黒の祭壇

黒の祭壇

> TEXT > ロイエド > 中編 > 壺中の天 > 4

4

「悪いが、明日も朝から仕事なのでね。一杯だけだからな。帰りは送っていくから早く帰りなさい」
「……泊まっていくからいい」
「君ね……」
  泊めていたのは昔の話だ。いったいどうしてこんなに頑固で我が儘なのか。言いたいことがあるならはっきり言えばいい。
「とにかく、泊まるのは駄目だ。酒――にしようかと思ったが、珈琲を入れてやる。それを飲んで帰れ」
  指を突きつけて、リビングにちょこんと座る子供に言い聞かせる。
  エドワードは困ったような、切なそうな、ロイにとっては実に卑怯な顔をした。
「大人のくせに、逃げるのやめろよ」
「……何?」
「あんただって、分かってるだろぎくしゃくしてるの。何考えてるのか言いもせずに、いきなり来なくなってさ。あんたはそれで満足かもしれねえけど、なにもわかんないまま放置されるこっちの気持ちは考えたことあんのかよ!」
「……エドワード」
  見れば、酒瓶をまるでぬいぐるみのように抱えた子供は、悔し涙を浮かべていた。
「綺麗、とか言い訳されたって、信じられねえ。綺麗だからって誰でもホイホイキスすんのか?」
「――帰りなさい」
  彼の必死な台詞は、逆にロイの理性をどんどんと燃やしていく燃料だった。心臓は、まずい、と警戒音を鳴らし、頭は帰らせろ、と囁く。
  彼の言っていることはいちいち尤もで、ロイに反論の余地はない。
  だが、そういう問題じゃない。
  ただでさえあんな暴挙をした後に、わざわざ出向いてくれたことでかなり理性が綻び始めているのだ、なのに、そんな、君、その態度は自覚がないかもしれないけれど、キスされたことに対して怒ってるわけじゃなくて、その後放置されたことに怒ってるわけで…… ――――――――――まずい。期待、してしまう。
「帰らねえ、泊まるっていったろ」
「――帰れ、帰りなさい。話なら今度いくらでも聞いてやる。知りたいことは教えるから、だから今日は」
「帰らねえって言ってる。今度? ホントに今度聞いてくれるとは思えねえ。一回こうして俺を部屋に入れちまったからには、もう二度と入れないようにあんた、絶対その頭フル回転させて考える。二度目はないって分かってんだよ」
  何が吹っ切れたのか、エドワードはロイを睨み付けてしっかりと己の主張を述べるばかりで、ロイは次の手が打てない。
  賢いこの子は、ロイが二度と会うつもりもないことにうすうす感づいている。
  とうとう、珈琲を入れることを諦めて、ロイは顔に手を当てて、壁に凭れた。
「君は、分かって言ってるのか?」
「馬鹿。わかんねえからここに来てるんだろ」
「そうか、君のその態度は天然なのか――」
  なんて、凶悪な。
  ここまで天然に、大人を手玉に取れるのだ。末はいい悪魔になるだろう。
  頭の中の、余裕や我慢が少しずつ削られていく。無性に癪に障る。君が今までなにもされなかったのは、単に私が我慢強かっただけなのだ。
  これが他の人間だったら、君なんて、とっくの昔に裸に剥かれてたっておかしくないのに。
「では、選びなさい。泊まって帰るなら、明日から君と私は恋人同士だ。このまま帰るなら、今日が最後のお別れだ」
「え?」
  エドワードの顔が、小さく歪んだ。悪辣な選択を迫る物言いは、彼の心を小さく傷つけたんだろう。
  自分だって、こんなこと言いたくはない。けれど、こうでもしないと、たくさん傷をつけないと又彼はやってくる。
  優しい子なのは、痛いくらいに知っている。エドワードにとって、あの程度のことではロイを捨てられないのだ。優しい記憶が嫌な記憶を上回っている限り、彼はまた来るだろう、だから。
「……なあ、なんで何も言わねえんだよ」
  ロイの行き詰まって狂気に落ちそうな思考を止めたのは、エドワードの頼りなさげな声だった。
「……なにを言ってるんだ。私はさっきから」
「そうして、言葉を弄したりわざわざ酷い台詞言っても意味ねえだろ。どうして? 一言教えてくれれば俺はあんたを追い詰めたりしないし、帰れっていうなら帰る」
「エドワード?」
「どうして俺にあんなことしたんだよ」
「…………それは」
  思わず、仮面が外れた。咄嗟に言い訳が出来なくて、言葉半分で詰まってしまう。
  エドワードは、無言でロイを見上げている。
  透き通る水晶の瞳は、嘘を許さない水晶玉のようだ。
「そんなに言えねえことなのか?」
「……分かってるだろう。君が好きなんだよ、ずっと前から!」
  半ばやけくそのように怒鳴ると、座ったままこちらを見ているエドワードに近寄って押し倒した。
「……っ!」
  彼は悲鳴を上げる間もなかっただろう。床に軽く打ち付けられて、衝撃を堪えるので精一杯のようだった。
  両手首を持って、捻り上げるようにすると彼の形のよい眉が少し歪み、顔に僅かな怒りと焦りが産まれる。
「すまないが、もう友達に戻ることは不可能だ。君がよくても、私はもう無理だ」
「ロイ?」
  見開かれる瞳を舐め取りたい衝動を抑えて唇を噛む。今なら首筋に舌を這わせることも、このまま服を脱がせることも出来たかもしれない。いや、もう身体はそうしたくて疼いている。飛んで火に入る夏の虫とは今の彼のことを言うのだろう。
  何度も狼は帰そうとしたのに、赤ずきんは帰らなかった。
「泊まっていくなら、この先もするよ」
「……」
  エドワードは綺麗な金髪を床に散らして、茫然とこちらを見ている。
