2(連載中)
気合いだけは一人前だったので、本当は勢いよく「たのもー!」といいながら扉を開けようと思ったのだ。
例え一週間ろくに食べていなくても一世一代の大勝負なので気合いだけは十分に!
……とはいっても腹の減った可哀相な兄弟がそんな元気よく入ってきたら追い出される。
なので、エドワードのこしゃまっくれた脳味噌は、せいぜい瀕死の兄弟(本当に瀕死なのだが)を演じることに徹した。
よろよろと足を縺れさせながら宿に転がり込む。そのまま倒れこんだが、見えないように弟はかばった。
「……まあ!」
上品そうな女性が、悲鳴を上げて駆け寄ってきた。
幸先がいいと内心ほくそ笑む。それにしてもすごいな、土の床かと思ったら石が敷いてあるとは。
「どうしたの! あなたたち!」
なんとか力を込めて上半身を起こす。力がない振りをしなくても本気で力が入らない。
駆け寄ってきた女性はどうやら従業員らしい。思ったよりも偉そうではなかった。
ボスはこの人じゃないと直感したが、誰でもいい、弟を助けてくれるのなら。それで。
八の字に下がった眉と、汚い子供に躊躇いもなく触れて起こしてくれようとするところから、この人はいい人だと確信する。
「お願い、お願いおねえさん、弟を助けて………」
ぎゅう、と腕の中のアルを抱きしめたら、今まで静かだったアルフォンスが突然火がついたように鳴き始めた。
内心ぎょっとした。だってアルはとてもいい子で、エドワードの苦労を分かっているのか、むずがって泣くことなど一度もなかったから。
ひょっとしたら演技じゃないのかと錯覚する。いや、まさか。三ヶ月の弟にそんな真似。
「ここのお姉さん達なら、優しい人ばっかりだから助けてくれるかも知れないって、聞いたんだ。僕はいいから、弟にミルクをあげてくれませんか…。お願いします」
眦に水滴をこぼれ落ちる直前まで溜めて、地面が見えるくらい頭を下げる。
「……」
黙り込んだまま、なんと答えていいのか分からないという風情の女性達に、少し冷や汗が垂れた。
――――――――――もう、後がないのだ。
躊躇っている一瞬で、幸運は逃げるかも知れない。
「……ミルク代じゃなくてもいいんです。一回、弟にお乳をあげてくれるだけでも」
「ぼうや、あのね」
「これだけ女性がいるんなら、赤ちゃん産んだばっかりの人もいませんか? 五分だけでもいいんです。お願いします!」
拒絶の言葉が出るのは、直感で分かった。何度も経験したからだ。
その前に言いたいことを言ってしまわないと、追い出されてしまう。
だけど、エドワードのその懇願にも、女性達は、狼狽えた瞳を見せるばかり。
気がつけばみすぼらしい兄弟のまわりには、何人もの綺麗に着飾った女性達がいた。
どんどんと膨らんでいく絶望。何度味わっても気持ちいい物ではない。
絶望は慣れると諦めを連れてくるのだ。
(……ここには、こんなに綺麗な着物があるのに…)
その一枚でもあれば、エドワード達は一ヶ月でもくらせるだろう。右端のお姉さんが羽織ってる青い打ち掛け一枚でいいからくれないかな。
演技ではなく、本気で泣けてきた。
「お金はないけど、なんだってします。死ねっていうなら目の前で死んでもいいです。だからお願い、アル、アルだけでも」
――――――――――どうか。
この子は、まだ三ヶ月だ。父の顔も母の顔も知らない。
エドワードがふて腐らずに生き延びてきたのは、腕の中のアルのおかげだ。
綺麗なお姉さん達は、拒絶をすることも忍びないのか、ただおろおろと顔を見合わせて囁いている。
どうすればいいだろう。
どうすれば助けて貰える?
汚れた頬をアルフォンスのそれに擦りつけたら、だあ、と声がして弟の紅葉みたいな掌が、エドワードの頬に触れた。
きゃはきゃはと楽しそうに微笑む弟のふくよかな肌に、自分の汚い涙が落ちた。
抱きしめる指の一本一本に、弟の荷重があることが、こんなにも嬉しくて、幸せだった。
(……うん)
なんでもする。なんでもするよ。おまえのためなら。
独りぼっちのエドの為に、母さんが残してくれたたった一つの愛しい魂。
母さんが死んだ時、一緒に死ななかったのも、アルの為かも知れないと思った。
「あのね、ぼうや」
申し訳なさそうな声色と、優しい掌が肩に掛かる。
もう、それだけでわかる。
ごめんなさいね、と続くことくらい。
でも、それでもよかった。それなら命を捨てればいいだけだ。最後の手が、ある。まだ終わりじゃない。
「ここには、赤ん坊のいる女の人はいないのよ。だから母乳をあげられる人はいないの」
「………」
拒絶は拒絶だが、予想していなかった言葉だったので、一瞬涙がひっこんだ。
びっくりして振り向けば、周りにいた女性達は、一様にあたたかな表情で弟と自分を見ていて。
「……ミルクはあるわ。代金はここで働いて返してくれればいいから、ね?」
「……………」
耳がおかしくなったのかと思った。
だって、それは許可の言葉だ。
そんな都合のいい言葉が、自分に降りかかるわけがない。だって、母さんが死んだときにもそんな優しい言葉は降りてこなかったんだから。
さっきまで高速で回転していた脳が、突然錆びついて、止まった。
後には白い濁った水だけで、それはとても粘ついている。おかげで歯車は動かず、エドワードは表情を作る余裕さえ奪われた。
「……ほんとに?」
だから、これは口が勝手に喋っただけで、脳はまだ寝たままだ。
「ほんと、ほんとに…?」
「本当よ」
手が伸びてきて、アルフォンスごと抱きしめられた。
鼻につんと、香水の匂いがする。母さんとは違う匂い。でも触れる肌の暖かさは懐かしくて、同じだった。
あんなに、いやってほど貰っていた抱擁は、そういえば母さんが死んだ後一度も与えられていなかったことに今更気がつく。
脳の奥で、ガチンと何かがはまった音がした。
一回息を吸えば、喉は空気を体内に入れることを何故か拒んで、息苦しさが逆に増す。
だって、もう。覚悟していたのに。
あの、人を解体するのが三度の飯より好きそうな闇市の肉屋に切られるシミュレーションを、何度も何度も繰り返して、無理矢理平気だと思えるように、ちょっとだけなってきたのに。
それはないだろう、こんな都合のいい話なんてあるわけないだろう。
だって、幸運の神様など、母さんが死んだときに一緒にいなくなったって、思いこんでいたから、耐えられたのだ。
ぞくぞくと、数秒遅れて、歓喜が襲ってきて、絶望を飲み込んだ。
肌が栗だつ。皮膚が喜悦に鳴くのが、エドワードには聞こえた。
「う……ぅ、え……っ」
いきなり高速で動き出した脳の歯車は、涙腺の決壊を促したらしい。
咳き込むくらい、エドワードは泣いた。
お姉さんの着物を、びしょ濡れにするほどだったのに、彼女は最後までずっとエドワードを抱いて、撫でてくれた。
(終わり)
