Emptiness is conceived - 11(完結)
アルフォンスの目の前でハンバーガーをもぐもぐと食べている男は、先日姉の胸を傍若無人に揉んだ最低男……の、はずだった。
だがあれだけの攻撃を加えたのに、そのほとんどを避けられてしまい、結局は公園で木を倒したのと、宿で階段を壊したくらいしか成功しなかった。
本当は橋の上で一気に橋を破壊するという計画も立てたのだが、丁度下に船がいたので、断念。悪運が強いからこの年齢で大佐にまで上り詰めているのかもしれない。
とりあえずは腕に包帯が巻いてあることで満足し、胸を揉んだと言っても不埒な目的ではなかったことは判明しているので、一通りのことをした後に諦めた。
どうやら兄も大佐の包帯や絆創膏で自分の存在を感づいたらしかったので、これ以上は逆効果だろう。
聞こえない溜息で、それで渋々全てを終わりにしてやることにした。
こうして二人、車の中で無言のまま20分。
男は用意してきたハンバーガーを食べつつ、運転席で視線をひたすらに時計台に向けている。
夜8時まであと3分。
エドワードがサイゴンの使いとやらと会うために、時計台の前でそわそわしながら待っている風景を二人、狭い車の中で見張っている。
すでに漆黒に近い闇の中、時計塔の下だけは明るいのは、その時計台自体のライトアップのせいだ。
百年以上前に町のシンボルとして作られたという時計台は、石造りの外壁の真ん中に巨大なアナログ時計が座っている。その上部には鐘があり、朝は6時から夜は10時までの間、一時間ごとに鳴る。あと五分もすればそれは8時の音を奏でるはずだ。
デートの待ち合わせに使われる有名な場所なので人通りは多く、スリやひったくりもいるが、軍も定期的に巡回するので、ある意味安心でもある。
周囲には時計台を囲むように多種多様な店が深夜まで営業しているので、この一帯だけ夜でも昼のように思える。
そんな光の洪水の中に、ともすれば埋没しそうにも見える最上級の黄金は、所在なさげに下を向いて鞄の紐を弄くっていた。
またもやブティックの店員に選んで貰ったスカートは、二層構造になっていて、上層の赤と下層の白のレースが少し動くとふわりと動くようになっている。髪をアップにするのを最近なぜかやめてしまった兄さんは、左右の耳の側から一房づつすくい取った髪の毛を後頭部のリボンで止めていた。
お嬢様チックで嫌だとか叫んでいたが、女性に見えないと意味がないんでしょ、と言えば、ううう、と肩を落として渋々納得していたのはほんの数時間前のこと。
「あ! 又変な男が」
アルフォンスが呟いた瞬間に、大佐の咀嚼が止まる。
もう何度目だろう。
視線の先では一人の長身の男性が、兄に何かを問いかけているらしい。暫く後のやりとりの後、ぶんぶんと首と手を振って嫌がるエドワードに、頭を掻きながら男は去っていった。
「だから、五分前に行かせたのに、それでも早かったか」
ぼそりと冷却された声が運転席から聞こえてきて、後部座席からアルフォンスは身を乗り出す。
「なんですか?」
「あんなところにあの子一人であの格好で立たせておいたらナンパがひっきりなしに来るのが分かっていたから、待ち合わせぎりぎりまで出したくなかったんだ。もったいない」
――――もったいない?
