黒の祭壇

黒の祭壇

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16(連載中)

 覚悟はしていたのに、心臓は抉られた。
 驚いた。覚悟してこれならば、覚悟していなかったら、心臓は潰れて死んでいたかもしれない。
「……いつ」
 どこも悪くないのに、なぜか苦痛が地面から流れ込んでくる。倒れるものかと、ふんばった。
「明日」
「違う。いつ、帰ってくるんだよ」
 出ていく日にちなど知らない。聞きたくもない。だってそれが一週間後でも一年後でも、こいつは俺と会うのを今日が最後にしようと思っていたことぐらいもう分かる。
 ならば実際にいなくなる日は関係ない。エドワードにとっては、最後に会う日が、別離の日だ。
「そんなに、寂しそうな顔をすると、ほだされそうになるな」
「……してねえよ」
 顔を背ける。あんたなんかいなくなったって平気だ、と口に出そうとしたのに、どうしても口が開けられなかった。
「帰ってくるのがいつになるかはわからない」
「……それって、出世なのか?」
 男が軍での地位を上げるのならば、よいことなのかと思った。
 なのにロイは顎に手をあてて、うーん、と唸った。
「一応、そうらしいな。数年僻地で頑張れば、帰ってきたら星が増えるらしい」
「そっか……」
 ほ、と息を吐く。
「だったら、いいや。あんたみたいなのが上に行ったら、俺達みたいなのも、もっと住みやすくなりそうだから」
 離れるのは寂しいけれど、男にとって悪い事じゃないなら、笑って送り出せると思った。
 いつかは来ると、知っていた。どうせ、いつまでもこんな状態ではいられないと分かっていた。三年も続けさせて貰えて、長かったくらいだ。
 空元気で頷いて、せいいっぱい平静を装った。
 そんな俺に、男は腰を落として、膝を地面に着く。
「……抱きしめようと思っても、この身長差では、私が屈むしかないんだな」
「誰が……!」
 ミジンコか、と言おうとした唇を、男の指が触れて止めた。
 視線の威力に気圧される。頬が熱くて、触れた指から熱が放出されているのかと思った。
「次に会うときは、せめて私が抱きしめられるくらいには伸びていてくれたまえよ」
「こんなんあっという間にあんたなんか追い越すに決まってる」
 次にあったらあんたを見下ろしてやるんだ、ざまあみろ、と言ってやったのに、全く奴は堪えてないようで楽しそうに笑う。
 嫌な微笑みだ。
 ごめんね、と母さんが俺に言うとき、こんな微笑みだった。
 母さん相手には出来なかったこと。
 男の頬を掴んで、捻った。
 むに、と音がして、美形のはずの顔が変な形になる。
「……痛いんだが」
「しけた面、嫌いなんだよ俺」
「君ね」
「笑え。次に会うときに、俺が覚えてるあんたの最後の顔がそんなじめじめした顔だなんて冗談じゃねえ」
「……それを言うなら」
 掴んだ手をゆっくり離される。
 頬は元に戻って、また普通の美形になった。つまらねえ。
「君こそ、笑ってくれないと困る。お互い様だろう」
「俺、笑うの苦手なんだよ」
「自分に出来ないことを人にやらせるつもりだったのかね、君は」
 はあ、と溜息。
「だって、あんたいつもうさんくさい微笑みうまいじゃん。笑うのなんてすぐだろ。俺と違って」
「私はうさんくさい微笑みしか出来ないだけだ。君が望むような微笑みなど、出来そうにないね」
 子供くさい言い訳をされて、少しあっけにとられた。こいつ、実は結構大人げなくないか?
「――――じゃあ」
「ん?」
「次に会ったときには俺もせいぜい綺麗に笑ってやるから、あんたも次に会ったときには笑えよ」
「……今じゃないのか」
 不満そうな大人には知らんぷり。
「お楽しみはあとに取って置いた方がいいっていうだろ」
 言い訳も甚だしいがそう言って誤魔化せば、男は諦めてくれたようだ。
「では、次に会った時には、君は綺麗に笑って、私が抱きしめられるくらいにまで身長も伸びて、おかえり、と言ってくれると誓えるな?」
「……う、まあ、一応」
 言われると自信がなくなってきた。
「だからあんたも、次に会ったときにはそのうさんくさい笑みはやめろよ」
 えい、と鼻に指を当ててみる。アルフォンスみたいに皮膚は凹まなかったが、少しだけ形が変わって楽しかった。
「分かった。ではそれを楽しみにするとしようか」
 男はそういって立ち上がる。
 手が離れたと思ったのに、何が楽しいのか、また奴は繋いできた。
 ちょっとびっくりして見上げる俺に、あいつは相変わらずのうさんくさい笑みで。
「これからが、一番綺麗になっていく時期だったのになあ……」
「は?」
「見たかった。残念だ」
「え?」
「彼女が楼主だから、蝶の孵化を見せ物にはしないだろうし、見れないのは私だけではないからいいんだがね」
「? 何の話だ?」
 なんでもないよ、と不可解な笑みで誤魔化した男は、遊歩道を抜けるまで、さっきまでの沈黙が嘘のように、くだらない事ばかり喋った。
 この道が終わらなければいいのにと思ったことなんか、絶対に言えないけど、出口が見えた瞬間に思わず手に力が篭もってしまったので、あいつにはお見通しだったのかもしれない。
 
 
 
 男の転勤先が、戦場だと言うことを知ったのは、一ヶ月後の新聞だった。
 知ってしまったのは、文字が読めるようになっていたからだ。
 
 文字を教えた男は新聞の中で、硬い表情で戦地に立っている。
 産まれて初めて、文字が読めることをエドワードは呪った。

(終わり)