57(連載中)
偉大な食事で稼げた時間は僅かな物だった。
食事が終わった後は集中砲火。
なんでなんで、どうにかならないの。あのおっさん締めていい? などなど。
いやよいやよと泣く人いれば、仕方ないのだと理解してうなだれている人もいる。
だけど、結局最終的に、姉ちゃん達は俺に向かって
「逃げてよ、エド」
――と、そう言った。
綺麗な紙に、綺麗な顔、着物も綺麗に着込んだみんなは、やっぱり心も綺麗で、エドワードはみんな大好きだ。
そう言ってくれることが、嬉しくもあって、そして苦しくもあるんだと、思わず笑った。
彼女たちは知っている。
俺が逃げる事で、この店がどうなるかわからないということくらい。
レイブンの顔に泥を塗れば、彼女たちに何らかのしわ寄せが来る。酷い扱いを受けるかもしれないし、店としても締め付けられるだろう。それが怖くないはずがない。この国で、軍に逆らうと言うことは、いつ鉄砲で撃たれて川に沈むか分からないのと、同意だ。
刀を喉元に突きつけられた状態で、これから過ごすと分かっていても、彼女たちは、俺に逃げろと言う。
多分、並大抵な覚悟じゃない。その証拠に、みんな黙って俺の答えを待っているけれど、その手は震えて、表情には隠しきれない恐怖があった。
「ありがと。でも、逃げるつもりはないんだ、決めてたことだし」
いったん引き受け、その後で逃げ出した方が、絶対にいい。屋敷の警備がどんなに厳重であろうとも、抜け出せる自信はある。幼い頃に、あのおっさんは髪の簪一つで部屋の鍵を空ける方法まで、俺に教えてくれやがった。
「逃げればいいじゃない! もう十分よ。ピナコばっちゃんだって、エドがこの店の犠牲になって縛り付けられる事なんて、望んでたわけないもん」
「そうだよエド。だから、あの時だって店を出ていけ、って言ったんじゃないか」
古株のシンシアはさすがに覚えている。
レイブンに興味を示されていることに気づいて、俺を他の店に奉公に出そうとしたこと。ピナコばっちゃんはおそらく、俺の幸せを何よりも望んでいてくれた。
――そんなことは分かってたのに、ちくちくと胸を針が刺す。
「そうだよな。多分ピナコばっちゃん、今頃怒ってるよな」
レイブンから逃がそうとしたのに、今やレイブンが客だなんて。自分の苦労は何だったのかと、草葉の陰で泣いてそうだ。
なんだか俺はつくづく、いろんな人の望まないことをやっている気がする。
「とにかくうちの店としては、レイブンがあんたを迎えに来たら、鉄砲ぶっ放してでも追い返すからね! そのつもりでいなさいよ!」
「え。い、いやそれはまずいって!」
「もうきめたもん」
アリス姉ちゃんがきっぱりと言い放つ。
頭が少しくらくらしてきた。それはまずい。まずすぎる。軍人に鉄砲向けるなんて、下手したらその場で銃殺だ。
やばい、この人達自暴自棄になってる。
「ちょ、ちょっと待てよ。どうなるか分かって言って」
「わかってるわよ!」
空気を裂くような声で叫んだのは、クレア姉ちゃんだった。
着物の裾を握りしめ、ぼろぼろと涙を流しながら、彼女は首を振る。
「分かってるわよ! でももう嫌なのよ! エドにだけ全部を押しつけて! 小さいときからずっと、ずっとじゃない……!」
声が出せなかった。
姉ちゃんの叫びは、そのくらいの迫力で、エドワードに反論を封殺させる。
「もう私達十分我慢したわ。楼主が死んで、次をエドに押しつけて、ハクロなんかにいいようにされて。レイブンから遠ざけたかったのに、それすらも出来なくて。どうして私達が今も昔みたいに働けていると思うの。知らなかったとでも思ってた? それ、全部エドが被ってきたからじゃない」
「……被った、つもりは……」
そんなつもりは毛頭なかった。考えたこともない。いつだって、姉ちゃん達が幸せに働けるなら、その環境さえ守れればいいのだと。そのための最適解を探してきたつもりだ。
もっと上手いやり方もあったのかもしれないけど、俺の頭では限界だった。それでも一応、エドワードが考える限り、一番いい道を選んだ気がする。だから今の状況でなんとか持ちこたえているのに、どうして彼女たちはそれが不満なのか、エドワードには分からなかった。
「エド」
ベティ姉ちゃんが、俺の手を取った。優しくて白くて細い手。その手はゆっくりと俺の手の甲を撫でる。
