18(連載中)
「にーちゃん、どうしたの? なんでここ出ていくの?」
アルフォンスの無邪気な問いには答えられない。それは俺の方こそ聞きたいくらいだ。
自分達にあてがわれた部屋。この数年間壁の染みの数まで覚えた位なのに、今日でお別れだなんて未だに信じられない。
一週間なんてすぐだった。
楼主は部屋に閉じこもり、エドの話を聞いてくれようともしなかった。店の姉さん達は、誰もエドの味方をしてくれなかった。
本当はそれが一番堪えたのだ。
「エド、私も貴方たちと離れるのは辛いけど……そっちの方が良いと思うの」
「楼主の気持ちは分かるわ。私も一緒よ」
「そう、出て行った方が良い」
愕然とした。
あれだけ仲良くやってきて、嫌われてるとも思っていなかったのに、彼女たちの台詞はエドワードにとってあまりに惨い物だった。
「裏切られるなんて、慣れてたのに、な」
きっと、理由があるんだと思う。迷惑、という楼主の台詞の裏には何かがあるんだろうとも。
それを見つけることさえ出来れば出て行かずに済むかと思ったのに、一週間では見つけられず……、引っ越し屋が一時間後に来ると言われては、もう一旦ここを出る以外に道はありそうになかった。
もっと頑張ればよかったのだろうか。
でもどこか、店の人たちはよそよそしく、エドに出て行けと言うばかりで、一人の味方もいない状況に、簡単に心は力を失い始めた。
大好きなひとたち。
彼女たちがいなければ俺とアルはきっと死んでた。ひょっとしたらアルだけはどうにか生きていたかもしれないけれど、今より幸福だっただろうか。
楼主が用意してくれた新しい住処はおそらくいいところなんだろう。勉強しながら仕事も出来ると言っていた。迷惑になるくらい嫌っているなら、そんないいところになんか斡旋してくれるはずがない。
エドワードがここに置いて、と頼めば頼むほど彼女たちの態度は硬化していった。
給料なんかいらないから、と言ってもそうじゃないんだと諭された。
「エド、貴方はこの店が好き?」
この店でトップの女性は、昨晩仕事の後エドにそう聞いてきた。シーツを片付けながら、もちろん、大好きだと答えた。
「だから、駄目なのエド。楼主の決定は覆らないわ。私たち女郎も誰も貴方の味方にはならない。諦めて、エド。もう無理よ」
困ったように微笑んで、彼女はエドワードの頬にキスをした。優しい優しいキスだった。
……なにも、言えなかった。
嫌だ、と。ここに残りたいと言う声帯の力を、あの静かな口づけが奪いとった。
壁の時計は、約束の時間の五分前。五分後には迎えの車がこの店に来るらしい。
ばっちゃんは、最後まで顔を見せてくれなかった。
立ち上がって、小さな弟の手を握る。
「荷物まとめたか?アル」
「うん。でもどうしてなの、兄ちゃん。どうして出て行かなきゃいけないの?」
「さあ、わからない」
紅葉のようだった手は、大きくなってエドワードの指を痛いくらいに握れるほど力が付いた。ここまで弟が栄養失調にもならずに育ったのは、この店のおかげなのだ。
「いつか、教えて貰おうな」
「うん」
小さい弟は何も知らず、無邪気に頷いている。
長いお別れになる。けど、又会いに来るつもりなのだといえば、楼主は怒るだろうから口にはしないけれど。
「客としては無理かな」
さすがに見知った女性を買うなんて、できない。
「……おっさん、会いに来てくれるかな…」
ぽつりと漏れた言葉にアルが目をぱちくりさせている。はっと我に返って慌てて首を振った。
耳が赤い。なに考えてるんだ俺。
なのに、呟いた言葉は鍵を掛けていたエドワードの頭の中の映像を一瞬にして解放し始める。
公園で困ったように手を繋いだ男や、答えを間違えた俺をぽこん、と紙の筒で軽く殴ってもう一回、と諭す声。
別れたのは何年も前なのに、どうもけっこう優秀らしい記憶能力は、日めくりのカレンダーのように次から次に襲いかかる。
次に会った時は、と言って別れたのが、最後だった。
「バカ、そんなわけないだろ」
会いに来てくれるはずがない。戦争が終わって帰ってきても、この店に来てくれるかどうかだって怪しいのに。
エドワードのコトなんて、きっと忘れてる。あんな約束未だに覚えてるの俺だけだ。何度も何度も再確認してただろう俺。
なのに。
「………っ!」
まずい、と思えば漏れるのが涙だ。
思わず口を押さえてしゃがみ込む。
「兄ちゃん、どうしたの?」
突然蹲った俺に、アルフォンスがびっくりして声を掛ける。なんでもないと口に出すだけで嗚咽が漏れそうで、首を横に振った。
会いたいと思った。
会って何が喋りたいわけでもない、ただ側にいて笑ってくれないかなと思う。
頭の中のカレンダーは声まで再生しはじめて、エドワードは混み上がってくる得体の知れない感情をぬぐい去りたくて、ひたすら首を振る。
この店にいて、こないあいつを待つ日々が、永遠に続くと思っていた。でももう失われそうだ。
なんでだろう、こんなに会いたくなったのは初めてかもしれない。
もう何年も、ここまで苦しくなったことなんかなかったのに。
名前、教えて貰ったけどほとんど呼ばなかった。おっさん、って言ったらいつも笑ってた。今なら失礼なこと言ってたんだなって思うけど、あの時は分からなかった。
会いたい、会いたい、その気持ちばかりが頭の中を埋め尽くして止まらない。会えばこの焦燥も、心臓を渦巻く不快感も、涙も、止まるような気がするのだ。
どれだけ自分の中で、あいつの存在が柱だったかに気がついてエドワードは愕然とした。こんな状態で、これから先、会えもしない人間に依存してどうやって生きていけばいいんだろう。
数回、大きく息を吸うと、吐き出した。頭の中を空っぽにして、真っ白な絵の具をぶちまけて、男の写真を漂白してしまう、地道な作業。
思い出すと、又動けなくなる。
深呼吸の数が五十回を越えた頃、やっと喧しい心臓は通常の早さになってくれた。
「ごめん、アル」
涙を拭って、眉をハの字にして泣きそうな弟の頭を撫でる。
「ごめんな、行こう」
「兄ちゃ……」
納得してない弟の手を強引に取って、立ち上がろうとした。
ちょうどいい機会なのかもしれない。違う場所で生活したら、あの男のこともきっと忘れられる。その為の時間だと思えば、少しだけ前向きにここを去れる気がした。
そんなエドワードの決意を破る音が、廊下から響いてくる。
どたどたどたと複数の足音。
ヤカンを棒で叩くような焦りに満ちた音は、遅刻しそうになって慌てて走るアクア姉ちゃんがよく立てる音に似ている。
「エド、エド! 大変……!!」
襖を勢いよくふっ飛ばして駆け込んできたのは、まさにそのアクア姉ちゃんと、彼女の後輩のシエラ姉ちゃんだった。
「楼主が……!」
彼女たちの泣き声に近い悲鳴に、心臓が嫌な音を立てた。
その瞬間に凶事を告げるかのように叫びを上げた時計の音を、エドワードは当分忘れることが出来なかった。
(終わり)
