200605
不思議に頭痛がした。
痛いのは内臓の筈で頭ではないはずなのにだ。
そういえば、あまりここ数日寝ていない。だから布団に入ればすぐに眠れるはずなのに、何故か全然眠気が襲ってこないのだ。
あまりにもここ数日であったことが多すぎるからだろうか。
今までいろいろな逆境を跳ね返しては来たが今が一番の山場なのかもしれないと思う。だが舞台を降りる気はさらさらない。
目を開けて、漆黒に覆われた天井を眺める。
自分の未来がこんな色なのかもしれないとよぎった弱気な思考を捨てようと試みる。
やっぱり黒なんかでは駄目だ、黒を打ち消す金がいい。
――――――――――ああ、そういえば。
『小銭貸してくれ!』
…絶対、返す気無いな、あれは。
微笑めばきっと天使なのに、ロイの前ではいつも怒ってばかりなので、子鬼みたいに思う。
…小豆、と言えば怒るな多分。
それでも、最初にあった頃からは背も伸びたし、顔も大人びた。成長を見守ってきたつもりはないけれど、子供は大人の知らない間に勝手に大きくなる。
いつも怒ってばかりなのに。
時々笑うけど、それは本当に希で。
辛い、と言う意味で言えばあの子のそれはロイの通った路と大差ない。
子供にとってのアレは、自分にとってのイシュヴァールに匹敵するのでは無かろうかと思うことがある。
今日だって怒ったり焦ったり、見ていて本当に忙しそうで。
彼を見る度に。
…何度でも立ち上がる子供に負けてはいられないと思う。
鮮烈な黄金。闇を殺すのは光でしかあり得ない。
ロイの闇を払うのはいつだってあの黄金の花。
又、癪に障ることに天井の暗闇が消えた。
気のせいだと思ったそれは、本当に闇の色を失っていた。
天に伸ばした手をぱたりとベッドに落として、目をしばたかせる。
突然の明かりに慣れない目が一瞬非難をして、閉じようとした。
「よぉ」
ぼそりと呟く声に、思わず口元が綻びる。
身を起こせば、やっぱり少年は笑ってはいなかった。
「なんの用だね、珍しい」
沈んでいた闇から浮き出た黄金はそのまま、闇を打ち消す。
……心の中で、祈りはしたが。
「ほんとに出てくることはないのに」
「…なんのことだよ」
後ろ手に扉を閉めて近寄ってくる少年に、別に、と返す。
嬉しくないわけがない。いつもなら十回誘って一回来るかどうか。この部屋に泊まる事なんてそのうち三回に一回。そんな少年が自分からロイの家に来たのは多分初めてでは無かろうか。
だけど、なぜか今日だけは放っておいてほしかったのだ。君を一晩想うことで、又、力を奮い起こそうなんて思っていたんだよ?
