黒の祭壇

黒の祭壇

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Emptiness is conceived - 10(完結)

 再会した男は、左の腕に大きな包帯を巻いていた。
 右の頬には大きな絆創膏。色男が台無しだ。

「……どしたの、大佐」
 電話で呼び出され、待ち合わせの場所に行けば、その店で一人座って珈琲を飲んでいた男は呆然と立ちつくすエドワードを見上げながら、頬に貼られた絆創膏を撫でた。
「なんだか、おかしいんだ。宿の階段を上がっていたら、階段が壊れるし、道を歩いていたら公園の樹がいきなり倒れるし、カラスに糞はされるし、さっきなんか、公園でキャッチボールをしている子供の野球ボールが飛んできた」
 で、この有様だ、と口をもごもごさせて絆創膏をさする男。
「ふ、ふ~ん、そう」
 内心冷や汗を垂らしながら、大佐の向かいに座る。
(アルの奴……っ!)
 兄の言いつけは綺麗さっぱり守られていない。
 だが一応ばれないように、ということは徹底しているらしく、姿を見せずに弟の復讐劇が行われるせいで、逆に大佐にとっては厄日。としか言いようがない奇妙な事態になっている。
 まあ、おかげで少し溜飲が下がったので、弟のちょっとだけ迷惑な愛情をありがたく受け取ることにした。
 と、いうか今この状態でもどこかに弟が居るんじゃないか、とか思ってきょろきょろと当たりを見渡してみるが姿は見えない。
 多分いたとしても巧妙に姿は隠しているだろうが。
「さっきはすまなかった」
「?」
 いきなり頭を軽く下げられ、思わず首をかしげ、すぐに思い至った。
「いや、いくらなんでも突然胸を揉むのは変態だったな。作り物とはいえ」
 さらりと流されたが、カシャーンと音を立てて隣の席の男性のスプーンが同時に落ちたのは多分偶然ではない。
「今度、作り方教えてくれ」
「知ってどうする気だよ。あんたつけんのか」
 足をプラプラさせてメニューを眺めながら文句をつける。思い出すと、胸を縦横無尽に掴みまくったあの感触まで思い出しそうで、食事を選ぶ振りをして、メニューを立てた。
 大佐はいいや、と首を振る。たしかにこいつが作り物の胸をつけると考えるだけでおぞましい。
「後学のために作り方を知りたいな、と」
「だから、なんの勉強の必要があるんだよ! それともなにか、大佐は女装趣味でもあるのか」
「……君じゃあるまいし」
「――――な!」
 あんぐりと口を開ける。
 今、とんでもなく俺は侮辱されたような気がした。
「だ、誰が好きでこんなっ……もがっ!」
 思わず立ち上がって罵倒を浴びせようとした口を掌であっさり押さえられ、文句は封殺される。
「うーうーうーうー!」
 じたばたと暴れる俺と、やれやれと溜息をつく大佐。鼻まで押さえられて、息が出来ない。自然浮かんできた涙に、睫毛が濡れた。
「あーあー悪かった悪かった。冗談が過ぎた。君は好きでこんな格好してるわけじゃないな。頼むから落ち着きなさい。目立つ」
 どうどう、と馬をあやすみたいに言われて、逆に落ち着きなどなくなる。
 誰のせいだよ誰の! そうもごもご言いながら乱暴に大佐の掌を剥がした。
「うー」
 何を言えるわけでもないが、なんだか噛み付いてやりたい気分。
 だが鉄壁の防御力を誇る大佐は、そんな涙目で睨み付けるエドワードを微笑ましい顔して受け止めるだけで、そのやにさがった顔にこちらはいつも文句を封印されるのだ。
「……何を食べる?」
 きゅるる、と鳴った腹を見透かされているのか、男はすとんと座り直したエドワードに再度メニューを伸ばしてくる。
 なんだかなあ、ごまかされてるよなあ、と思いながらも上目遣いに眺めれば、頬杖を突いた男は、やっぱり蕩けるような笑みでエドワードを見ていた。
 自然頬が赤くなって、とりあえずサンドイッチを頼んでみる。
 どうも、やりにくい、なあ……
 大佐が、ここ数日デートデートというから、本当にそんな気がして。
 視界に映るこのスカートが又、こう、ああ女の格好なんだな、と嫌でも思い知らされてくれる。
 向かいの席の男の己にはない肩幅とか、身長とか、ちょっとだけ見える髭の残った部分とかが、逆に、ああ、男なんだなあと思い知らされて意識して仕方がない。
 普通、デートだよ、なあ……
 向かいの男がにこにこするのも分からんでもないよなあ……
 どんなに男の振りをしても、自分には髭は生えないし、大佐の身長に追いつくことは永遠にないだろう。

