6(連載中)
ちょっと理解の範囲を超えていた。
男の説明は、意味は分かったが、それだけだ。
なるほど、それは確かにこいつが「壊れる」とか言うわけだ。
男がエドワードに花売りの内容を語ってくれた時間はせいぜい五分くらいだったと思うのだが、これほど理解不能な話は初めてだ。
親父が持っていた小難しい本を一晩読む方がもっと頭がすっきりする。
「……なあ、おっさん」
「―――――だれがおっさんだ!」
「あんたが言ってた意味は分かったんだけどさ、なんでそんなことするんだ?」
「……君ね」
おっさんはおっさんじゃないかと思った。エドワードからしてみれば大人はみんなおっさんだ。
だからいちいち説明するのも面倒で、聞き流す。
「そういうことするのってさ、女の人じゃないの?」
「まあ、普通はそうだな」
「なんで男と男でそんなことするんだ?何が楽しいんだ?」
「……私にも何が楽しいか分からんが、君が面白いと思うことでも他人がつまらないと思うことがあるのと一緒で、その逆もあるということだ」
「? つまり?」
「―――理屈はどうでもいい。そういうことを好きな人がいて、そういう商売は実際成り立つと言うことだ、だからね、君」
「だったら、男相手にそういうことすれば、俺、金稼げる?」
「…………」
なぜか男は絶句していた。
すぐにそれは途方に暮れた表情に変わる。
「エドワード、君ね」
「アルにミルク買ってやれる? お腹いっぱいご飯食べれる? 俺みたいな子供でも、働けるのか?」
「……待ちなさい、エドワード」
男は軽く手を振って、制止するような素振りを見せた。端正で不遜な面立ちが、なんとなく情けなさそうな物に変わる。その原因を追及している暇はなかった。
だって、男が語ってくれたことは、エドワードが欲しくてたまらなかった情報だ。
「俺、どんな仕事をしたくても、どこに行っても子連れの子供だからって断られた。殴られたり蹴られたり。もうあと五つ歳が上なら、って何度も思った。だから俺の歳で働ける仕事があるんだったら」
「………無知というのは腹が立つものだな」
がしがしと頭を掻きながら男は溜息をついてエドワードの発言を遮る。
「子供相手にきつく言うのもと思って遠慮していたが、間違いだったな。いいか、君がそんな仕事をしたら、弟にミルクは買えないし、お腹いっぱいご飯など食べられない。なぜなら君はそんなに持たない。一ヶ月くらいで死ぬな」
「……」
死ぬ。
さっきまでその覚悟をしていたのに勝手なものだが、突然の通達に一瞬頭が白くなった。
「……死ぬって」
「十だか八だか知らないが、君はどう見ても体型が五歳児だ。一回お勤めしたら、限界だね。皮膚が裂けて血塗れになったら仕事にならないんだから、次の客を取るまでに寝込むだろう。あまりにも割りにあわない。一回やって、一週間や二週間動けなくなる仕事をやるつもりか? その間弟の世話は誰がするんだ?」
「…………」
現実的な話を持ち出されて、焦燥がへろへろと萎んでいく。
「一回でかなり稼げるかもしれないが、長くは続かないさ。君は弟のミルク代と自分が食べられるだけの金が稼げればいいんだろう。借金があるわけでもなさそうだし。だったらもう少し地道に働け。この店の雑用で充分生活できる」
「………でも、俺、ここにあんまり長くお世話になるわけにはいかねえよ」
一晩の宿を貰えただけでありがたいと思っているし、いつ追い出されるか分からない。だからお金は稼げるなら稼いで、たくさん貯めておきたいと思っているのだ。
「彼女たちはいそいそと君の部屋を掃除してるぞ。……違うな、君たちの部屋になるであろう部屋か」
「え?」
座っていた男が、突然立ち上がった。
床に座り込んだまま、一瞬身震いする。
壁に背中を押しつけているので咄嗟には逃げられず、男の意図も掴めないため、せめて黙って睨みつけてみた。
「いい加減に、身体を労りなさい。ここまで傷だらけになってるんだから、もういいだろう」
「……え?」
目の前が暗くなったと思ったら、優しい手がエドワードの頭に触れた。
見上げる余裕もないくらい、漂白された頭が、ぐるぐると廻っている。
「もう一度言う。君の弟も、君も、衣食住は保証された。だから、身体を傷つけてまで働く必要はもう、ないんだ」
頭を撫でられている。
頭皮に当たる暖かい体温が、心臓に忍び込んで、鼓動を緩めさせた。このまま、ゆっくりと人の息の根を止めようとするみたいに。
「よく頑張ったな、お兄ちゃん」
ぽんぽん、と最後に二回ほど頭を軽く叩かれて。
初めてエドワードは頭を上げて、男の顔を間近で見た。
頭上では忍び笑いを浮かべながら、そっと頬を撫でる優しい面立ちがある。
警戒心の壁にヒビが入って壊れていくのが自分でも分かって、心の一部が塞ごうとしているが、間に合わない。それよりも漏れ出る水の方が多くて、それはあっさりと固まった心臓を解かす。
嫌な予感がした。ひどく。
守って守って守ってきた物を壊されそうな。
野生動物のはずの自分に首輪をつけられそうな、そんな、嫌なくせに心地よい錯覚。
「……あ、あの……」
エドワードが何かを言いつのろうとした刹那。
「マスタングさーん」
コンコン、とノックの音の後、からりと扉が開いた。
「将軍様、お帰りですよ」
顔を覗かせた女中は、泣きそうなエドワードの姿を見て、むう、と頬を膨らませた。
「マスタングさん、子供が怯えてますよ」
「ははは、どうやら私は厳しいらしいね」
さっと暖かい掌が離れていく。
床に置いたままの本を無造作に拾うと、男は、じゃあな、私はおっさんじゃないからな、とエドワードに指を差して念を押しながら部屋を出て行った。
言おうとした言葉がなんだったのか、もうエドワードは思い出せなくて。
なんだか胸に溜まった湯気と目尻の水がやりきれなくて、アルフォンスを抱きしめた。
(終わり)
