黒の祭壇

黒の祭壇

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 大佐が兄さんをいきなりかっ攫って行ってから一時間近くが経過している。
 汽車はもう出た。
 それはともかく、四時のには乗れないと断言されたとはいえ、いつ帰ってくるか、どこに帰ってくるかも分からないとなれば、アルフォンスは結局ここを動けない。
 あの時の大佐の瞳は拒否を許さないと暗に威圧していて、アルフォンスは気圧されてしまって何も言えなかった。
 どうしよう、駅員さんにでも伝言を頼もうか。
 しかしこのベンチは少し駅から離れていて、駅員さんに時々ここに人が来ないか監視してくれ、というのも申し訳ない。
 今は誰もいないベンチを眺めていて、ふと思いついた。
「あ、そうだ」
 ベンチを錬成して、メッセージを書けばいいのだ。
 兄さんがここに戻ってきてメッセージに気がついてくれるだろうし、その時に用済みのメッセージは消してくれるだろう。公共のベンチには悪いが、数時間のことならば勘弁して貰うとして。
 早速、とチョークを取り出して、ベンチに錬成陣を描き始める。
 普通にチョークで文字を描いただけなら、誰かに消されてしまうかもしれないので、ベンチ自体に錬成陣で埋め込むつもりなのだ。
 最初の丸を書いて、△を三つくらい書いたところで、中断を命じる声がした。
「わりい!アル!」
 振り返る。
 どうやら全力疾走してきたのか、兄は息を荒くして、アルフォンスの後ろで呼吸を整えていた。
 気がつかなかった。集中していたらしい。
 書きかけの錬成陣は用無しになってしまう。
「遅かったね、兄さん。どうしちゃったのかと思った。大佐の話ってなんだったの?」
「………催眠術の件だった」
「ああ、やっぱり」
 そろそろかなあ、とは思ったのだ。三ヶ月以上もばれなかったのが不思議なくらいだ。司令部から出てきた兄さんが酷く沈んだ顔をして、ばれた、と言っていたので、仕方ないかなあ、とは思ったのだが。
 兄にとっては強制的すぎる善意なので、大佐が素直に喜んでくれるとは思わなかったが、酷く落ち込んでいる様子だったので、あえてアルフォンスは何も言わなかった。
 ばれた後にどうせ走って逃げだしたんだろうな、と思っていたのだ。
 確信を持ったのは大佐が追いかけてきたからで、きちんと話が出来ていたのなら、大佐が追いかける必要はないのだから。
 だから、謝罪だったのか文句だったのかは知らないが、円満に話し合いをしてもらうことは必須だ。自分達のこれからの平和な道程のためにも。
 なにせロイの後ろ盾は実に便利なのだから。
 なんだけど。
「で、兄さんきちんと大佐と決着はつけられたの?」
「…………」
 そこで口ごもる理由がよく分からない。全身からその件については触れないでくださいの空気が漏れ出ている。
 その上。
「なんか顔赤いよ。そんなに走ったの?」
「う……ん、まあ」
 初めて気がついたのか、兄さんはぐい、と頬を擦ると、おぼつかない足取りで歩き出す。
「早く行こうぜ、次の汽車何時だ?」
「十分後。それはいいけど兄さん、足がふらついてるよ、体調悪いならもう一日…」
「ぜってえやだ!これいじょうあいつと同じ所になんかいられるわけねえだろ!」
 全速力で拒絶の叫びを返されて、ぴんと来た。
「…兄さん、また大佐と喧嘩したの?」
 うるせえ、と赤い顔で怒鳴られる。
 図星だろうか。
 だが問い詰めたところで兄の態度が変わるとも思えない。
 汽車の到着アナウンスの音に走り出したエドワードを追いかけながら、そういえば書きかけの錬成陣を消していないことに気がついた。
 
 
 
 旅先のホテルに大佐から電話があったのは翌日のことで。
 電話口で何事かを言い合っていた兄は涙目になりながら電話を切ると、重苦しい声で「催眠術、解きに来いっていわれた…」とこの世の終わりみたいにしんみりと言った。
 当然じゃないの?とアルフォンスは思ったが、兄はえらく気分が乗らないようで。
 その電話が、大切な兄を絡め取る魔の手の一つ目だったのだと、アルフォンスが思い知ったのは数ヶ月後のことだった。

(終わり)