黒の祭壇

黒の祭壇

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78(完結)


 明かりを持って斑鳩の間に入る。
 仕事は終わったから、さっさと自分の部屋に戻ればいいのに、この部屋に来てしまった。
 真ん中にしかれた布団に、小さな火鉢。下を通る小川のせせらぎが微かに聞こえて、証明は温かく部屋は薄暗い。特殊な香は、この部屋のイメージ会わせて作って貰っている特注品。今は誰もいないからつけないが、どうしても微かに残る香りは消えない。
「……なんか、女々しいな俺」
 おっさんが待ってるわけじゃないのに、この部屋に一人来てどうしようというのか。
 蝋燭を立てて、エドワードはそのままぱったりと布団に倒れ込んだ。
 寝転がったまま、持ち込んだ新聞を読む。
 見るまでもなく、新しい大総統特集が、天気予報以外は全部の紙面に展開されている。さすがに新聞一個だけだが、今日は号外の雑誌も大量に出ていた。
『君には話しておくが、次の大総統に私が内定したらしい』
 前に男がこの部屋に来たのは一ヶ月前。
 散々人を好き放題弄くったあげくに、ぐったり寝転がる俺に向かって、あいつはそう言った。
 
「大総統になれば、今までの様にここには通えなくなるだろう。次に私が来るまでの間に、君も覚悟を決めておいてくれ」

 なにを? とは聞けなかった。
 俺が真っ青になっていたのにも、あいつは気づかなくて、なんだか他の話をしていたけれど、今となっては何を言われていたか覚えていない。
 新聞を顔に被せて、暗闇の視界の中、天井を見る。
「覚悟って、やっぱり……そういうことだよな」
 大総統に男の恋人がいて、しかもそれが孤児の女郎宿のオーナーだなんて、新聞記者が飛びつきそうなスクープだ。
 俺は、この宿しかしらない。仕事以外で町に出ることもないし、おっさんの仕事の内容だって、ほとんど知らない。あいつと会うのは、奴がこの宿に来るときだけ。普段のプライベートで、どこに住んでいるかも知らないのだ。
 聞けば教えてくれたかもしれないが、聞かなかった。それはこんな宿に勤めている人間としての常識だ。
 客はみな、日常を忘れるためにここに来るのだ。家の話なんて、したくもないし、恋人や妻のことなど、聞かれたくもないから来る。
 奴は好きだと愛してるよと、浴びるほど自分に言葉をくれたけれど、多分それは本気なのだろうけれど、でも、自分の立場はあくまで彼の生活の中央には入り込めない存在。
 もしかしたら、彼女とずっと同棲しているかもしれないし、隠し子くらいいるかもしれない。小さい頃面倒を見た子供が物珍しくて、ずっとつきあってくれたのかもしれない。
 
 ――それでもよかった。
 
 ほんの火遊び程度でも、かまわなかった。
 だって、それ以上にたくさんのことをしてもらったし、助けて貰ったのだ。
 あいつがいないと今のこの店はないし、姉ちゃん達が楽しく働くことも出来なかった。俺はあのままレイブンの妾になって今頃死んでたかもしれないし、弟だって学校に通わせてやれなかっただろう。
 それを思えば、本当に本当に感謝しているからこそ、我が儘なんて言えるわけもない。
 別れ話を告げられたら、聞き分けのいい恋人を演じて、笑って追い出してやるのだ。今までありがとうとか言っちゃって、せめていい思い出で済むように。
 そうじゃないと、あいつに迷惑がかかるだけ。心で泣いて顔で笑って、嘘をつくのは、この仕事をしていれば、自然に身につく嫌な技だ。
 傷つくまいとしているのに、あいつを待っているときには散々、生きて帰ってきてくれるだけで言いと思ったのに――なんだか新聞が濡れている気がするのはなぜだろうか。
「……くそ」
 情けなくて泣けてくる。
 次にあいつが来るまでに、笑ってさよならを言わないといけないのに、その時の事を何度脳内でシミュレートしても、喉に石が詰まったように声が出てこない。
 ありがとうと、さようならと。
 たったその二つなのに、こんなに難しくて、発生が難しい言葉だっただろうか。
「あーあーあー」
 喉元を叩きながら、発声練習をしてみたりしているが、いざ脳内にシミュレーションすると、声が止まる。
「まずいな……」
 このまま、次にあいつが来るのはいつなんだろう。早く演技を練習しないといけない。店一番の演技派の女性に習うべきなのか。いやでも、なんで?と聞かれるに決まってる。
 
