黒の祭壇

黒の祭壇

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42(連載中)

 ハクロが立ち去った後、アンナ姉ちゃんは疲れ果てた顔をしながら、ぼんやりと、床を見ていた。
 なんとなく手持ちぶさたになってしまった俺は、お茶を入れてくると言いながらその場を立ち去るという卑怯な手で逃げようと立ち上がる。
 彼女が先に泣いたり怒ったりしてくれるから、エドワードの方が逆に何も言えなくなる。
 だけど、もしアンナ姉ちゃんがいなかったら、俺はこの事実を冷静に受け止められただろうか。
 自分を最初に相手するのが、レイブンの爺さんだという事実を。
 彼女のおかげで、逆に頭が冷えた気がする。
 部屋を出るときに振り返ると、憔悴しきった彼女の目元に微かに滲む涙を見て、エドワードは声が出なくなった。
 ……誰が彼女を泣かしているのか。
 
 ――自分だ。
 
 必死で止めてくれる店のみんなを裏切って、頑固にも続ける、といった自分なのだ。
 泣かせたいわけじゃない。みんなに幸せでいて欲しい。だったら、俺がここから逃げたら彼女たちは幸せになれるんだろうか。
 きっと笑ってくれるだろう、喜んで送ってくれるだろう。
 そして、ストッパーの居なくなったこの店は、ハクロとキンブリーにいいようにされる。
 減った売上の分働かされ、ぼろぼろになって使い捨てられる。
 今までこの店で仕事を終える女性は皆、仕事が終わっても生活が出来るように、新しい就職先と、ある程度の退職金を渡される。それはピナコばっちゃんが始めた物だが、他の店は導入しているところは少ない。
 彼女たちが店で働ける時間は、そう長くない。
 だからこそ、その後の生活の礎になるのはお金だった。自分がこの店を去れば、そのために貯めたエドワードの裏金も、確実に見つかってしまう。
 彼らはその金を自分たちのためにしか使わないだろう。
 その最悪の予想は、エドワードの心臓をきゅっと縮めた。訪れる不幸に、想像だけで身震いする。
 ――ああ、やっぱり駄目だ。
 考えれば考えるほど、ここを離れる気持ちが萎えていく。
 放置してなんか、いけない。
 今まで通り雑用としていられないなら、どうしてでも残るしかない。
 一時的に泣かれたって、彼女たちの人生を考えると、やっぱり無理だ。
 部屋を立ち去り、台所でお湯を沸かしていると、決意はどんどん固くなるばかりで、そんなエドワードの胸の内を知れば、アンナはまた殴っただろう。
 彼女たちを泣かせる申し訳なさと、それでも動けない自分の頑固さが相まって沈んだ気持ちのまま湯気だけをぼんやり見つめる。
 頬に当たる水蒸気が生ぬるい。
 こうして、台所でお茶を沸かしたり、掃除したり洗濯したり。
 もう少し大人になれば、ここにいる人たちは自分より年下になって、姉ちゃん、と慕う事なんてなくなるんだろうな、なんて思っていたのにまさか自分まで店に出るようになるとは思わなかった。
 ――まあ、それでも生きていればどうにかなるものなのだが。
 こうなってしまうと、ロイが俺のことなんか完全に忘れていてくれたらいいと思う。
 自分の決断に後悔はないけど、あのおっさんの中では俺は小さい子供のままでいて欲しい。今の自分は見せたくない。あれだけ世話になったのに勝手を言うようだけど、侮蔑の視線で見られるのかと思うだけで、恐怖で心臓が止まりそうになる。
 ぼんやりしているエドワードの目の前に突然ぬ、っと大きな腕が伸びてきて、はっと我に返る。
 伸びてきた腕は、コンロのつまみを締め、その瞬間、お湯が薬缶から吹きこぼれ蒸発した。
「危ないぞ」
「あ、ああ……ごめん」
 今日は意外な顔ばかり見る日だ。
 お湯がすっかり沸騰していたことすら気づいていなかったエドワードには、当然すぐ隣に人が居るなんて気がついても居なかった。
 すらりとした長身と柔らかい笑顔。未だ成果が見られないと毎回申し訳なさそうに言う探偵さんは、仕事を度外視した点でもエドワードを気に入ってくれているようだった。
「ハボックさん」
「よー。なんかさっきハクロが出て行ったのが見えて、気になってさ」
 ぽりぽりと頬を掻きながら照れ笑いを見せる姿に、吹き出しそうになる。心配してくれたらしい。
 己がどれだけ周囲に愛されているのか、そしてその気持ちを踏みにじっているのかを嫌でも感じざるを得ず少し痛い。
「おまえ店に出るんだって?」
「……なんで知って」
 慌てて顔を上げたら、ハボックは眉を顰めた。
「聞いたんだよ。ちょっとな」
 そう言って煙草に火をつける。
「さっき、アンナに会ってな。泣いてたぞ、あいつ」
「……」
 何も言えない。そんなことは承知していたからだ。だからエドワードは戻るに戻れずこうして台所に突っ立っている。
「いつかはこんな日が来るような気がしてた、っていってたぜ。おまえは、頭がいいのに自分のことにだけは関心がないから、自分がそういう対象に見られることを理解してなくて、対策なんか、何も取ってないだろう、って」
「――そうなのかな。俺にはよくわかんねえ」
 俺よりも、俺のことを心配してくれる人たちの方が分からない。
 ハボックは煙を吐き出しながら、椅子にどっかりと座り込む。
「これが、他人のことなら、おまえはいくらでもうまい逃げ道を考えつくんだろうけどな。自分のことだと鈍くなる」
「ひょっとして、そんな説教しにここに来たのかよ」
 朗報を持ってきたわけではないらしい。彼の言うことはいちいち最もなのだが、エドワードとしてはもうこれ以上触れられたくない話題だった。
 エドワードの不機嫌そうな声にも探偵はけろりとしたものだ、エドワードにお茶を要求しながら、煙草を平然とくゆらせている。
「いや? 俺は仕事できただけ」
「――見つかったのか!?」
 もうずっと前から探している、ピナコばっちゃんの孫。
 見つからない見つからないの報告は耳にたこができるほど聞いている。期待に胸を膨らませて詰め寄るエドワードに、ハボックは誤魔化すように笑った。
「やー、わりい、それはまだなんだ。今日は別件」
「別件?」
「依頼主はピナコのばあさん。生きてる間に頼まれてたんでね」
「……え?」
 煙草を吸い終わったハボックは立ち上がる。エドワードが用意していたお茶を勝手に奪い取り飲み干すと、まるで酒を飲んだ後みたいに満足げに息を吐いた。
「本人にその気がないなら、俺らがやるしかないだろ。――エド、出かけるから用意しろ。連れて行きたいところがある」
 そう言って、ハボックはエドワードの髪の毛をぐしゃぐしゃと混ぜた。
 
 
 
 ――それが、エドワードが店に立つ、一週間前の話。
 

(終わり)