黒の祭壇

黒の祭壇

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2

 頭から水でも被りたい気持ちを抑えながら、とりあえず屋上まで出てきてみた。
 柵まで近寄ると、その鋼鉄の棒を両手で握って頭上を見上げた。
 闇夜に脳髄まで浸って、満天の星を眺めていると少しだけ落ち着いてくる。

 あんな、子供の軽いキスなんかにこんなに動揺して。
 真っ赤になって欲情して。
 向こうにとってはただの罰ゲームでしかないというのに。

 空回りしている自分が突如虚しくなった。
 ずっと好きだった人とキスをするなんて、本当なら浮かれてしかるべきところ。
 なのにこんなにぽっかり穴が開いたような気持ちになるとは思わなかった。

 ………片思いだというのは分かっていた。
 こちらが思うように向こうが自分のことを好きなはずはなくて、それでいいと思っていたのに、何を。
 何を、キスの温度差を感じただけで今更落ちこんでいるんだろう。

 たまたま相手が私だっただけで、他の人間相手でもきっと平気で彼はするのだ。ブレダあたりがそのクジをひいてしまったら私は今よりもっと荒廃した気持ちでこうして屋上に立つのだろう。だからまだましなのだ。
 緊張して、肩に触れることすら恐ろしくなるほどの、あの生温い情炎が焔のように全身に広がる数秒の時を、私と違ってあの子は全く感じないのだ。
「…当たり前だ」
 風が空気を凪ぐ。
 振り切ろうと目を閉じた。

 そんなことは、分かっていたはずだろう。
 こちらばかりが、本気で、だったら告白でもしてみればいいのにその勇気もなくて。

 …もし、自分がエドワードにキスをしろ、と言う命令だったら従っただろうか。

「しただろうな、それこそ、嫌そうな素振りを見せながら」
 内心、頬の赤さにどぎまぎしながら、瞳の黄金に目を奪われながら、何事もなかったかのようにするんだろう、きっと。
「…はは」
 想像したら、笑えてきた。
 よくもまあ、ここまで絶望的な恋愛に手を出してしまった物だ。
 自虐要素が己にあったとは知らなかった。

 一面、空気を吹き飛ばす風のおかげで、火照った身体も落ち着きを取り戻し始める。
 熱帯夜でなくて、よかった。
 そうなればこの焦燥を消するために、夜の町で適当な女に手を出していたかもしれない。
 冷静さを失っていたのだろうな、と気がついたのはその時。
「…たいさ」
 ありえるはずのない声をその背後で聞いた瞬間だった。




 多分、今もっとも会いたくない人間をあげろと言われれば、彼だろう。
 なのに、その子はよりにもよって己の目の前で、ぽつん、と取り残されたように佇んでいた。
 ここは屋上。
 ドアを開けて、柵の側まで来るには何十歩。
 普段ならば、気がつかない自分ではない。

 この子が足音を殺して来たとは考えられず、単に己の思考がただ一点に集約されていたがためのミス。
「…なんで」
 それは、自分自身に対する疑問で、彼に向けた物ではなかったのだが。
 少年は自分への問いだと誤解したらしい。
「みんな、寝ちまって。大佐帰ってこないし、何処にいるのかなと思って探してたら屋上の扉が開いてたから」
 なんだか、申し訳なさそうにぼそぼそと喋る彼の顔があまりよく見えない。
 闇夜の性で、そのことに助かっている。
 こんな情けない顔、今一番見せたくなかった。
 
 ――――――――――鋼の、君は。

 …君には、あんなことなどきっと、たいしたことじゃないんだろう。
 私ばかり、私ばっかり一人で壁を相手に戦っているのだ。子供でも平然と流すこんなことで、大人なのに一人で少女みたいに狼狽えている。
 大人だから、子供には意味のない行為に、意味と理由を見つけてしまうのだ。

「あの、さ」
 言いにくそうに、顔を伏せて、ええと、と呟く彼の声は細い。
 何かを言いたくて、言えずに躊躇う彼は実にらしくない。
 その白くてまろい頬に熱が篭もっているのが、闇の中でも見て取れるのが妙に苛立つ。
「さっきの、あれだけど」
「……別に、キスしろと言われたからって、唇にすることはなかったのにな、鋼の」
 精一杯の虚勢で、馬鹿にするような笑みを根性で浮かべて言って見れば、彼は、え?と顔を上げた。
「それこそ、頬でも掌でも額でも良かったのに」
「――――――――――あ」
 そこまで考えてなかったのだろう、彼は瞬時に真っ赤になった。
 恥ずかしそうに、鋼の腕で口元を擦る。
「うわ、…全然考えつかなかった。もう、俺、口にするんだ、ってそればっか」
「…その年で、えらい成熟したことだね、君。普通、なんとかしてそれだけは回避しようとするだろう」
 やれやれ、と溜息を吐いてやる。
 私の演技は通用しているだろうか。彼の前で不審な素振りはしていないだろうか。
 言葉をやりとりしながら、意識の一部を凍結させて、己自身にチェックをかけている。
 鋼のはますます収縮して、ただでさえ小さい身体をもっと縮こまらせた。
「だって」
 そこまで言って、石を飲み込んだように詰まる。
 先ほどとはうってかわって弱々しい態度を先ほどから見せられて、少し戸惑った。
「だって、………大佐」
 言いかけ、止まる。
 先ほどから、何かを言いたがっているみたいなのに、どうやら彼の中の何かが邪魔をしているらしい。
 少しだけ、荒い気持ちが落ちて、どうした?と問う。
「俺……あんなキス、嫌だ」

(終わり)