「――何してるんだ君は」
「え?」

 どうしようどうしよう、と頭をぐるぐるさせていると、突然後ろから声がかかって飛び上がった。
 慌てて振り返る。振り返るまでもなくもう分かっていた。この俺があいつの声を間違えるわけがない。問題は、全く気配がしなかったと言うことだ。
 案の定想像通りにいつの間にか、背後に立っていたのは、ロイ・マスタング大総統様だった。
「な、な、な、なにそのかっこう……!」
 驚いたのも無理はない。だいたい今日は就任のパレードだ。今頃盛大なお祝いの回が開かれているはずだ。主賓が逃げられるわけがない。と、いうのに、どうやら軍服の正装のままだった男は、面倒くさそうに帽子を放り投げ、制服の襟元を緩めた。
「何って、抜けてきたんだよ。馬鹿馬鹿しい。一次会は、各国の王族や貴族が来るからいいものの、二次会なんて、貴族どものアピールショーだ。後ろ暗いところがあるだけだろう。女あてがわれそうになったから逃げてきた」
「逃げてきた、って……」
 呆れて何も言えず、ぱくぱくと口を動かすばかりになる。
「まさか、就任式の日に来るなんて」
 さっさとケリをつけたいもしくは、不安要素は早く切りたい、どちらかどうか。予想していなかったので、心の準備も演技力も磨けていない。
 そして、目の前に突然現れた思い人は、その姿だけで心臓を縮めるのに、自覚なく人の頬に手を伸ばして嬉しそうに微笑んでくる。
 いつもは大好きな笑みも、今日は余り見たくない。
 ――これ、がもう、見納めなのだと、頭を過ぎるばかりで目が廻る。
 
 見たくないが故に無意識に目を閉じてしまったら、何を勘違いされたのか、顎を上向けられキスされる。噛みつくようではなく、優しい羽毛で擽るような口づけは、静かで別れにふさわしいのかもしれないけれど、いっそ触れてくれない方がよかった。
「……なんだか元気がないな」
「そんなことは」
 唇が離れた後、男はエドワードの両腕を掴んだまま、そう言って見下ろす。
 まずい。演技既に出来てない。こいつ勘がいいからばれている。
「おめでとうの言葉くらいないのかね?」
「……」
 さっきまで練習しようとして、声が出なかった言葉だ。
 おっさんの夢だった。大総統は。だから分かってる。めでたいことだと。頑張れと言ってきたし、情報提供もしてきた。なのに、そんな協力者の俺が、実は一番嫌だと思っているだなんて、知られるわけにはいかなかった。
「……おめでとう。夢が叶ったな」
 三秒くらい詰まったけれど、何とか声が出た。頭の中でガッツポーズをする。顔が直視できなかったのは許して貰いたいところだ。 こうなったら抱きしめられててちょうどいい。今あの、大好きな漆黒の瞳を見てしまったら、何を口走るか分からない。
「まあ、正確には夢の一つが叶っただけだがな。まだ道途中だ」
「そうだな。大総統になったはいいけど、クーデターで失脚したりしたら意味ねえしな」
「君ね」
 咳払いされて、少し頬をつねられた。
 男は又咳払いをする。喉に痰でも詰まったかと思ったが、やっぱり顔を見たくないので俯いたまま、布団の線の数なんか数えていた。
「ところで、覚悟は決めてくれたかな」
「ああ……」
 やっぱ、それは重要なんだな。
 分かっていたことだけど、肩が落ちた。そしてなんだか、何もかも、悩んでいたことが剥がれるように消えていった。試験の結果が百点だろうか九十九点だろうかと考えている間はいい。
 目の前に答案用紙を突きつけられたら、もうそこには事実しかない。
 
「分かってるよ。あんたがここに来たことは口外しないし、何を聞かれても知らないって言う。長い間……俺たちを助けてくれて、ありがとな」

 さようならは、言えなかった。
 だけど一度唇を噛んでから、顔を上げる。
 笑え、と昔言われたことを思いだした。笑って見送るのが、この店の仕事のはずだった。
 ――なのに、男は、思いっきり顔を歪めて、人の一世一代の笑顔を、つまらないダジャレを聞いた奴みたいなか顔で、見ていた。
 
「君、何言ってるんだ?」
「何って」

 予想外の反応に笑顔が消える。頭は混乱、と伝えてきた。
 
「今日でお別れなんだろ?」
「――なんでだ!」
「え? 覚悟決めろって」
 突然男が大声で、悲鳴を上げた。びくっとするくらいの声だ。周りに聞こえてるんじゃないかと耳を窺うが、人の気配はしなかった。
「そういう意味じゃない!」
「だって、大総統になったらここになかなか来れなくなるって」
 だからお別れだという意味だろう。覚悟というのは。出来れば数日待って欲しかったが。
 奴はなぜか青ざめて、必死で首を横に振り、暫くして頭を抱えた。
「……そうか、そうだった。この店で生まれ育てばこういう思考回路になってもおかしくないのか」
「別に産まれてはないぜ?」
 育ったけど。
 
「そんなことはどうでもいい。大総統になって、ここに来れなくなるんだから、私が君と会いたいと思ったら一つしかないだろう。君が私の家に住めばいい」
「……………へ?」
「あと、将来的にはこの国の経理関係を君に任せたいと思っている。君の頭脳はこの店のオーナーで終わる器じゃない」
「……………」
 意味が分からない。
 