絶対に言わないけど。
ベッドに半身を起こして、じっと眺めるロイをなんだか苦虫を噛みつぶしたような顔で、鋼のが見ている。
「どうした」
ほんとうに、変だ。
こんな時間にここに来ることも。ロイを見ながら何も言わずに佇むことも。
そんなロイの質問には答えず、子供はぎゅう、と拳を握り締めると、そのままロイの首に抱きついた。
「――――――――――鋼の?」
「五月蠅い」
五月蠅いって、名前を呼んだだけで五月蠅い呼ばわりされてはたまらないのだが。
あまりにも彼らしくない態度に、情けないことに一瞬頬が染まる。彼に見られたら何を言われるかと思うと、ごしごし擦って消える物なら消してしまいたい。
抱きしめることばっかりで、抱きしめられることはなかった。
どちらだって周りから見たら一緒のことなのに、ロイの中では全然違う。
人を抱きしめるのは、その人が愛しいからだ。ロイはエドワードを抱きしめるのはその為で、ヒューズがエリシアを抱きしめるのもきっとそのせい。だから、エドワードがロイを抱きしめるのも、きっと同じで。
それを思うと、生暖かい物が心臓に溢れた。あれだけ夜を重ねて、そうではないと思ってはいても。…こと、彼についてはいつも不安なのだ。
一方通行じゃ、なかったのだと。
すとん、と心の中の荷物が床に落ちた。
心臓に絡まった糸が解ける音を、びっくりしながら甘受する。
――――――――――なんだ、私は。
……緊張していたのか。ずっと。
ああ、それは眠れないわけだ。
ぷつりぷつりと糸が切れて、脳の糸も解ける。心臓から感染したそれが全身を埋め尽くして、思わずはは、と笑った。
なんだ、頭痛も治まった。
ばかばかしい、結局そういうことなのか。暗闇は自分の周囲じゃなくて、自分の中にもあったのだ。
両手をこちらも伸ばして目の前の小さい身体を腕に抱く。
「どうした?」
「……」
昼は元気だったのに、なんでこんなに大人しいのか。
「何かあったのか?」
「…っ俺のことはいいんだよ!」
少年は何故か一瞬息を止めて、すぐに怒鳴った。
それでも解かれず己の肩口に埋まっている髪に、口づけしたいけれど届かない。
めずらしく野良猫が飼い猫みたいになっている。
思わず溜息が出た。ああ、実に惜しいなと。
「…せっかく君がその気なのに、今日は体力が無くて無理そうだ。すまんな」
「ばーか」
目を見開く。
ぱっと離れて一発殴られるだろうと思ったのに、小さい悪口ですまされてしまった。
…甘やかされている気がする。
「大佐は黙ってこうされてりゃいいんだよ。余計なこと考えるな」
「何を言う。余計な事なんかじゃないぞ。せっかく君がこうして夜中に夜ばいに来てくれたのだからだね、どうチャンスを生かそうかと考えるのは至極まともな」
「ああああ、うるさい!」
どし!と胸を押されて、ベッドに転がされる。
「たまには黙って俺の言うこと聞いてろ!」
「は?」
わけわからんぞこの子。
ベッドの端にどすん、と腰を落ち着けると、寝転がったロイの方を面倒くさそうに見る彼。
「余計なこと喋ったら口塞ぐからな」
「…キスで?」
「そう、キスで」
冗談だったのに本当に唇を塞がれた。多分何度も体験しているはずの唇の感触。だけど彼から触れてきたのなんて、一回か二回くらい。それもほとんどだまし討ちだったはず。
反射的に手を伸ばしかけたら、手首を掴まれてベッドに押しつけられる。
「余計な事するなっていっただろ」
「………」
おそろしいことにこの目は本気だ。本当にロイになにもさせるつもりはないらしい。
「じゃあ私はただ寝ろ、と?」
君を隣に見ながら?そんなもったいないことを?
睨み付ける視線は、そうしろと言っている。
…でも、たしかに。
腹は痛いし、君を抱く体力がないのも確かで。
上に乗ってくれ、なんて言ったら絶対殴られるだろうし。
余計なこととやらを喋り続けてキスして貰いたい気もするけれど、突然襲ってきたこの疲労感の前ではそれもなんだか億劫。
眠れない、とか言ってなかったか私は。
今は、こんなに眠い。
下の方から眠気の汚濁がどんどんと駆け上って、脳味噌を捕まえる。
君が、あんな事を言うからだ。
あまり嬉しいことを言うから、緊張が解けて、眠気が目を覚ましてしまったじゃないか。一旦それに気がつくと、理性の抵抗なんて、ないに等しい。
もぎ取られそうになる意識を勿体ないと思った。
側で人の気配がしたまま寝るのは久しぶりで、冷たい部屋がなぜかいつもより温度が高く、ベッドに転がった手を握り締められた感触を理解する。
消えゆく意識の中で、響いた声がする。
「…あんたも、俺も。たいがい下手な生き方してるよな…でも」
その不器用な生き方が、それが。
――――――――――それが、とても好きなんだと。
聞こえたような気がしたなんて、それは、あまりにも自分にとって都合のいい夢。
(終わり)
