていた。なのにどんなに謝っても、泣いても大佐は人を冷たい瞳で見て、去っていった。

 そんなのは―――夢だからと。

 目が覚めていつも思いこむようにして。現実になんかならないと己に言い聞かせた。
 でも、そのくらい傷ついた方が、未練がなくなっていいんじゃないかと、思い始めたのはほんの数時間前のことだ。
 男に処女かと聞かれてからだ。
 だから恐怖するのは、傷つくのはある意味納得。
 なのに変だ。そんなことすら考えられない。この身は機械にと思いこんだ為か。
 感情すらも凍結された。……いや、そんなものなど、ないのかもしれない。
 なにもない。心の存在が感じ取れない。
 機械になる為には、絶望すれば良かったのか。

「……鋼の」

 肩に顔を埋めていた男が上半身を上げ、エドワードの瞳を見つめてきても、まだ寝起きのように頭が動かない。
 ぽかんとした表情のエドワードに何を考えたのか、男がぺちぺちと頬を軽く叩く。
 まだ腰に当たったままの片方の手は外れていない。

「すまなかったな、少し急いた」

 よいしょ、と大佐はエドワードの上から退いた。無自覚に瞳はそんな大佐を追いかけた。なのに身体はぴくりとも動かないで、ぼんやりと空を見上げているだけで。

 言われている言葉が理解できない。
 何をすればいいかも分からなくて、ただ動きたくないとだけ脳が言う。
 どうでもよかった。なんでもいい。頭を空っぽにして、人形みたいに倒れていては駄目だろうか。

「……惚けてないで服を着なさい」
 あくまでも動かないエドワードに、一回溜息をついた大佐が背中に手を回して起こした。バスタオルの生地に男の掌の熱が伝わって、今更ながらに寒いと感じた。

「鋼の、そのままだと風邪を引くぞ?」
 服を着ようとした俺を押し倒したのは誰なんだろうと、ぼんやりと考えて、やっとそこまで思考能力が戻ってきたことに気がついた。

 ……ショックを受けてるんだ、俺。
 だからこんなに、打ちひしがれているのだ。

 ――――――――――ばれた、よな。

 どう考えてもばれた。
 あの行動は多分確認だ。そのまま何かをするつもりなのだったらこうして起こしたりなんか、しない。

 甘かった。
 考えてみれば女など何百人と相手しているだろうこの男が、あんな状態のエドワードを見て気がつかないわけがないのに。
 嘘を隠すのも方便を着くのも男の常套手段で、そつなくいつだってこなしていたじゃないか。

『で?これは何の余興だ?――――鋼の』

 唐突に、最初にこの町で大佐とあったときのことを思い出した。
 エドワードの髪をくるくると弄りながら、悪戯っぽい笑みで男が言うまで、気がついてない振りをずっとしていたなどと、エドワードには分からなかった。

 考えれば考えるほど、脳味噌は絶望的な結論を導き出す。
 というかもうこんな状態で大佐の横で茫然としているだけで身体はいくらでも見られるわけだし言い逃れも不可能だろう。

 項垂れるエドワードに痺れを切らしたのか、ベッド脇に立ち上がった男から巨大な溜息が漏れる。
 思わずびくりと心臓が飛び跳ねた。
 さっきまで忘れていた恐怖が又戻ってくる。
 困ったな、と言いたげな溜息は今の状況を男が歓迎していないとエドワードに悟らせた。

 見上げて、顔を見て、大佐が軽蔑するような表情をしていたら壊れるかも知れない。
 それでもいいはずなのに。
 アルフォンスのためなら大佐に何を思われたっていいと決めたはずではなかったか。
 なのにどうも内臓器官は正直だ。こいつらには本能しかないからなんだろう。
 空っぽの心に血液が通ると簡単に機械は人間に戻ってしまう。

「鋼の。早く服を着てくれないと、私も困るんだが」
「…………」

 困ると言われて、地面が歪んだ。
 先ほどまで決定打がなかったから、ある意味感情は宙ぶらりんだった。
 だけどこの発言で、男の思考の方向性を知ってしまう。

「……困るんだ」
 呟いたら、胸が軋んだ。

「困るんだ、……やっぱり、俺がこんなだと……」
 お腹の辺りで燻っていた火種が一気に喉まで上がってきた。
 腹に開いた巨大な穴は、溜め込んでいた空気と共に凍り付いたエドワードの脳を突き上げるように叩いた。