  そこで、思いっきり嫌悪の表情で見つめてくれさえすれば、いっそ楽になれるのに。
  最後のやせ我慢を消費して、押さえつけていた手を離した。
  ほんの僅かな時間抑えていただけの彼の手首はほんのり赤くて、胸が痛い。
「……帰りなさい」
  彼の上から身体をどけて、冷たく言った。
  未だ茫然としたままエドワードはのろのろと半身を起こす。
  終わりはあっけないものだなと、床を鑑賞しながら思った。
  十年以上の付き合いも、一回のキスで駄目になる。数秒の気の迷いで、十年が消える。株をやっていた友人が、十年掛けて溜めた一千万を数分で無くしたと泣いていたが、あれもこういう気分になるんだろうか。
  隣の気配は少しの間は動かずにいたが、暫くすると立ち上がる気配がした。
  分かっていたことなのに、心臓が一度大きく跳ねて、身体が硬直する。玄関の方に遠くなっていく気配が恐ろしくて顔を上げることが出来なかった。
  ――分かってたのに。
  ひょっとしたら、エドワードが泊まる、って言ってくれるんじゃないかと馬鹿な期待をした。
  側にあったぬくもりはもう消えて、もう少ししたら玄関の扉が閉じる音がするんだろう。
  あっけなく長い片思いは終わり、ロイは又一人に戻る。
(……猫でも飼おうか)
  それともまた、寂しくてたまらないからと女を漁るようになるのだろうか。彼への気持ちに気がついた時にしたように。
  置いていってくれた酒はやけ酒に丁度いい。
  そこまで見越して持ってきたならエドワードも策士だなと思いながら、目の前の一升瓶を手に取る。
  来年からはこの酒蔵の酒を飲むこともないだろう。味わいつつ飲んで、この恋を終わりに――は、まだ出来そうにないから終われるように努力をすることにして、それで――
「泊まるってメールした。ロイ、俺も飲む」
「…………………へ?」
  鼓膜に飛び込んできた声がなんかとんでもないことを言っている。
  慌てて振り返るとそこには玄関先に転がったままだった上着の側で、携帯の蓋を閉じているエドワードの姿があって、そしてその子供は平然とロイの側に寄るとすとん、と座ってグラスを片手に身を乗り出した。
「酒のつまみ買ってくれば良かったかな」
「……え、と…」
「冷蔵庫になんかねえの?」
「いや、あの……」
「ロイ?」
  狼狽える自分の頬は今頃真っ赤な気がする。エドワードはどもりまくりのロイをきょとんとした顔で見ていたが、暫くして感心したように呟いた。
「……あんたでも照れるんだ……」
「照れ?!」
「いや、顔真っ赤だし、なんだよ、さっきまでさんざんおっかないこと言って人を脅かしたくせに」
  へっ、と肩を竦めて言われてむっとする。
「君こそ! 分かってるのか? 泊まるんだったら続きをすると言ったろう!」
「俺さー、この前の全国模試でやっと一位取ったんだ」
「は?」
  いきなり関係ない話を始めたエドワードに、思わず顎が落ちた。
  ぎゃふんと言わせるつもりの反撃だったのに、エドワードはあっさりとスルーする。
「ずっとあんたに報告したかったのに、全然こねえし。電話してもメールしても返信ないし。一位取ったって直接言って驚かせてやろうと思ったのに会えねえからつまんねえし」
「いや、あのな、エドワード、人の話を……」
  まあ待て、とロイは手を伸ばす。
  何でこっちがいきなりこうして宥めているのだ? おかしくないか? 私は今君を押し倒してああだこうだする、ということを宣言したのだぞ? 普通なら照れるなり怒るなり殴るなり、何かのリアクションがあってしかるべきでは。
「だから俺頭いいんだよ。一回聞けば覚えてる。何度も言わなくてもいい」
「…………」
  泊まっていく事の意味くらい理解している、と。暗に彼はロイに告げている。
  そこでぷい、と横を向いて頬を染めるのは、なんというかいろいろとイエローカードな気がするんだが。
  いや、違うか、レッドカードだ。
  誘われるように手を伸ばして、白い頬に触れたら、ぴくん、とエドワードの肩が竦む。
「……」
  緊張、してるのかこの子も。
  平静を装ってもやっぱりまだ高校生で、この手の経験は皆無なのだ。戸惑わない方がおかしい。
「エドワード」
「え? ……、あっ……」
  軽く胸を押したら強張った身体からふっと力が抜け、そのままぱったりと倒れ込む。俎上の魚にしかもう見えないエドワードを跨ぐようにしてのし掛かると、彼は強張った笑いを浮かべながら両腕を胸の前に置いて縮こまった。
「さ、酒飲まねえの? せっかく持ってきたのに」
「ああ、明日の朝飲もう」
「……っ! あ……、ちょ……」
  本当は服を破り捨てたいくらい獣じみた情欲が沸き上がっていたが必死で堪えて汗ばんだ首筋に唇を落とす。こくん、と唾を嚥下する白い喉が、ひどく嫌らしく艶容だった。
「さ、酒飲んでからでもいいんじゃ……」
「いや、下手に飲んで実際役に立たなくなったら困るからな」
「え? なにそれ」
  知らないならそれに越したことはない。ぽやん、と年相応の顔でロイを見ているエドワードに曖昧に笑って誤魔化す。
  好きだよ、と囁けば、最初からそう言え、と拗ねた答えが返ってきた。だったら一ヶ月こんなに悩まなかったのにと怒鳴る唇をキスで黙らせて、小さい身体を溶かしていく。
  告白には何度も肯定が返ってきて、痛いと言いながら手はロイの背中に廻った。
  そういえば、防音が心許ないはずなのだが、そんなことはもうどうでもよかった。
  
