黒の祭壇

黒の祭壇

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62(連載中)

「久しぶりだな」
「……」

 嬉しいとか驚いたとか、嫌だとか。

 いろんな感情が交じり合って、声を失う。どうやって言葉を載せていたか、思い出せない。ただ、愕然とおっさんを凝視している俺を見て、ロイは、むっ、と眉を寄せた。
「……ふすまを閉めて、座りたまえ。いつまで立っている気だ」
「……」

 目の前の光景は、幻じゃないかと。
 あの男が、この宿で、座って、こちらを振り向いて、見上げている。
 黒い髪。漆黒の琥珀の瞳が、仄かな明かりで揺らめく。青い軍服も、短く切りそろえられた髪も、黒いコートも昔のままだ。
 少し痩せた気がする。年も取ったはずなのに、分からない。部屋が暗いからだろうか。忘れかけていた男の顔を思い出し、脳は、閉じた扉を一気に開けた。
 傷一つ追ってないのに、致命傷だ。身動きが取れない。

「何してる。このままだと寒い」
「……あ」

 やっと少しだけ頭が動いた。
 後ろ手にふすまを閉めて、ロイの隣を横切る。こんな状態でも、いや、こんな状態だからこそ、いつも自分が座る座布団に座らなければいけない、と言う妙な使命感が沸いていた。
 ちょこん、と座布団に座る。男はそんな俺の動きをまるで監視するようにずっと見ていた。
 ……本来なら、火鉢でお湯を沸かさないといけない。最初にやることは、客にお茶を出すことだ。

 ――なのに、手が動かない。自分のすぐ側に、奴がいる。

 ずっとずっと飢えていたのに、顔を見ることがどうしても出来なくて、エドワードは床を見つめたまま、膝の上で手を握りしめた。
 心臓だけは、相変わらずやかましい。顔は熱くて、頭がぼーっとする。

 ロイがいる。
 ロイがいる。忘れてなかった。覚えてたんだ。絶対覚えてないと思ったのに、なのにこうして、この店まで来てくれた。
 なんで、どうして。
 嬉しいのに、一番見られたくない。別れたときの俺のまま会えるとばかり思っていた。

 そうだ、よく考えたら、当たり前だった。
 俺の事を覚えていて、この店まで来るという時点で、俺の仕事のことを知らないわけがないのだ。
 俺が、店に出て、女郎の仕事をしているということを。
「――」
 それはもう、喉元に刃を突きつけられたような恐怖だった。
 身体がまるで、凍りにつけられたように冷たくなって、一気に凍える。
 本当は、抱きついてしまいたいくらい嬉しいのに。でも今の俺が、どんな顔をしてあいつに会えるというのか。
「エドワード。こっちを向きなさい」
「……」
 呼ばれて、びくりと肩が震えた。
 恐怖はますます強くなる。本能的に、怒られるのではないかと怯えた。
「エドワード」
 今度は少し不機嫌そうに。

 ――ああ。

 その声で、涙腺が壊れた。
 そうだ、この声だ。
 ずっとずっと昔に、大好きだった声だ。
 勉強して、間違ってたり、俺が悪戯して、物落としたりすると、こんな声で、この男は俺をしかってた。叱られたのに、嬉しくて、笑ってしまって、ますますロイに怒られる。
 そんな繰り返しだった。
 大好きだった。怖かった。何年も何年も新聞だけが俺の枷で、いつもいつも怖くて、不安で、最後に別れた公園で俺の頭を撫でた奴の笑顔が忘れられなくて――

 頭が壊れた。

 封印していた記憶が、まるで決壊した川のように頭に流れ込んできて、処理が追いつかなくなる。
「君、約束までも忘れたか?」
 はあ、と軽い溜息に、頭の線がぷつん、と切れた。
 忘れてない。覚えてる。
 あんたの声とか、あんたの顔とか、記憶の中で、毎日毎日再生して、忘れた日なんて、ただの一度もなかった。
「う、あ、ろ、ロイだあああああああああ」
「え、えええええ!?」
 怖いとか、嫌われるとか、頭から完全に消えた。
 全力で飛びかかり、男の首根っこに抱きつく。奴の驚いた顔が視界に見えたが、そのせいでもう頭の中は、グチャグチャに丸めた紙みたいに狂ってしまった。
 俺に突然飛びかかられ、男はバランスを崩して倒れ込む。
 布団に横になったロイの首にまだ抱きついたまま、エドワードはぼろぼろと泣いた。
「生きてた……、生きてた……!」
「……生きてるよ……驚いたな、覚えてたか」
 俺に抱きつかれたまま、男は呆れたように息を吐く。
「わ、忘れるわけないだろ……! 毎日毎日新聞見て……っ!」
 反射的に顔を上げ、非難がましく告げれば、ロイは苦笑しながら人の頭を撫でてくる。
 そこで始めて、数センチ先にある奴の顔をまじまじと見た。
 ……あ、ちょっとだけ目元に皺が増えたかも。
 顔つきもよく言えば精悍、悪く言えば疲れている感じ。
 黒い瑪瑙の瞳、闇に溶けるような漆黒の髪。年齢の割に相変わらず童顔で、優しそうに見えるおおよそ軍人らしくない男。
「……ロイだぁ……」
 そこで、始めて実感がわいたのかもしれない。
 もう自分でもびっくりするくらい涙が出て、さっき見えた顔が又見えなくなるくらい視界が歪む。嗚咽で呼吸困難になって、咳き込む。無意識に男の胸に顔を押しつけたけど、奴は引きはがしたりせず、天井を見て俺の頭を撫でていた。
 触れたら心臓の音がする。暖かい。俺が魘された夢なんかじゃない。これは、本物のロイだった。
 何年も心の隅にこびりついていた言葉にならない鈍痛が、一斉に蒸発する。体重が減ったわけではないのに、心が軽くて、呼吸が全部自分の中で消化されていく。
「まいったな……いろいろ予想外だった」
「な、なに、が……」
 鼻を噛みたくなったが、さすがに人の軍服にそんなことも出来ない。でも、ロイの上に乗っかって、あいつの心臓の音を聞いていると、幸福でこのまま溶けてしまいそうだった。
 俺の足ってこんなに軽かっただろうか。ああ、もういっそくっついて離れられなければいいのに。
「戦場から帰ってきたら、君が店に出ているというから。しかもレイブンに身請けされるというじゃないか。――怒りで、気が狂うかと思ったよ」
「――――」

 嗚咽が一気に引っ込んだ。

 感動の再会でぐちゃぐちゃになっていた頭が、急に配置を元に戻し始める。
 ――そうだ、俺は多分、ロイが一番望んでいないことを、している。
 部屋に入る前は怯えていた癖に、出会えた衝撃で綺麗に忘れていた。
 今の俺は、別れたときの俺とは全く違う生き物になってしまった。
 一気に恐怖が身体を鷲づかみにして、手が凍り付く。無意識に指が震えた。

「エドワード。君は、こうして、他の男にも身体を与えていたのか?」

(終わり)