「もう十分貴方は頑張った。だから、もういい。この店の犠牲になる必要なんてない。拾ってくれた恩なんてもう返し終わってるんだから」
「だって……」
この店を守らなければ、彼女たちはどうなる。
この店を守らないと……俺は、あいつと出会った場所が、なくなって、しまう。
「……」
――突きつけられる、本当に醜くずるい自分の気持ち。
彼女たちは純粋に、俺が彼女たちの事だけを考えて、店を守ろうとしてるんだと思ってる。
くらり、と目眩がして、鼻の奥がつんとした。
……違う。
違うんだ、口になんか出せなくて、感情を言葉にすることも、考えないようにしていたけど、――でも、ほんとは。
なくしたくなかった。
二度と会えない相手でも、報われなくてもそれでも、小さな俺が、あいつに勉強を教えて貰って、遊んで貰ったこの場所を、どうしてもどうしても守りたかった。
(ああ……俺、ダメだな……)
今になって気づいた。
俺の中では、あの頃のまま、時が止まってるんだ。
大佐がいて、俺が小さくて、ピナコばっちゃんがいたあの頃。
多分一番幸福だったあの頃。
絶対に戻れないと分かっているのに、未だに未練がましく捨てきれない。
彼女たちの中では、俺はどんな聖人君主になってるんだろう。罪悪感で胸がちくちくと痛む。
「ここを守りたいのは、単に俺のエゴなだけだ」
「だけど」
「姉ちゃん達のせいじゃない。犠牲になってるつもりもない。恩返しのつもりもないんだ」
本当のことは、言えない。
ロイがいた場所だから、なんて理由だと言えば、彼女たちは即座にエドワードの気持ちを察するだろう。そこまで恥ずかしい真似は出来なかった。どちらにしろ、あと数時間で迎えが来る。だと言うのに、思ったより最後の朝食は締めっぽくなってしまって残念だった。
「今度は丸め込まれないわよ」
「…へ?」
数秒静かになったので、落ち着いたのかとほっとしたエドワードに掛けられた声は、見事に無情に冷たかった。
「じゃあ同じ事言ってあげる。これは私達のエゴなんだから! どうしても逃げないって言うなら、袋に詰め込んで車で運んで貰うわ! キリシア! 米袋持ってきて!」
「わかった!」
「え、ちょ、ちょっっと、ま……!」
女性三人が一気にエドワードに襲いかかり、押し倒す。
両手両足を押さえつけられ、身動きが取れない。暴れると、上にのしかかる女性が増えるだけ。
「ねえ、この大きさの袋ならエド入るかな」
「ああ、小さいから入るんじゃないかな」
「な……! どさくさに紛れて小さいとか言っただろ今!」
着物が視界を埋め尽くしていてよく分からないが、なんだか場外で着々と事態が進行している気がする。
胸を圧迫されて、声が出しにくい。三人もの女性にのしかかられると重さは百キロを超える。呼吸困難になって、腕から力が抜けた。
布の袋が擦られるようながさがさとした音がして、エドワードは息を呑んだ。
まずい。このままでは確実に俺はどこかに連れて行かれる。
レイブンが来たときに、いません、なんてことになったら――
考えるだけで、ぞっとして汗が噴き出した。
「ちょ……! 離せよ!」
女性に乱暴するのは気が引けるが、そうも言ってられない。このままでは最悪のケースしか待っていない。そもそも逃げ出すつもりだからそんなに気にしなくていいんだと、もうこうなったら告げるしかないと覚悟して息を吸い込んだのに、騒ぐ俺がうっとうしいのか口まで塞がれた。
「悪く思わないでねエド! 大丈夫、いたくしないから――!」
「えー、やだなんだかやらしいわその言い方」
「なんか縄で縛るって興奮するわね」
縄!?
なんだか楽しまれている気がする。暴れられる余地はもうない。足をばたつかせていたら足首を掴まれた。
正直、部屋でキンブリーに押し倒されたときより絶体絶命な気がする。まさかこんな展開になるとは思わなかった。ばれたとしても、何とか誤魔化そうなんて考えてた。甘すぎた。
天の助けは期待しない、いやできない。
姉ちゃん全部VS俺一人。
……無理、無理だ。つまり自分で何とか、でも、どうやって。
「――えええ、どうしたんですかいったい。大将殺す気ですか姉さん達」
そんなエドワードの耳に入ってきたのは、あまりに聞き慣れた探偵さんの声だった。![]()
(終わり)