  翌日、ロイは生まれて初めて病欠、というものを会社に報告する。
  酷く浮かれた声での報告だったようで、よっぽど熱が高くてハイになっているんだろうという部下の好意的な誤解のおかげで、ずる休みはばれることがなかった。
  
  
  
「あ、出来た! ホラ見ろ、今年もやっぱりこの時期になったら綺麗に月が見えるだろ」
「ほんとだな」
  一年後の似たような日付。
  後一ヶ月で酒が出来上がるそんな時期に、酒蔵の踊り場で夜中にまたもや二人はちびりちびりと酒を摘みつつ杯に月を乗せる作業に没頭していた。
「しかし、別にこの時期ではなくとも、月があの窓にかかれば杯に月は映るのではないか?」
  窓を指さして問えば、隣に寄り添う子供はうーん、と言ってグラスの酒を飲み干した。
  ほんのり酒の匂いを纏わせたエドワードは、ほろ酔いになると頬が薄紅に染まり、瞳が微かに潤んでくる。その上去年までと違って、ご機嫌そうにロイに寄りかかっては月の杯をくすくすと笑って見ている。
  横目でそんな恋人を見ていると、やっぱりこれじゃあ去年我慢出来ていたとしてもいつか我慢できなくなっただろうなと溜め息をついた。
「去年みたいなことはすんなよ」
  その溜め息に何を感じたのか、エドワードは、むぅ、と膨れて顔をしかめて見上げてくる。
「しないよ。あれは片思いの相手にすることだ」
  そう思うなら、全開で色香を晒しまくるのはやめてくれればいいのになと思いつつ答えれば、眩暈でも起こしたのか、ぽてん、とロイの肩に重みが加わった。
  珍しい、あまり酔わないのに。
「じゃあ、両思いの相手には何をするんだ?」
  ずり落ちないようにとの配慮なんだろうけれども、ロイの服の裾を掴んで上目遣いに眼を細めて睨まれると、甘えているようにしか見えない。
「君ね、だからそういう言動はやめなさいと常々」
「なあ、両思いの相手だったら何するんだ?」
「……」
  全然人の話聞いてないし。
  おかげでちょっと悪戯心が沸いた。
「……そうだね、多分」
  少し身をずらすと、酔いが充分に廻っていたエドワードの身体は支えを失ってあっさり床に転がった。そのまま彼の両脇に腕を置いて上から抑え込んでしまう。
「月明かりの下で乱れる恋人でも鑑賞するかな」
「………………っ!」
  エドワードはしばらくはぼんやりとしていたが、ロイの一言で酔いが醒めたらしい。
「月下で、酒に酔っているだけの君がこんなに綺麗なんだから、私に酔ってくれるともっともっと綺麗だろうね。見せて貰ってもいいかな?」
「ちょ……! な、な、なんでそんな小っ恥ずかしい台詞がさらさらと出るんだよあんた!」
  ぎゃーぎゃーと怒鳴ってはいるが、耳まで真っ赤だからただの照れ隠しと確定する。
  脳は続行、と指示を出してきたので、覆い被さったら、腕の中の身体が小さく悲鳴を上げた。
  余計なこと言わなきゃよかった、と抱き込んだ身体から小さい声が漏れていたけれど、君はそろそろ自分がいかに迂闊なのかをもう少し勉強した方がいいと思うよ。
  だけどロイは教えるつもりはさらさらないので、きっと永遠にエドワードは気づかないだろう。
  そのほうがつけ込みやすくてありがたい、なんて、片思いの時には思ってもいなかった感想を述べながら、この酒蔵で一番高価な美酒を味わえる僥倖に感謝した。
  

(終わり)