黒の祭壇

黒の祭壇

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 二ヶ月ぶりの東方司令部の執務室には異様な緊張が漂っていた。
 扉を開けたまま、この異様な空気に一瞬エドワードは固まる。
「あら、いらっしゃい」
 ホークアイの優しい声と微笑みに気を取り直すが、隣のハボック少尉は未だ 硬い表情のままだ。
 目の前の黒髪大佐はぺたんぺたんと印鑑を押しながら、「久しぶりだな、鋼の」 といい、ここだけ見たらいつも通り。
 だがこの大佐にだけ感知されていない緊張感には覚えがある。

「……中尉、ひょっとしてさ」
 苦笑いをしながらそう振れば、ホークアイはその聡明な瞳をそ、と伏せて溜息をついた。
「ええ、じつは…」
「ところで、鋼の。今日は何日だ?」
 そうなのよ、と言いかけたホークアイの背中からロイの声がかかる。
 暢気な大佐の声を聞いてしまえばもう、ホークアイが続きを言わなくても、エドワードには分かった。
 
 
 
 エドワードがこの状態の大佐に遭遇するのは今回で三度目だ。
 いい加減勝手も分かろうという物である。
 男はどことなくぼーっとした感じでぺたぺたと印鑑を押し続けている。
 ちらりとそちらに視線だけを向けると、ホークアイ中尉に向き直った。
「何時から?」
「二時間ほど前からかしらね。あと一時間もしないうちに元に戻ると思うけど」
「この前は何ヶ月前だっけ?」
「たしか三ヶ月前かしら」
 美女の溜息は絵になるが、本人の心痛はいかばかりか。
「前より早くなってる気がしねえ?」
「そうなのよ、それで…」

「中尉、今日は何日だ?」

 無粋な声が邪魔をした。
 少しいらっとしながら日付を答える。
 ほんの三十秒ほど前に聞いたくせに、もう忘れている男。
 目の前の多量の印鑑押し作業はそれくらいしかさせられないからだ。これはこれでまあ、真面目に仕事をするから悪い面ばかりではないのだが。
 そうか、と言いながら男は又仕事を再開したが似たような質問を又数分も経たずに聞いてくるだろう。
 視線をあげたロイと目があう。
 その瞳はいつも通りで、何も変わらないように見えるのに。
 
 男は嬉しそうに笑う。エドワードはあんまり見たことのないロイの淡い笑みに一瞬頭が真っ白になった。
「鋼の、なんで私はここにいるんだ?」
「…………」
 だが、発生される言葉は、全然いつもどおりじゃない。

 そう、男は記憶を失っているのだ。
 
 
 
 
 始まったのはほんの一年前のこと。
 普通通りの朝に普通通りに出社した男は、突然全ての物事を覚えられなくなる。
 さっき書いた文章が自分の物と思えない。さっきやったことの記憶がない。さっき聞いたことを何度も聞く。そして聞いたことすら覚えていない。
 日常的行動は出来るが、記憶を蓄積できなくなるのだ。
 書類を渡せば読んで指示は出す。だが指示をしたことをすぐに忘れるので、結局は使い物にならない。
 よって、こうなると何も考えずにできる印鑑押しの仕事がロイに与えられるのだ。
 ぺったんぺったんと印を黙々押し続ける光景と、妙に緊張感に満ちた空気の執務室。
 これにぶつかったとき、エドワードはいつものあれが起こったのだと認識せざるを得ない。

 静かな執務室には男が印を押す音だけが響く。
 エドワードはソファーに転がるとロイの本棚から適当に奪った一冊の錬金術書を黙って読んで時間を潰す。
『お願いね、エドワードくん』
 中尉はどうしても仕事がある、とかで申し訳なさそうにエドワードの方を何度も見ながら部屋から出て行った。
 特にロイとの間で喋る話もないので、エドワードは黙って本を読むばかり。
 ちらりと壁の時計を見ると、エドワードがここに来てから30分が立っていた。
「あと30分か…」
「何がだ?鋼の」
「なんでもねえ」
「ところで今は何日だったかな」
「――――――――――四月三十日」
 いらいらとしないのがコツだ。
 何度も何度も同じ事を男は話しかけてくる。
 それに同じ答えを何度も返すのがエドワードの仕事。
 いつもなら中尉の役目だが仕事に行ってしまった。こんな状態のロイを一人にしておけないので、いつもは誰かが大佐の話し相手になる。
 といっても、こんな感じの同じ質問に何度も何度も根気よく答えるだけだが。

 しかしそれも後30分だ。
 この男の記憶喪失はいつも三時間で回復する。

 三十分後には、この三時間の記憶を綺麗さっぱり忘れた男がいつのまにこんなにサインをしたんだろうと首を傾げる光景が見れるはずだ。

 そう、男は必ずこの三時間の事を忘れるのだ。

「…………」
 それが何を意味するか、実は二十分ほど前からずっと考えている。
 そんな馬鹿なことをしてどうするんだ?という気持ちと、だったらいいチャンスかなと思う気持ちと。
 どうしようどうしよう、と思いながら本を捲っているので実は内容はさっぱり頭に入っていない。

 数ヶ月に一度のロイの変調。
 そしてその時にたまたまエドワードが遭遇するのはほんとうに希だ。
 今回を逃すと数ヶ月後か一年後か。
 いや、それどころか男のこの病気が治れば、二度とチャンスはない。
 
 らしくもなく、心臓がばくばくと奔る。
 頭の中で想像しただけで、顔は熱くなって、体温が変に上昇する。
 だが、なぜか奇妙な切迫感がエドワードの口を動かした。
 動き始めた電車を追いかけて走るような焦り。
 今なら、すぐに忘れてくれるのだ。後になっても覚えていない。

 ――――――――――なら、この関係が崩れることはない。

「大佐、あのさ…」
 本をわざと乱暴に閉じて立ち上がった。
 男はサインをする手を止めて、顔を上げる。
 その不思議そうな顔が驚愕に変わっても、どうせ数十秒後には忘れるのなら。

 たまった思いを伝えても、別にかまわないよな?

(終わり)