黒の祭壇

黒の祭壇

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裏切り

 背中を押す手。

 彼はいつも自分の背中を押してくれていた気がする。
 他の将軍が自分の悪口を言っても、「マスタング大佐は結果をきちんと出しているだけではないか。そう言う君たちは彼に文句を言えるほどの功績をあげているのか?」
と平然と言ったのは彼だった。
「君は実力があるんだから、やりたいようにやればいい」

 男の口癖だった。



 さきほどから、エドワードの汚い文字の報告書を見てはいるが、内容が頭に入っていない。
 読んでいる振りをしているのは分かっている。
 文字を追いかけてはいないが、紙は眺めている。
 なんだか、何も考えたくないようだった。

「…なあ」
 どうしようかなあ。いや、どうしようもないか。時間が経つのを待つだけで。

「…大佐ってば」
 どうも先ほどから頭に何も入ってこないので正直困る。これではいけない、と思うのだが、その  思考すらもすぐに無が塗りつぶす感じ。
「たーいーさー!」

 目の前で小さい赤い物体がばたばたしている。
 
 ところで、前見た映画で、最後に虚無が世界を覆い尽くしてしまうので、無と戦うというのがあったな。
 あれは、なんてタイトルだったっけ。
「おい、無能ってば!あんたさっきから全然読んでないだろ!」

 視界をぶんぶんと横切る金色の蜂が五月蠅い。
 
 見に行った女の名前は何となく覚えてるんだがなあ。そうそう、なんか金色の髪をしていたな、  だけどやっぱり今目の前にいるこの子の方がよっぽど。
 
 ――――――――――戻った。
 
「…鋼の?」
「鋼のじゃねー!」
 机の上に放置してあったクリアファイルでべしんと一発。
 肉体的ダメージまで受ければ、なんとなく無の空間が埋め尽くされていく。

「乱暴だな、君は」
「あんたがぼーっとしてるからだろ」
 さっきからずっと声掛けてるのに無視しやがって、涎でも垂れてるんじゃねえかと思ったぜ、だいたい大佐はいつもいつも。
 ああ、なんかがみがみとこどもはまくし立ててくる。
 左から右に通り過ぎそうになって、又むくむくと空っぽになっていく。

「はいはい戻る!」
 両方の頬をばちん、と挟まれた。
「これ以上俺が目の前にいるのに無視するなら頭突きしてやる」
「……………」
 机の反対側から少し彼には高いはずのその位置で、少し頬をぷっくりさせたエドワードが今にも噛み付きそうに見つめている。
「頭突きは、嫌だな」
 言って、その自分の頬に当たっている両手を握ると、彼は少しだけ人の顔を引っ張った。
 乱暴そうに見えて、心配そうなその仕草。
 
 ああ、ひょっとして。
 
「…なんだ、心配をかけたんだな、私は」
 目の前でぼーっと意識を飛ばし続けていたら、不安にも思うはずだ。
 掴んだ彼の手を離すと、エドワードは躊躇いながらも身を引いた。
 なにか、あった?と聞いていい物かどうか悩んでいる顔だ。
「そうだな、ちょっとだけ」
「?」
 苦笑すると、おいで、とエドワードを呼ぶ。
 いつもなら絶対に呼ばれると逃げる少年は、一瞬俯くと、なぜか素直に机を廻って椅子に座る自分の目の前に立った。
 その鋼の腕。冷たいけれど、ロイの大好きな鋼色。
 なんだか少し顔を赤くした少年は、そこで立ち止まるかと思えば、よじよじとロイの椅子の上によじのぼった。

「は、鋼の?」
 膝の上に座ると、そのままエドワードはぎゅう、と首に抱きついてくる。
「…………」
 自然、椅子の上で子供に抱きつかれたロイは両手をどこにやっていいか迷いつつ、最終的にはその背中に廻すことにした。
「甘えんぼだね、君」
「うるせーよ」

 くすくすと笑う。
 いつもなら手の一つでも出る筈の彼が、黙って暴言に耐えている。
 その顔が見えないように抱きついているのも、計算なのだろうか。
「まあ、たいしたことじゃないよ。いつも自分をかばってくれて、背中を押してくれていた将軍がいて」

 まるで、ぬいぐるみを抱きしめているみたいな心地の良い感触。
 柔らかいのは子供の身体だからか、それともこれがエドワードだからか?