 事実としてあるのは、どう足掻いても己が女で相手が男であると言うことだけだ。

 すう、と空気が冷える。
 きりきりと関節が痛んで、背中に寒気が走った。
 認めなければいけないのかもしれない物が、多分すぐ近くまで来ているのだ。今まで遠くにいたそれがここ最近もの凄い勢いで自分に近づいてきていると思う。
「サイゴンの話だが、結局どうなった?」
 ぼんやりとした意識が、その言葉で逆向きに回転して、戻る。は、と頭を上げればそこにある顔はもう仕事の時の物に変わっていた。
「今日の夜、8時に時計台の前に迎えが来るってさ。サイゴンのアジトみたいなところに連れて行ってくれるって」
「……そこに?」
「石はないらしいぜ。今日はカルテを作るだけだって。やっぱり慈善事業じゃないから、それなりに美を手に入れるには等価交換で何かを要求するらしい。手順を説明するから、それを了承するかどうかはそっちで決めろ、だってさ」
 つまり、今日連れて行かれた場所で説明を聞き、一旦帰される。
 その時の交換条件に納得がいったのならば、再度サイゴンに連絡を取れば教祖さまに会えるという理屈で、まあ一応良心的のように見える。
 だが、一旦連絡を取ってしまえばそれは了承とみなされ、もうこちら側には文句は言えない。一回考える期間を与えることによって、不満を未然に防いでいるとも言える。
 大佐はエドワードの言葉に何事かを考え込んでいて、そのタイミングで頼んだサンドイッチが届いた。
「大佐の奢りな」
 あーん、と口を開けて待ちに待った料理をほおばると、考え込んだままの男はこちらもろくに見ずに、ああ、それはもちろん、とあっさり返してきた。
「こんなに眼福な思いをさせてもらっているんだから、なんだっておごるよ……」
「むぐ」
 その言葉に、せっかくのサンドイッチが喉に詰まった。
 どんどんと胸を叩いて、置いてあった水を一気に飲み干す。美味しいはずのパンを無理矢理食道に流し込むことにちょっと切なさを覚えながらも息を吐いたが、男はやっぱり黙考中だった。

 ……こいつ、ここ最近恥ずかしすぎる。
 側にいるだけで羞恥プレイだ。
 俺は心穏やかに過ごしたいんだ。喋っているだけで赤くなったり蒼くなったり、視界が遠くなったり心臓が高速回転したりしてたら疲れが溜まるばかりじゃないか。
「さっきこちらの司令部に行って話を聞いてきたのだが」
「ん?」
 一人百面相のエドワードは幸い見られていなかったらしい。
「先日殺された女性達だがな、どうやら腹を裂かれていたらしい」
「…………趣味、わりぃな」
 ごくんとパンを呑み込む。
 路地裏で妙齢の女性が腹を裂かれた上に焼かれていたという姿を想像してしまって、気分が悪くなった。
「腹を裂いて、中の臓物をほとんど引っ張り出した上に形を留めないほどに焼いているそうだ。それ以上は流石の鑑識でもお手上げで」
「……そんなこと、こんな人の目のあるところで喋っていいのか?」
 ちらりと周りを見れば、やっぱりいくつかの視線がこちらを向いている。いい加減に慣れてはきたが、あまり気分のいい物ではない。
「別にかまわんよ。一人二人が吠えたところで、そんなものはもみ消せる」
 あっさり怖い台詞を吐くと、大佐はなおもサンドイッチをぱくつくエドワードを、頬杖を突きながらしげしげと眺めた。
「……普通の女性は、こういう時に、いやですわ、食事中にそんな話。とか言ったりするもんだがね」
「……うまいよ、この鶏肉。それに俺普通の女性とやらじゃないし」
 もっぎゅもっぎゅと咀嚼する。大佐はそんなエドワードを目を細めて見ていたかと思うと、手を伸ばして唇の脇にそっと親指を当ててきた。
「………」
 思わず、噛む口が止まる。触れられた指から伝わる温度と、なぜか周囲からざわりという人の声。正面でくすくす笑いながら何度か頬を撫でる大佐の姿がひどく目に鮮やかに映った。
「パンが付いてる」
 大佐はそう言うと、エドワードの頬についていたらしいパンの欠片を親指と人差し指で摘むと、そのままパン屑のついた指を自分の口の中にいれた。
「………!」
 頭の中は真っ白。
 自分の頬についていた食べ物を大佐が取って食べた。親が子供なんかによくやる事だ。なのに、なんだかすごく恥ずかしく思えるのはどういうことだろう。
 絶対そう思ったのは俺だけじゃない。その証拠に、あんまり考えたくないが周りのざわめきがどよめきに変わっている気がする。

