黒の祭壇

黒の祭壇

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41(連載中)

 さっきまでその話でアンナ姉ちゃんと揉めていたというのに、今更ながらに現実感を持って言葉が脳の中で分解された。

 俺を買う人?

 いや、そりゃあいるのはいるんだろうが、まだ店に出ると言うことが決まったという段階なのに、なんでそんな話が出てくるのか。そういうのは店に出てからの話ではないかと思っていた俺と違って、アンナ姉ちゃんは何のことか分かっているようで、唇を堅く噛んでいた。

「誰ですか?」
 硬質な声でアンナが敬語を使う。
 張り詰めた彼女の空気にも気づかないハクロはこの場所で一人だけ完全に浮いていたが、本人は気づいていない。
 誰とは何のことだか、とエドワードは顔をアンナに向けたが、彼女はハクロしか見ていなかった。
「レイブン将軍だよ。今回の話をしたら、最初におまえを買う、と言ってきてくれてね。嬉しいだろう」
 とっさに首を横に振ったらハクロは怪訝そうに首を傾げた。
「何故だね。最初があのような高位の将軍だなんて、珍しいんだぞ。普通は喜ぶものだ。ひいきにしてもらえたらおまえだって楽になるのに」
「――冗談じゃないわよ! よりによってあんな男になんて最悪じゃないのよ! そんなこというならあんたが相手しなさいよ!」
 アンナはハクロにつかみかかると、その華奢な腕のどこから出ているのか分からないほど強い力でがくがくと揺さぶる。
 ハクロはおうおうおうおうおう、と言いつつも揺れていたが、アンナを突き飛ばすようなことはなかった。
 しばらく、俺より先に怒っているアンナをぽけっとしたまま見ていたが、やっと我に返りアンナに飛びつくと、ハクロから引きはがす。
 アンナは怒鳴り足りないのか、ハクロの股間を蹴り上げようと髪を振り乱していたが、エドワードが抱きついて止めると、少しだけ落ち着いた。
「乱暴だな君は。一応ナンバーワンなんだからもう少し落ち着きなさい」
 まったく、といいつつ、ハクロはよれよれになった襟を直す。
「私が相手をしてどうするんだね。将軍がお望みなのはエドワードなんだぞ」
「だからってなんであんたが勝手にエドの相手を決めるのよ!」
 アンナが怒鳴ってくれるのでエドワードには出番がない。
 自分のことが話題になっているのに、まるで他人の話を聞いているみたいだった。
「私がこの店のオーナーなんだから、従業員のことを考えて最適な客を選ぶことのどこが悪いんだ」
 声を荒げることもなく、それどころかすこし驚いたように言うハクロは、わかってはいたが、やっぱり従業員にも「意思」があり、それが自分の価値観と違うものだというのがわかっていないようだ。
「だったらせめてエドに選ばせなさいよ! あんたのいう最高の客はエドにとって最高じゃないのよ!」
「どこが最低なんだ。将軍だぞ?」
「あんな男に好きにさせたら、手放してくれなくなるに決まってるでしょ!」
「いいじゃないか! 金になる」
「エドの気持ちはどうなんのよ!」
「金が儲かるんだからこいつもうれしいだろう?」
 なあ、と振られたが、首を横に振る気力もない。
 アンナ姉ちゃんが怒ってくれるのはうれしいが、それはハクロに免疫がないからだ。
 散々奴の性格を身にしみてわかっているエドワードは、相変わらず通常運転のハクロの態度が実に「らしい」ので怒ることもなかった。
「とにかく! その話は白紙に戻してよ! あんたが勝手に決めないでちょうだい!」
 ハクロのいいところは少ないがそのうちの一つをあげるとすれば、基本的に怒鳴り散らすわけではなく、部下の暴言にも切れたりしないことだ。
 アンナの失礼な態度にも、奴は激高していなかった。ひたすら、でもなあ、といって唸るだけだ。
「アンナ。無理だ。だってもう話をしたからな」
「だから、ちょっと待ってっていえばいいじゃないの! なんなら私が代わりに言ってやってもいいわよ」
「いや、だからそれも無理だと言ってるだろう」
 そもそも、アンナが言ったとして状況は変わらないのだろうが、そう詰め寄るアンナにハクロは手を振るばかりだ。

「だって、もうお金をもらっているからな」

「――は?」
 なぜかハクロは胸を張る。それがいいことだと言わんばかりに。
「この店が半年は営業しなくてもいい金をぽん、と出してくれたんだぞ! 今更返せるか」
「は?」
「いや、レイブン将軍はすごいな。この前、接待のときにおまえが男だった話とかをしたんだが、聞いた途端になんだか必死で詰め寄ってきたから、軽い気持ちで高いんで、とか言ってみたら本当に言い値を払ってしまった」
「……」
 エドワードの脳裏に浮かぶ光景はあながち事実通りだろう。
 おそらく、ハクロは一応はこちらに話をしようとして、最初は断ったに違いない。だが大量の金を積み上げられ、それに目が眩んだという話だ。
 その上出世の約束でもされたのか。奴としては、気まずそうに笑いながらも、目尻が下がっているのが喜びを隠せていない。
「おまえらにたまには臨時金でも出してやろうかと思ってここにきたんだぞ! 嬉しいだろう!」
「嬉しいわけないでしょうが!」
 アンナは尻に敷いていた座布団をひっつかむと、ハクロに投げつける。
 顔面にめでたくぶち当たった座布団が、ハクロを一歩後退させた。
「臨時金なんていらないから、その金全部返してきなさいよ!」
 もう、ハクロが支配人という感覚すら忘れ去っているのか、アンナは完全にキレている。
 妙に頭の芯が冷静になったエドワードは、そんなアンナの腕に手を添えた。
「アンナ姉ちゃん、もういいよ。多分無駄」
「なんでよ!」
 怒りの顔がこちらを向くが、エドワードにはため息しか出ない。
「……多分、こいつ、もう使い込んでるよ」
「…………」
 みるみる見開かれるアンナの瞳。四つの目に睨まれたハクロは、熱くもないのに手で顔を仰いだ。
「さすがエドワード。よく分かるな。もう一部使ったから返せるわけないだろう。いいじゃないか、こんなすごい商談を取ってきた私に対してのご褒美があっても!」
 どうやらハクロはこれを収めたのは自分の力だと思っているようだが、絶対に違う。誰が行ったところで結果は同じだったろう。レイブン将軍とやらは、俺が欲しいらしい。
 そいつから逃げるためにずっと女装をしていたが、よく考えたらハクロ達にばれた時点で、話がレイブンの耳に届いて当然なのだ。

 慣れたと思ったのに、疲労困憊に陥る呆れは何度目か。
 肩を落とす俺の目の前で、ハクロは一生懸命「店に出なくても将軍が買ってやるっていうし、おまえにとっても悪くないと思うんだが」なんぞとピントのずれた主張を繰り返していた。

(終わり)