黒の祭壇

黒の祭壇

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44(連載中)

 帰ってくる。
 帰ってくる。
 あの男がとうとう帰ってくる。


 翌朝の新聞が待ちきれず、目が覚めたのは深夜の二時だった。
 後二時間もすれば新聞が届く。

 ハボックさんは明日の朝公式発表だと言っていた。
 どうりで今日の夜は客が多かったわけだ。
 目が覚め、もう一度布団に潜ったがやっぱり眠れない。
 帰ってきたからといって、ここに来るとはかけらも思っていない。
 万が一にもこの店の事情を知れば、たった一人、この店で売られている男が俺だというのはすぐにわかるだろうし、そうなれば軽蔑して顔を見せることもないだろう。
 店に出始めてからの一年で、良くも悪くもあの男は支えでもあり、同時に触れないものになった。
 それについて、痛める心も失ってしまったみたいで、今エドワードの心を占めるのは、生きて帰ってきてくれたというその喜びだけだった。
 ひどくなる戦場の様子を客から聞くたび、戦死の報告を聞くのが怖くてたまらなかった。
 客の中には被災軍人も多く、手や足がなかったりする人たちもいた。
 だが、それでもこうして店に来れるだけましなのだ、世の中にはそれすらできなくなった人もたくさんいる。
 あまりに寝付けなくてエドワードは結局あきらめ、布団から出ると、意味もなく廊下に出た。

 すでに店は閉まっていて、みんなも眠りについている。
 暗く静まりかえった廊下を素足でこっそりと歩くと、玄関の土間までやってきた。
 いつもなら扉が開き客や業者を迎える広い玄関は、今はひっそりと朝の訪れを待っている。
 深夜の冷たい空気はエドワードの火照った体を溶かしていくようで、少し冷静さを取り戻させてくれた。

 室内用の靴を履き、そっと玄関を開けると外に出る。
 吐く息は白くて見上げるときれいな満月が地上を照らしていた。
「……月はどこでも一緒、か」
 あいつが昔言っていた。
 どんなに遠く離れていても見上げる月は誰でも一緒なのだ、と。
 だけど、戦場で見上げる月はきっと、恐ろしくて寂しい。
 ――あの男が、戻ってくるなら、今度は誰か優しい人が彼の隣で疲れを癒してあげてくれないだろうかと思う。
「……あー…」
 月を見ているだけで泣けてくるとはなんとロマンチックな脳みそか。
 らしくもない自分を笑いつつ目尻からこぼれる涙を服の裾で拭った。
「理由のない涙も困るよな」
 鼻を啜って涙を拭く。
 感謝の気持ちだけでも伝えたいものだが、なにかいい方法はないだろうか。

 玄関の扉に寄りかかり、座り込んで月を見る。
 時間が時間だけに人通りは皆無だ。
 たまに酔っ払ったおじさんなどが通りかかるが、電気のついていない店の軒先に座り込んでいる奴には全く気づかず通り過ぎていく。
 俺はひょっとしてこのまま新聞を朝まで待つつもりなのか?
 自問自答するが、答えは出ない。
 ただ動くのが面倒くさくて、深夜の空気観察なんかをのんびりしながら月と雲を眺めていると、目の前に一人の人間が立ちふさがった。
「……?」
 新聞には早い。目の前に立つということは、俺を認識している証拠。
 不思議に思い見下ろす顔を眺めるが、逆光でよくわからない。
「驚いたな。何でこんな時間にここにいるんだ。ナンバーワンが」
「……ナンバーワンは俺じゃねえよ」

 声で誰かはわかった。だがこんな時間になぜここに来るのかわからない。
「どうしたんだよ、今日はもう店閉まってるぞ?」
 中で寝てる客はいるが、受付時間は終了している。
 仕方なく立ち上がるが、男の方が身長が高いので、やっぱり見上げる視線は変わらない。
「店は閉まってるんだが、ちょっと相談に乗ってほしくてね。今から一時間君を買えるか?」
「……時間外料金は五割増しですけど」
「いいよ。払う」
 即答する男は微笑んですらいる。
 エドワードは眉を顰め、首をかしげた。
「どうしたんだよアイザックさん」

 アイザックは、エドワードの客の一人だ。貿易商を営んでおり、アイザック社を知らない人はこの国にはいない。
 裸一貫で大企業にのしあげた才能の持ち主にしては珍しく、顔色が悪かった。
 男は答えないが、瞳の色は真剣で、切羽詰まった様子を感じさせる。
 渋々と扉を開け中に促すと、アイザックはすぐに入ってきた。
「もうみんな寝てるから離れの部屋な。こっち」
 口元に手をあて、静かにするように促すとアイザックは素直に首を縦に振る。
 新聞を名残惜しく思いながらも、明かりを手に取り火をつけると、エドワードは男の手を引き、こそこそと離れに向かった。
 

(終わり)