「……………っ!」
 後はもう、反射的に。
 押し出されるように涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。

 ごめんなさい、と。

 口に出すことは出来なかったけれど、頭の中で誰かが泣いていた。
 傷ついたりする度に泣く女を、俺は時々嫌な瞳で見ていた気がする。
 女の涙は卑怯だよなといわれて、頷いたこともある。
 なのに、そんな自分が一番嫌っていた事を今している。それでますます泣けて気がついた。

 そうか、これって計画的じゃないのか。
 勝手に涙が頬を伝うのだ。好きで泣いてるわけじゃない。
 止められる物なら止めたいのに、そう考えれば考えるほど止まらなくなる。

 今までの泣いていた女性達に心の中で謝った。
 きっとあの人達もそうだったのに、勝手に妙な目で見ていた。世の中には謝ることがたくさんあって、俺は多分何も知らないのだ。
  涙腺は壊れて、エドワードの脳からの命令を聞いてくれない。
 止めようと手で頬を拭っても、まるで蛇口から出る水で手を洗っているようにしか思えない。 
 掌までどんどん濡れて、こんなの、蛇口を閉めないと、止まるわけがなかった。

 思えば最近、大佐のことで泣かされてばっかりだ。
 胸を触られたり、気持ち悪いと言われて傷ついたり。
 みんなみんな大佐のせいで。

 ――――逆に、大佐のこと以外では泣いたことなんか、ない。

 目を擦っても、無視してこぼれ落ちるそれは、復活した感情が冷静に戻るまで続くのだろう。
 ひくひくと嗚咽まで出始める。
 頬を伝った涙が、太股のバスタオルに落ちた。せっかく乾いたのに、バスタオルが又濡れるなあと暢気にも思う。
 頭の中は感情が戻ったとはいえぐちゃぐちゃで、なんで泣いているのかすでに自分でも分からない。
 大佐の顔は恐ろしくて見れない。
 ただ、目の前の男が戸惑っている仕草なのは分かった。
 そりゃ驚くだろう。目の前でいきなり泣かれたら。

 ……ごめん、大佐。

 嘘ついた。あんたの愛情は時々強引だけど、基本的には優しくて、嫌な気持ちになったことなんか一度もなかった。
 向こうが誠実に、身の内をさらけ出してきてくれているのに、隠し事ばかりのこの身が嫌で。
 それでも真実を言う勇気なんてなくて。
 甘えてた。ずっと。
 事実を知っている弟と、ウィンリィ以外に誰か一人にだけ真実を伝えてもいいと言われたら、迷わず俺は大佐を選んだと思う。
 だって、軍に引っ張っていったのも、一番世話になっているのも、一番信用できるのもこの男だ。

 ――――なのに、きっと言えない。

 大佐だから言えない。
 ハボック少尉にも、ホークアイ中尉にも言える。大総統にだって言ってもいい。でも、大佐にだけは知られたくなかったのだ。
 ただただ怖くて。嫌で。
 
 長い旅をしていると、誰かに押し倒されたことは、本当は、何度かある。
 襲われたことだってある。でも怖いと思ったことは一度もなかった。ただ頭に来ただけで、三十秒もしない間に不埒な奴らは何人いても床に伸びた。
 両手を拘束されても、足が動けば蹴ればいい。手さえ動けば、両手を合わせればいい。両手両足を縛られても、頭突きをすれば一人は怯む。そしたら状況をひっくり返すのなんか簡単だった。
 風呂場に侵入された時は、裸でとっくみあいの喧嘩だって平気でした。
 両手両足が自由になるのに、押し倒されて震えて動けないなんて、この男以外ではありえない。
 大佐が奇妙に思うのも当然だ。自分だってそう思う。

 考えれば考えるほど、涙は言葉に出来ない感情の代わりに漏れて漏れて止まらない。
 自分にとってこの男は特別だった。
 認めたくないけど、もう気がついている。

 自分は大佐の前でだけ、どうやら女になってしまうらしいということに。

(続く)