黒の祭壇

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月に村雲、花には嵐 - 15(完結)


 

 意識が白くなった。

 身体が重くて、動かない。
 カチカチに固まった脳味噌が、そのまま金槌で叩かれて、バラバラと崩れ落ちそうだ。

 その、喉を。

 小さく唾を飲み込む可愛らしい喉に手を伸ばして、縊り殺すなど簡単だ。
 さっきまで考えながらも、実行に移す事なんてないと思っていたのに。

 どうしたことだろう、今はそれを抑えることで精一杯。
 殺したくて八つ裂きにしたくて、強姦したくてたまらない。
 此処まで凶暴な感情を彼女に抱けるとはしらなかった。

 後ろから抱きしめればいつも、一瞬驚いた声を上げた後、甘えるロイに仕方なさそうに寄り添っていたのは誰だろう。
 腰に廻った手に、小さな自分の白い手を重ねて、笑ってキスを受け止めていたのは誰だ?
 あんなにいい匂いをさせて、ロイの前で微笑んで、無邪気に指を絡めていた子は、少なくとも目の前でこんなに泣きそうな顔で謝罪する女なんかではない。

 知らない女だ。今、ロイの目の前にいるのはロイが愛した女の筈がない。

 だって、言うはずないじゃないか。
 浮気した、だなんてこと、あのエドワードが。

「……は」

 吐き捨てる。

 唾棄する。
 そうすべき人物に、目の前の少女が思えた。

「ははは、そうか、――――そうか、バカにされた物だな、私も!」

 ここまで惚れた女に、ここまで侮辱されるとは思っていなかった。

「あ――――――――――」
 エドワードは、自分がさすがにロイの逆鱗に触れてむしり取ったことに気がついたらしい。
 いつも気丈な彼女とは思えないような怯えた声で、ロイの腕に手を伸ばした。

「ごめ、俺……デートも浮気だなんて、思わなくて…!」

 縋ってくる彼女など、一生見れないと思っていたのに、エドワードは泣きそうな顔をして、ロイの腕を掴む。
 それを無情にもはね除けて、ロイは顔を背けた。

「楽しかっただろう。十以上も年上の男が、君に夢中になって、身体を求めてくるのを拒んで、悶々とするのを笑ってたのか。そして、他の男と浮気か。……私は、そんなに君に嫌われるようなことをした覚えはないが、その年で、ここまでやれるとは脱帽だ。きっと一生男を弄んで食っていけるだろうな」

 ちゃんと好きだと、少女は言った。
 させてあげないだけで、他は何でもしてるだろうと言った。
 そうして、戸惑いながらも耐える男を見て何を考えていたのだろう。
 さぞかし、ロイは彼女にとって面白い玩具だったに違いない。
 

 エドワードが好きで。
 大好きで、一生側にいて欲しくて。
 ささくれた心をいつも慰めて宥めてくれていただなんて、自覚のない少女は一生気がつかないんだろうけど。

 俺なんかのどこがいいの、と聞く少女に、全部。としか答えられなかった。
 だってその腕やその瞳がロイの視界に映って。
 ただ、隣で笑ってくれてるだけで、ロイはいつでも簡単に幸せになれたのに。

 
 ――――でも。

 ここまで。
 ここまで侮辱されて軽んじられて、それでもいいと言えるほど、ロイの誇りは地に落ちていない。

「……別れようか」

 ぽつりと呟く。
  ……なんだか、いろいろ、疲れてしまった。

 だからもう、手を離してしまうのだ。
 譲れないプライドに、エドワードは手を出してしまったのだから。





 瞬間、少女は。
 よろりと姿勢を崩して、倒れ込みそうな身体をなんとか両手をベッドについて支えた。
「――――――――――っ!」
 声にならない悲鳴。
 ロイの方を見ようともせず、エドワードはかたかたと震えてベッドを見つめている。
 その頬は蒼白で、血の色が全く感じ取れない。
 演技だとしたら主演女優賞ものである。
 ぽたぽたと、その瞳から溢れた雫がベッドに落ちて、流石のロイもぎょっとした。

「う――――――――――」
 何も言わずに、ただ、エドワードは泣いていた。
 涙が止まらないのか、ごしごしと瞳を手で擦るけれどそれでも出てくるものを拾いきれるはずがない。わんわんと声をあげるでもなく、ただ黙って泣き続ける少女。

「…………」
 かける言葉を失って、ロイは唖然とそんな少女を見る。
 エドワードには今、ロイは全く見えていない。瞳を閉じて、落ちる涙をどうにか堪えようとしているのに、透明な雫は収まらない。
 
 ただ、ひたすらに綺麗な涙だった。


 ロイは呆然と魅入るだけ。
 どうもおかしい、とその脳髄が問うてくる。

 立ち去ろう、このまま又、騙され続けるのはもうまっぴらなんだろう。
 きっとこれも、ロイを引き留めるための演技で、ここでほだされたら前と一緒だ。残酷な裏切りにあったばかりなのに、なのに。

 涙をたたえた黄金の宝石が、そこでおずおずとロイを見た。


 その、タイミングは、最悪だった。

 ガラスの中に向日葵を埋め込んだようなその瞳が、自分は大好きなのではなかったか。
 考えてみろ。こんなに彼女が泣いたことなどただの一度もなかっただろう。

「……やっぱり、俺じゃダメ?」

 ぎゅう、と両手でシーツを握り締めて、まるで愛を懇うかのように、エドワードはロイを見た。

 紅潮した肌。露出の高い服は乱れて、肩に掛かったキャミソールの紐は外れ掛けている。ブラジャーの線が見えないのはそういう下着を着てないからで、それは数少ないその下の布を引きはがせば分かる話で。
 泣いたせいで、唇は涙で濡れている。

 ――――ここにいたって、初めて。

 ロイはエドワードに欲情していることに気がついた。

(続く)