 ――――なんか、やだ。
 なんか、最近のこの甘ったるい雰囲気が無性に居心地が悪い。
 おかしい。今までそんなことはなかったぞ?軍部で一緒に食事をすることがあっても、こんなことはされた試しがなかった。
 なのに、男は本当に容赦なく、エドワードを甘やかし、愛しさを隠そうともしないで見つめてくるから。

 ――――でも、俺も変。
 今までなら一発殴ったり文句を言ったりしていたのに、どうして顔に熱が上がって何も言えなくなるんだろう。胸が詰まって苦しくなって、黙ってその手を受けるだけ。
 これじゃあ、誤解されたって仕方ない。

「今日の夜、行くのか?」
「……まあ、そりゃあ。教祖さまは別のところにいるらしいから、とりあえずその居場所を掴むまでは向こうにつきあわないと」
「まあ、君のことだからあんまり心配はしていないが、サイゴンの中でごまかし続けられるのか?」
「何を?」
 エドワードは本気で質問の意味が分からなかった。
「美の殿堂と言われるサイゴンだからな、検診するから服でも脱いで、と言われたらどうやって誤魔化す気なんだ。その辺考えているのか?」
「………」
「考えてないな」
 思わず絶句したエドワードにロイは呆れたように溜息を吐く。

 違う、大いに違う。
 考えてないのではなく考える必要がない。だがそんなことを大佐に伝えるわけにもいかず、エドワードの沈黙は大佐には違う意味に取られてしまう。
「べ、別に素っ裸になれなんていわれねえだろ、脱ぐっていったってせいぜい上半身だけだと思うし」
「……、まあ君にはあの偽乳があるしな」
「偽じゃねえよ!」
 カシャーン、と軽い金属音。
 隣の男性が又スプーンを落っことしたらしい。
「――――――――――は?」
 大佐の、なんだかはっきりしない疑問符。
「あ」
 空気が固まる。自分の心の中だけ突然絶対零度。ちょっと、このサンドイッチごと床に倒れ込んで全てを忘れたい。
「や、あの、ええと」
 ああ、おろおろしたら逆に変だ。どうしよう、なんて言おう。偽じゃなけりゃなんなんだ。いくら鈍い大佐でも、あんまりぼろばっかり出てるといつか気がつくかもしれなくて、そうなったら俺は、ええと、……どうしよう。
 半泣き。
 自分の事をそこそこ頭がいいと思っていたのにこういう事には全く慣れていないらしくって、振っても叩いても妙案が浮かばない。
 俺ってこんなに語彙力なかったっけ? 
「……鋼の?顔が真っ赤だぞ」
「――――やかましい!」
 首をかしげた脳天気な大人が憎い。
 言われて、ますます赤くなっていく気がする。もうこのサンドイッチの皿投げつけて大佐を永久凍結させておきたい。
 なんか喋れば喋るほど墓穴を掘りそうで、ひょっとしてこのまま無言を通した方がよいのかも、と思えてくる。
 そんな狼狽えたエドワードの様子は、大佐の心までおかしくしてしまったらしい。
 男は照れたように微笑むと、奴にしては珍しく視線を泳がせた。
「あんまり、そう……かわいい顔ばっかりすると、錯覚ですまなくなりそうだからやめておきたまえ」
 軽くぱちぱち、と頬を叩かれて、我に返った。
「さっかく?」
「……君が、女の子に見えてきた」
 私も馬鹿なことを言ってるな、と苦笑いされる。

 ………馬鹿なのはこっちの方だ。
 あんたが言ってることは真実で、馬鹿なのは俺だよ。

 ――――思考がうまくまとまらない。
 いつもだったらふざけるな、と怒鳴るはずで大佐もそうしない俺を少し不思議そうに見つめているのも分かってる。
 もっとも嫌っているはずのその言葉で、肺に水が入ったように満ち足りているのはなんなんだろう。
 多分その答えは今の俺の頭の中よりも、ここで自分達を見ている複数の視線の中にこそ如実に存在しているのだと思った。

(続く)