「いつも足を引っ張ろうとしていた他の将軍達の中で、彼だけが味方になってくれたのに」

 ぎゅう、と抱きしめると、この赤いコートが皺になる。その下の自分にしがみつく肉体。
 
 ……不思議だ。無垢な赤子を抱いているような気分になった。
 
「実際、彼の下でこの前数週間働いたら、突然豹変した。それだけさ」
 いざ自分に降りかかってくると、追い落とされると思ったのだろう。
 君の実力を理解できない奴らがおかしいんだ、とか言ってくれていたあの将軍は、ほんの数日で、いなくなってしまった。
 他の誰に罵られても、彼の瞳にだけは自分を警戒する物を映して欲しくなかったのに。

 さすがに、堪えた。

 信用していたのだ、あの人だけは。
 感謝もしていた。いつまでも味方でいてくれると勝手に思っていて、その下で働く機会を得たときも、正直嬉しかったのだ。
 彼ならばきっとロイのやりやすいようにやらせてくれるだろうと、期待していたのに。

 ――――――――――あれは、ないだろう。
 あんな、冷たい厳戒体勢の瞳は、いくらなんでも、想像の範疇を超えていた。
 
 目の前には、小さい子供の髪の毛がある。三つ編みをほどきたいな、と思い、そういえばそれはいつも  ベッドの中だった、と唐突に思い出した。
「裏切られた、気がしたな」
 こんなに赤子みたいに可愛いのに、ベッドの中ではどこの娼婦かと思うほどに妖艶な。

 裏切りなら、これもか。
 そんな馬鹿馬鹿しい思考が生まれたことに、安堵の笑いが漏れた。
 
 …簡単な身体だ。エドワードを抱きしめることなんかで、傷口に薬が浸透していくんだから。
 
 ゆっくりと子供は身を起こして、両手を肩においたまま、じっとロイを見た。
 少しくらい照れがあるかと思ったのに、なぜか透明な瞳に、心臓が止まりそうになる。
「その人、弱かったんだな」
「…………弱い?」
 不思議な言葉だった。
「心が弱かったんだよ。強かったら裏切らない。だからさ、大佐」
 可哀相な人だね、その人、と。
 エドワードは言って、ロイにキスをした。
 
 すぐに離れた口づけに、呆然とエドワードの顔を眺めると、流石に子供は少し恥ずかしくなったのか、  ぺち、とロイの顔に手を当てて視界を遮る。
「…あんまみんな」
「いや、見るなって、君、ベッドの中じゃあるまいし」
 指の隙間から、そっぽを向く彼の姿が見える。

 どうしよう。なんかすごい可愛い。

 誰に裏切られてもいいから、この子にだけは裏切られたくないと、突然水道管が破裂したかのように沸き上がった。
 小さい手に、小さい身体。なのに無意識に自分を包もうとする腕。
 この子に裏切られたら、きっと壊れる。

「君は、強いから」
 顔に当てられた掌を上から重ねて、引きはがす。

 きっと、この子は裏切らないと、多分自分は信じたいのだ。
「強いから、大丈夫だな?」
 弱々しく確認する自分が情けない。こんな確認には意味もなく、人はいつでも弱いわけではない。
 弱くなった瞬間に裏切るのだ。あの将軍は負けてしまった。自分の心との戦いに。
 ふと、真理の扉がそこに見えた。
 
 …なんだ。私が悪い訳じゃないのか。

 あの男が、負けただけか。
 
 と、思えばなぜか視界はクリアになった。
 身の内の虚無は霧散して、そこに代わりに埋まる物がある。
「…俺だって、わかんねえよ」
 ふて腐れたような彼の声に、心臓が鳴った。
 抱き合う寸前まで近づいた今の状態で、息を呑む。
 思わずエドワードを凝視すれば、彼は黄金の瞳で訴えた。
「俺の心なんて、あんたのことになるとすんごい弱くなるんだよな」
 いつも不安だし。
 ぽつりと追加されるその不安がなにか。きっとロイも同じものを持っている。
 
「いつか、裏切るかも」

 震えるように笑われて、そんな言葉を言われても、思考を奪われるだけなんだが。
「それなら私も一緒か」
 彼のことになったら、何時だって不安で仕方ない。きっと心は力のない粘土だ。
 こちらも、いつ裏切るか分からない。
 でも、多分その裏切りはきっと優しくて、待ち遠しい物なんだろう。
 
 
 
 とりあえず早く身体を取り戻してくれないと。
 君は自由にしていればいいと言っていた約束を破って、家に連れ込むくらいの裏切りはいつかしそうだなあ、と思いつつ、  目の前で裏切りの内容を考えているらしい彼の脳を覗いてみたい気がした。
 
 赤くなっている頬を見るに、それはロイにとって嫌なことではなさそうなので。
 とりあえずは満足してその額にキスを落としてみたりするのだった。




人間には、裏切ってやろうとたくらんだ裏切りより、心弱きがゆえの裏切りの方が多いのだ

ラ・ロシュフコーさんのお言葉からでした。裏切りは辛いかも知れないが、その人の心が弱かっただけと思えば少しは気も晴れるかしらん。

(終わり)