黒の祭壇

黒の祭壇

> TEXT > ロイエド > 中編 > 古い恋の焔の跡を知っている > 2

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 そこは奇妙な、部屋だった。
 壁に貼ってある雑多な羊皮紙と、天井や床に書いてある多種多様な錬成陣。木製の朽ちかけた机の上には、いくつかの文献や、小さい石が転がっていて。
 ぐつぐつと釜にかけられているそれは、妙な匂いを放っているらしいが、なぜか匂いまでは分からない。
 さっき、電気を消して眠ったはずじゃなかったか。
 でも、この部屋はどう見ても錬金術師の工房だった。
 思わず鼻の奥にこみ上げる物がある。
 こちらの世界ではこんな部屋はあり得ず、いつも弟と二人で研究していた幸せな過去を一寸思い出した。
 夢だ、と気がついたが、醒めるのが惜しい。
 見たことがない部屋。どこかも分からない。まあ夢の中だから当然か。
 ふと部屋を見渡すと一人の男が背を向けて何かを壁に書いているのが見えた。

 漆黒の髪と鍛えられた肉体。精悍で無駄のないその体躯を、いつもエドワードは羨ましく思ってはいなかったか。
 その、後ろ姿に見覚えがある気がした。
 どんなに背伸びをしても、胸より上に頭が到達することはなかった。最後まで。
 言いたいことも、たくさんあったけれど、堪えて背を向けたのだ。

 ――――――――――二度と。
 会えないんだと。
「…まさか」
 思わず呟く。
 そんなの、俺の勝手な妄想だ。
 かっこわるい、夢に見るまで、会いたかったのか?
 くるり、と男が振り返った。



 エドワードは、数秒、我を忘れた。
正しい呼吸を忘れる。
 現実だと錯覚する。
 無いはずの身体は軋みを上げ、茫洋とした荒野に一人で置いていかれたような、錯覚に脳髄が破裂しそうになった。
 ――――――――――やめてくれ。
 どうせ醒める夢なら、やめてくれ。
 今更、思い出したくない。忘れたい。…忘れさせて。
 首を振る。何に対してか分からない。
 怯えて逃げ出したい衝動。でも、二度と見ることがないと諦めていた顔をその目前にして、背を向けられるほど、強剛な心肝は持っていないのだ。
 心が捲れて、その皮膚を剥がす。残るのは、みっともない本能。それはじくじくと未だに血を流し続けている。
『あ!鋼の!鋼のだな!』
「………」
 見えない、と思いこんでいたのは何故なのか。
 呆然と立ちつくすエドワードを、確かに男は見ていた。
 男が近寄って、エドワードの前に立つ。
 鋼の、と自分を呼ぶ男は一人しかいない。見間違いや他人の空似ではあり得ない。
 男は、ゆっくり手を伸ばすとおそるおそるエドワードの頬に触れようとした。
「…駄目か」
 すり抜けた、その腕を、やっぱり、と大佐は眺める。
 未だに思考を吸い取られて、泣きそうな顔で大佐を見た。
 ――――――――――ああ。
 好き、やっぱり好き。
 ずっと好きだった。
 男は年を取っていない気がする。両手を伸ばして、頬に触れようとしたけれど、やっぱりそれは空気を掻き回すだけで。
 …お互い。そんな言葉を言うことはなかった。
 好きだと、多分気がついていたけれど、全てが終わるまでは口に出すことはなかった、だから終わったら、全部終わったらこの男のところに走っていくつもりで、男も多分エドワードを捕まえるつもりだった。
 背中を向けても、それは分かっていた。
 キス一つしない、手を握ることもしなかった。
 最後に別れる時、手を叩いた。
 それは駄目だろ、と叩く手に載せて、男はそうだね、と瞳で語った。
「――――、っ!」
 限界だった。
 堪えた涙は、その封を完全に砕いた。
「…たいさ」
「うん」
「たいさ、大佐、俺」
 俺…。
 何を言おう。
 好きだ、と言ってなんになる。もう会えないのに。
 ああ、そんなことどうでもいい、だって夢なんだから何を言ったって、我慢していたことを言ったって、男に直接伝わる訳じゃない。
 でも、言ってしまえば、もう元の世界で自殺回路が目を覚ますと分かっていた。
 生きていくことをやめたくなる。
 震えて、唇を噛む。どくりどくりと心臓が、回転数を上げて、エドワードの足下を崩し始めた。
 なんて残酷な夢なんだ。
 触れられないのが、救いなのかもしれない。これで触ることが出来たら、もうどんな理性も突破したと思う。
「やっと、ここまでこれたな。私の研究は間違ってない」
 砂糖菓子みたいな声だった。
 大佐は、まっすぐこちらの目を見て、笑う。ぽろぽろと止まらない涙をぬぐい取るように口づけたけれど、触れるその唇は感じられない。
 でも、目を閉じた。死んでもいいと思った。
「君の位置の特定が出来た。私より先に死んで貰っては困るからね。…これで、時間は、無限だ」
「大佐?」
 視界がぼんやり、大佐の顔がよく見えない。
 瞬けば、睫毛は涙をいくらでも溜め込んだ。
「…迎えに行くから」
 臆病に微笑む男は、月みたいに精良な光で、エドワードを照らす。
 衝撃と圧迫で、押しつぶされそうな肺が悲鳴を上げた。踏み出す足すら、もう崩れ落ちそうだ。
「いうなよ、そんな、夢だからって、そんな…」
 駄々をこねるみたいに首を振る。
 期待させるような台詞を、夢だからって吐かないで欲しい。目が覚めて忘れているならいいけれど、覚えていたら、…どうすればいいのか。
 胸がじんわりと緩んで、脳が、嬉しいと鳴いている。…まずい、と思う。
「鋼の。これは夢じゃないから」
 大佐の言葉はまっすぐ、こちらを見て、視線を外さなかった。
「夢じゃない。必ず行く」
 突如視界が狭まった。
 ――――――――――醒める。
 パチンパチン、と拘束された糸が剥がされる感覚。
 数秒後に暗闇から伸びてきた無数の手がずるり、とエドワードを攫っていく。
 頼む。
 頼むから、忘れていてくれと願う。
 起きて、こんなの覚えていたら、…心が壊れる。

(終わり)