歯軋りまでしそうな勢いで時計塔の下を睨み付けている男はおおむね本気のようだ。
まあ、ひいき目で見ないでも、姉は元々美人なのだ。
女性の格好で道を歩けば、ほとんどの人間が振り返る。
本人が自覚をしていないので、ますます目立つ。よってそんな子がデートスポットで待ち合わせればああなるのは予想できていた展開ではある。一人だけ、予想していなかった本人はあそこでああして困惑しているのだろうが。
無い瞳で見つめれば、大佐の仕草には余裕がない。
いらいらと貧乏揺すりをしているその姿には、いつもの冷静沈着さはなかった。
おかしいな、兄さんの前ではいつも平然と余裕ぶっているのに。
「早くサイゴンの使いとやらは来ないのか」
「8時になりましたね。そろそろかと」
車に設置されている時計が丁度8時を指した。
同時にエドワードの背後の時計台からカランコロンと鐘の音が降り注ぎ、びくりと肩を震わせたエドワードが振り返って頭上を見上げる。
天に座す月輪。それを背にした黄金の鐘と、金色の少女。
写真にして切り取りたい、と自分の兄弟相手に恥ずかしい事を考えたが、どうやら前方の黒鴉も同じような思考に捕らわれているらしい。ハンバーガーを口に咥えたまま、惚けたように兄を見つめていたので。
暫くして、ハンバーガーの最後の一欠片を口に放り込んだ上司はぱんぱんと両手を叩いてパン屑を落とす。
「向こうがやってきたら、適度に距離を開けて追うぞ」
「了解です。……大佐」
「なんだね」
仕事決行までのわずかな時間。
一秒たりとも見逃すわけにはいかないため、大佐も自分も時計塔しか見ていない。よって顔を見合わせることはないのだ。だからこそ、アルフォンスにはこの言葉を発する勇気があったのかもしれない。
「大佐は、兄さんのこと本気で好きなんですか?」
「愛してるよ」
答えには何の躊躇いもなかった。
数秒の迷いも戸惑いもない。1+1は?2.と言ったのかと思うくらいの自然さ。
それが世界の理だといわんばかりの告白だった。
男は照れてもおらず、アルフォンスを振り返りもしなかった。
その視線の先に捕らわれている少女への色は甘くて、優しい。
息を呑んで、悟った。
――――唐突に。
この男には勝てないであろう自分の限界が、見えた。
最愛の姉の心を最後の最後の部分で救ってやれない自分を知っていた。それは仕方のないことなのだろう、自分のせいで弟を鎧にしたという罪悪感は、たとえ自分達が元の身体に戻ったとしても姉の心からは絶対に消えない。
だからそんな姉を全肯定してくれる人がいないか、と思ったことがある。
アルフォンスがどんなに伝えても、駄目だろう。当事者すぎるのだ。
ウィンリィも同じだ。幼なじみの3人の楽しい日常生活を奪い取ったのは自分であるという罪悪は、どうしても姉のうちから拭えるはずがない。
だから、あの罪を犯した日以降に姉を知った人間ならば、彼女の心を救えるのではないかと。
今まで想像もしていなかったのに、その場所に大佐を当てはめている。
数時間前まで、あんなに、僕は怒っていなかったか?
「大佐は、どうして、兄さんが?」
聞いてみたかった。だって年齢だってかなり違うし、その上同性だと大佐は思っている。女をよりどりみどりの大佐が選ぶ理由が分からない。
「だって、あんなに綺麗じゃないか。君がそれを知らないわけないだろう」
男は依然視線を時計台。
ハンドルの上に顎を載せて、溜息をついていた。
とても不思議そうな声がアルフォンスに届く。君が何でわからないのだ? と問うているようでもあった。
「綺麗って、……顔?」
「在り方だよ。――君もだけれどね、君はそれでも純粋の中に狡猾な猫を飼っている。私に近い」
どきりと無い心臓が鳴る。
「あの子は、強くてそして綺麗だ。罪にまみれても、心は絶対に穢れないんだろうな。だけど自分で穢れていると、思っていて。それが切なくて――――何を言わせるんだ……」
我に返った大佐ががばりとハンドルから身を起こした。
あれ、と思ってみれば、大佐は手を口に当てて何か苦しんでいるように見える。よく見れば首筋までもが赤かった。
「ああ」
自分はこっ恥ずかしい惚気を言わせてしまったんだな、と。
微笑ましいと思って、そして陥落した。
十以上も年下の少年に、愚かなまでに本気になって。それでも大人だから素振りを見せないように激情を抑えて、大切にするその腕で、行け、と背中を押すのだ。
いつでも、いつまでも、多分大佐はエドワードを見ているのだろう。父親みたいに恋人みたいに、上司みたいに。
自分も、ウィンリィも、ピナコばっちゃんもみんな、エドワードが大切だった。
今も昔もアルフォンスにとっての最愛で唯一は姉なのだ。笑っていてくれればいいと思うのは、皆の共通の願い。
……そこに、この男を入れてやってもいいと思った。
大佐なら、許そうと。
気がつけば8時を5分過ぎていた。
(続く)
