黒の祭壇

黒の祭壇

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31(連載中)

 耳元で、泣き声と怒鳴り声がした。
 最初は小さい蚊の鳴くような音。それが少しずつ近づいてきて、人の声に変化する。
「だから、なんでもかんでも大将に任せるなって言っただろう?」
「そんなこと言ったって、知らなかったんだもの! ハクロが来たとはいってもあんまり生活に変化ないし、こんなにエドが頑張ってただなんて……」
「生活が変化ないのがおかしいとは思わなかったのか? それこそが無理してる証拠だろうが」
 ……女性の声と、男性の声。
 エドワードの意識がゆるゆると水面に上がっていく。
 ぽかりと瞳を開ければ、見慣れた天井だった。
「あ!」
「お! 起きたか」
 泣き声と怒鳴り声がやみ、二人の人間が覗き込んでくる。
 エドワードは寝かされていることに気がつき、次に珍しい人間がこの場にいることに驚き、瞳を瞬かせた。
「ハボックさんじゃん」
「よーお、久しぶりだな大将」
 軽く敬礼をするように挨拶した、煙草が似合う男は、ここ一ヶ月ほど姿を見ていなかった探偵だ。
 よろよろと上半身を起こし、心配そうに見つめる四つの瞳を眺めた。
「俺、……倒れたの?」
「そうよ。さっきお医者さんが帰ったわ。過労だって」
「俺はたまたま報告に来てたんだよ。そしたらハクロのおっさんがお前抱きかかえて慌ててるからさ。もちろん俺は隠れてたから見られてないけど」
「……そうなんだ。わりぃ、迷惑掛けて」
 乾いた笑いを浮かべて、エドワードは俯いた。
 ……だよな。
 あいつがここに現れて、抱きかかえてくれるわけがない。戦場にいるって、自分が一番知ってるくせに。
 軍服から同じ硝煙の匂いがしたから、勘違いしたんだ。
 よりにもよって、あんな、あんなハクロみたいなおっさんと。
 一瞬の期待があまりに情けない間違いだったことを知ってしまうと顔が熱くなった。
 ―――だめだ。
 会いたい、どうしようすごく会いたい。
 押さえつけてきた思いが弾けて、神経がささくれだつ。感情が敏感になって、触れただけでも火傷しそうな衝動が沸き上がってたまらなかった。
 じわりと涙が浮かんできて、人前だというのにどうしても止まらず、視界がぼやけ始める。
 かっこわるくてぐい、と涙を腕で拭う。
 不安げなマリア姉ちゃんが狼狽えながらエドワードの肩に手を置く。
「ごめんね、気がついてあげられなくて。こんなにエドが何もかも抱え込んでたなんて知らなかったの」
「え?」
「エドはしばらく休んで。私たちが甘えすぎてたから、こんな」
 涙ぐんだエドをみて勘違いしたらしい、優しくて切ない視線に晒され、エドワードは慌てて首を振る。
「え、いや、俺はちょっと疲れてただけで、気にしなくても。それよりリリー姉ちゃんだよ! あいつ、身請け金値上げしないとリリーを解放は出来ないって言い張ってやがんだ」
「あのおっさん、そんな事言ってんのか?」
「金が欲しいだけだと思う。多分、リリー姉ちゃんの稼ぎを失うのが惜しいんだ」
 吐き捨てるように言うハボックに、悔しさを堪えながらエドワードは答える。ぎゅう、と布団を強く握り締めて、その怒りをなんとか逃がした。
 あのハクロのアホな命令を飲むわけにはいかない。ハクロはどこにいったのかと尋ねようとした矢先、ハボックが止めた。
「安心しろ。ハクロは怒りながら帰った。ちょうどいいから次にあいつが来るまでにリリーを逃がしてしまおうぜ。大将は寝てたので、みんな身請け金値上げのことは知らなかった、って言い張ればいい」
「…………あ」
 其の手があったか、と目を見開くエドワードをみて、にやりとハボックは笑う。
 そういうずるがしこさは好きだった。
「なるほど、身請け金値上げのことは、私たちまだ聞いてないもの。エドは疲労で寝てたからまだ私たちはその話を聞いていなかったってことにして、その間にさっさと話を進めてしまえばいいわね。店を出てしまえば、ハクロも追いかけてはこないでしょう」
 そうと決まれば、とマリア姉ちゃんが慌てて立ち上がる。
「エド! あなたの事はあとできちんとお話ししましょうね。とりあえず今は休んでてよ、いいわね!」
 めっ! と可愛く指を突きつけ、ぱたぱたとマリアが去っていく。
 その足音を聞きながら、きょとんとしているエドワードの頭をハボックはわしわしと撫でた。
「リリーの件は俺達がなんとかする。だけどお前、出来ればここから逃げた方がいいぞ。なんか嫌な予感がする」
「?」
 ぐしゃぐしゃになった後頭部を押さえて、煙草を吸うハボックを見上げると、なぜか探偵は、はあ、と溜息をついていた。
「……俺の杞憂ならいいんだけどな」
「?」
 結局は、杞憂ではなかったのだが、それが分かるのは数日後のことだった。

(終わり)