「俺が。この店をでて。おっさんと、住む?!」

 やっと理解して、区切って言うと男は少し表情を崩して頷いた。
「そうだ。一緒に住むのが嫌なら、近くに家を借りてくれるのでもいい。君に会える頻度がこれ以上下がったら、絶対に三ヶ月後にはクーデターが起こって国が転覆する」
「何自信満々に物騒なこと言ってんだよ」
 男は、珍しく一生懸命に見えた。いつも飄々として余裕綽々なのに、どことなく顔を赤くして、必死でこちらを説得してくる。
 なんだかその姿がおかしくて、かわいくて、エドワードは呆然と、男の口説き文句を聞いていた。
「もちろん君が、この店に愛着があるのも分かっているし、ピナコばあさんに任されたという責任もあるだろう。経営から手を引けとはいわない。今まで通りこの店に通って、君は君のやりたいようにするといい。だが、ええと、ゆくゆくは私との未来を考えて欲しいんだ」
「……」

 未来。なんだか壮大すぎて絵が描けない。
 
「これは私の勝手な希望で夢だから、君には断る権利があるし、嫌なら嫌と言ってくれてもいい。君は私に恩義を感じているようだから、恩だけで頷いて貰っても嬉しくはないからな。男同士だから結婚という形は取れないけれど、私は一生君以外の人間を側に置く気はなくて……聞いてるか?」
「……聞いてる」
 一人で喋り続けていることに気づいたのか、ロイは突然話をやめて、人をのぞき込む。不安げなその眼差しに、なぜか鼻の奥がつんとした。
「君は、私と一緒はいや、か?」
 あげく、着いてこいとでも言えばいいのに、自信なさそうに言われて、エドワードの緊張は完全に切れた。
 首を横に振る。もげそうなくらい強く。
「嫌なわけないだろ……!」
 引っ張られるように男の首根っこに飛びついた。
「俺だって……! 今更、あんた以外の奴好きになれることなんて、一生ねえよ!」
 小さい頃に衝撃的な出会いをして、焦がれて喧嘩して笑って遊んで、助けて貰って。
 ここまで人の人生に居座った、根っこの生えた巨木が切り倒せるわけがない。切り取ればきっと、身体のどこかも一緒にもぎ取られてしまうだろう。
 縋り付いたまま離れようとしない俺の様子に、男がほっと肩を落としたのが分かった。安堵の溜息だと沸騰した頭でも分かる。俺がびくびくと別れに怯えていたように、こいつはきっと、俺に断られることを怯えていたのだ。
 ――馬鹿だ。そんなこと、ありえないのに。
 布団に転がされて、その後の展開が想像ついてしまったけれど、もう、仕事はいいの、なんて言えるような余裕なんて、お互いなかった。
 
 
 
 大総統が変わってから五年。
 浮浪者が町に溢れ、田舎の農村では毎年餓死者が出ていたアメストリスは、急激な近代成長と改革により、餓死も浮浪者も激減した。景気の上昇に伴い、身売り同然で遊郭に売り飛ばされていた女性は消失し、法律でも人権面が強く意識されたものが次々と制定された。
 そして、その謎の経済成長を産み出す施策と資金管理をした人間の名前は謎に包まれたままで、アメストリス軍でも未だに正体が不明。
 知るのは大総統の直属の部下数名と、大総統だけだ。
 きっと某国の金融学者だとか、百人の優秀な経済学者の軍団なのだと、まことしやかに噂にはなっているが、その実際の黒幕とやらが、大総統邸の一室で、ベッドに寝転がり、なにやらよく分からない数字をさらさらと紙に書いている金髪の青年だとは、誰も想像ができなかった。
 
 ベッドの上から、蹴り出された大総統が枕を抱えたまま、恋人に愚痴る。
「エドワード、仕事はその辺にしてそろそろ」
「てめえが国の会計やれっていったんだろうが。宿については顧問になって姉ちゃんに経営頼んだから楽になったけど、それでもまだやることあるんだよ」
「そろそろ息抜きを」
「俺は仕事が息抜きだし」
「……なんでそんなワーカホリックに……」
「……」
 あんたのせいだよ、との言葉は脳内に留めて、エドワードはベッドに起き上がると、一ヶ月ぶりに出張から戻ってきた恋人に、「寝ようか?」と誘ってみる。
 嬉しそうに人を抱きしめる恋人の腕は、多分エドワードの思う寝る=睡眠ではなくなっているようだけど、そんなのは些細なことで、多分こうして側にいられるんだったら、本当はもっと、どんな仕事だってしてもいいんだけど、とは、恥ずかしいから口には出さないことにする。
 
 ――気づかれているような気も、しなくはないけれど。

(終わり)