黒の祭壇

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月に村雲、花には嵐 - 13(完結)

 ベッドにそっと横たえても、エドワードは目を覚まさなかった。
 車に乗せている間に目を覚ますことを危惧したがそれもなく、無事に家まで連れて来られてほっとする。
 後ろで編み込まれた髪は、車内の震動のせいで微妙に解けて、崩れそうになっている。三つ編みは昔から得意だったから、それをくるくるとまとめてピンで止めるなど、お手の物なんだろう。

 だけど、エドワードが編み込みを覚えたのはほんの半年程度前のこと。
 ロイの知らない間に、彼女は旅先でそれを誰かに教えて貰ったらしい。

「上手くできてる?」
 教えて貰ったけど、後ろだからよく見えなくて、と手鏡を持ってちょいちょいとうなじを無造作に見せてくる少女に、軽い悪戯のキスをしかけたりした。
 思い出すのは、柔らかな日差しみたいな暖かい記憶の筈なのに、今はそれがなぜかとても切ない。
 

 さて、どうしよう。


 最初にあの話を聞いたときは、頭の神経がすべて断絶していく様が知覚できた物だ。
 本当に怒りの沸点を超えると、不思議なことに怒りはあっさり薄れる。ストン、と何かが身体の中から抜けるのだ。限界を超越した先では、それは何か別のものに変化するらしい。気がつけば、最後には冷たい夜の月みたいな静寂が心に出現するのみ。
 ああ、堪忍袋の尾ってこうして切れるんだなあ、と思った。
 もっとむかむかしたりいらいらしたり腹が立つのだと思っていたのに。それすら飛び越して、ただ心の中は固まったセメントみたいに、硬直した。

 視界は、妙にクリアで。
 雑念は一切ない。
 騒がせるものは身の内から全て消え、それらのものが息を潜めて沈黙する。 司祭や、神父の心とはこのように凍結された世界なのだろう。

 そうか。

 ここまでコケにされるものなのか。

 いっそ笑いが出た。
 大好きだと彼女が言うから。それを信じようと思ったから、だから抱くことを許されなくてもそれでもいいと思えたのに。

 ベッドで眠る恋人を側の椅子に逆向きで座って観察しながら、ロイは頬杖をついた。
 変に肩を露出して、脇の下まで見えるような服でいても、そしてそのまま食べてくださいと言わんばかりに魅力的な寝姿で寝ていても。

 不思議と、情欲はもう起こらなかった。

 愛していないわけではない。ただこの身体が誰か他の人のものになったのだと思えば、自然と、興味が失せた。
 ここで無理矢理抱けば、多分自分は彼女の中での何番目かの男になるだけなんだろう。
 ロイにとってエドワードは何番目かの女ではなく、おそらく最後の女になるのに、彼女はそうではない。
 それを嫌でも理解してしまったから、興味が失せたのだ。
 唯一の特別になりたいのであって、何人かの内の一人になんかに埋没したいわけではない。

 他の男に身体を許しているとは思っても見なかった。
 指をロイのそれに絡めて甘える仕草も、恋人だからと言ってキスしてくるのも、全部全部自分だけに行われている物だと思っていた。

 ………ああ、なんか泣きそうだ。

 情けない。三十もとうに過ぎたのに、今自分は失恋ごときで、泣きたくなっているのだ。

 最初、それでも身を焦がし尽くした怒りはもう、なくなっていた。
 ただ静かな絶望と、諦めがあるだけ。

 絶対に触れることを許さなかった身体を、他の人間にあっさり与えて。
 浮気してでもいいから触れるなと言われて。

 なんでもっと早く気がつかなかったのか。
 エドワードは、ロイのことなど好きでも何でもなかったのだ。
 やっぱり、想像していたとおり、彼女の恋愛は愛ではなくて、ただの行き過ぎた保護者への愛情だっただけなのだ。
 わざとからかって遊んでいたとは思えないから、多分エドワードは本当に気がついていなかったのだろう。

 それとも、もし――――――――――わざと、遊んでいたのだとしたら。

 それは何も見せず、知らせずその腕の中にはめ込んでしまったロイへの復讐に他ならない。
 無理矢理、手にしたから、と恐れていたことが現実になっただけだ。

 なのに、吐きそうなほど心臓は痛くて。
 覚悟はしていたはずなのに、震えだしそうな身体がある。
 自業自得だと罵る声も確かに存在するのに、エドワードを憎く思う気持ちも相反して存在する。

 椅子から立ち上がって、眠る彼女の横に座った。
 ベッドに腰掛けて、伏せられた睫毛に指の先で触れてみる。
 ほどけかけた髪の毛が頬に落ちて、胸元は小さく上下して呼吸していた。

 白い肌。
 下着と見まごうばかりの服装は、あんな事を知る前だったら単純に困りながらも嬉しかったかもしれない。
 きっと、こんな格好で出歩くなと自分の服でも無理矢理被せたと思う。
 なんでー?とエドワードは文句を言いながらも多分黙って腕の中に収まっただろう。
 幸せな筈の想像が、今はとても痛い。

 ……こんなことは、ロイだってしたくなかった。

 このままこの細い首を絞めてやりたい衝動。
 他の人の手に渡るくらいなら、殺してしまいたいと思う昏い願望。
 首に手を掛け、苦しむ彼女に咳き込みながら何故と言われれば多分、ますます絞め殺そうと思うだろう。
 己の精神安定のために。

 こんなにロイを苦しめる女など、いなければいいのだ。
  穴が開いた心と、いつも乱される心と。
 どちらか一方しか取れないのなら、前者の方がましな気がしてきた。 


 そんなロイの目の前で、うっすらと開かれていく彼女の瞳を、どこか絶望的な気持ちで眺める。


 さて、……どうやって、別れ話を切りだそうか。

(続く)