Don't over do it.2021 61の日
その日に軍部に行ったのは本当に偶然だった。
書類を提出してグッバイさようなら、のつもりだったのだ。
だが、報告書を持って、執務室に入った瞬間の大佐の顔を見て、エドワードは勘のいい自分を呪う。
「やあ鋼の、いいところにきたな」
「……うっさんくせえ笑みだな大佐」
顔を上げた瞬間、ぱっと輝いた国軍大佐殿の瞳に浮かぶのは、狡猾で理知的な輝き。
忙しそうに書類に埋もれていることを期待したが、暇そうに珈琲を飲んでいるところからして、どうやら余裕がありそうで実に困る。
おいでおいでと手ぐすねを引いて呼ぶ仕草からして、ろくなもんじゃなさそう。
満面の笑みが気持ち悪いが、書類は提出しなければならないので、しぶしぶながら近寄った。
コーヒーカップをソーサーに戻して、両手をまるでハグするように差し出す男は、感動の抱擁の為では絶対にない。
今から厄介事をあげよう、という仕草だ。俺には分かる。長いつきあいだ。
つまり、用事を済ませてさっさと逃げるのが最適解。
机越しの大佐の手にぽん、と大きめの封筒を載せる。
エドワードは怪しまれない程度のにこやかな笑みを見せて、手を離した。
「はい、所定の書類な、じゃあ俺はこれで――」
「待った鋼の。明日暇か?」
「暇じゃないもう帰る」
予想していたので、拒絶は反射的に出た。
年下の部下の反乱にも、大佐は眉を少し寄せるだけで、不快そうな表情は見せない。慣れた物だ。顎に手を当てて、考える素振りなどをしている。
「ふむ。実は明日だけイーストシティに出現する屋台があってな」
「明日だけ屋台?」
明日だけ、と言う言葉に興味を引かれ、聞き返してしまう。しまった、と思ったが後の祭りだ。
「六月一日にだけ、その屋台が現れる。そこではいろいろ興味深い物を売っていてな」
「……な、なに」
あああ、やばい、こいつの手のひらに俺は今乗ろうとしている、と分かっているのに、好奇心の方が強かった。
問い返しちゃダメだろ、と分かっているのに、勝手に口から言葉が漏れる。
大佐は俺のそんな顔を見て、どこか勝ち誇ったように笑うから、これまたむかつくってものじゃない。
「なあに、たいしたもんじゃない。禁書の錬金術書が何冊か。まあ私は違う物が欲しいんだがね。場所についてもヒントはいくつかあるのだが。ところで鋼の? 明日は暇か?」
さっきと同じ言葉を繰り返される。
首を傾げて微笑む男は、色艶よすぎて、頬が赤くなった。
照れているからじゃない、これは絶対違う。単に悔しいだけだ。
分かってやがるだろ、こいつ。
「――わかったよ! 一緒に探せばいいんだろ?」
「待ち合わせは何時にしようか」
吐き捨てるように呟いた言葉には、即座に、新しい段取りが被せられる。
大佐の中では、シミュレーション通りに俺が動いたんだろうと思うと、思わず唇を噛んでしまったのは許して欲しい。
――でも、いつだってそうだ。この男の方が人生経験も何もかも、自分よりは遙かに遠くて手が届かない場所にいる。
そして、そんな男に対する恋が、そもそもうまくいくはずがないのだ。
六月一日は平日のはずだが、待ち合わせ場所に行ったら、私服の男が本を読みながら立っていた。
伊達なのか眼鏡を掛けて、公園の案内板に凭れたまま、文庫サイズの本に目を落としている男の目の前を、ちらちらと女性達が視線をやっては通り過ぎていく。
そも、このアメストリスでは黒髪は目立つのだ、ただでさえ異国の雰囲気がするというのに、整った容姿を持つとなると、女性だけではなく、男性にだって人気があって当然で――自分がその外見に騙されたとは思いたくないが、端から見たらその辺のキャーキャー言ってる女の人達と、自分だってそう変わらない。
男の視界にあの女性達が入ってないわけないのに、綺麗に見なかった振りをして読書を続ける大佐を遠くから見て、エドワードは一度立ち止まると息を吐いた。
何でこんなことに。
正直あまり会いたくなかった。
ほらみろ、心拍数は跳ね上がってるし、まだまだ寒さが残るはずなのに、頬が熱を持って全く寒くない。私服の大佐なんて見ることないから、緊張しているのが自分でも分かる。
やだな、すでに心臓がキリキリしてきた。
熟成された片思いは、既に腐り果てて、近寄りたくもない悪臭まで漂っているのだ。早く手放してしまいたいのに、困ったことに、全くサイズが小さくならない。
そんな大きなゴミ袋を、一度深呼吸して頭の中で投げ捨てる。どうせすぐに復活するけど、今だけは、と頭を振って、冷静を装って大佐に近寄った。
「鋼の」
「おはよ」
数メートルまで近寄ったところで、男の顔が上がる。エドワードを見て、ほんの微かに微笑んだその様子にまた数秒時を忘れて、意識が飛んだ。
「来ないかと思った」
「来ないつもりなら最初から、分かったなんて言わねえよ」
約束を破るのは流石に失礼だろ、と口を尖らせて言えば、なぜか大佐は嬉しそうに笑った。
「で、その屋台ってのはなにもんなんだ」
「流れの屋台で、いろんな国を歩いてるみたいでね、ドラクマで仕入れたらしい錬金術書と、謎の鉱物が今の販売物だという話なんだが」
「鉱物?」
錬金術書の話だけかと思っていたら、いきなり違うことを言われて、声が出る。
大佐はエドワードを置いて、さっさと歩きながら言うので、慌てて後を追いかけた。行き先の当てはあるんだろうか、そういえばヒントはあると言っていた。
「このくらいの」
ろくろを廻すように両手を広げる大佐。
「大きい翡翠。砂漠で見つかったらしい」
「砂漠で翡翠?」
「おかしいだろう」
おかしい。
川とか山で見つかるなら分かるが、砂漠にあるわけがない。つまりは、誰かが置いたか捨てたのだ。怪しさ満載である。
「その翡翠に興味があるのか?」
「いや、ないが」
「ないのかよ!」
欲しいのかと思ったら、意味分かんねえ、と言えば、いやいや、と大佐は頭を掻く。
「ちょっと次にやろうと思っている錬成に必要というか」
「翡翠くらいなら作ろうか?」
錬金術書は無理だが、翡翠くらいなら、原材料が分かれば簡単だ。でも何に使うんだろう、と頭を過ぎり、その瞬間、まさか、と嫌な予想が頭に湧き出てきたが、打ち消した。
エドワードの提案に、男は少し驚いた顔で呟く。
「作る、って君がか」
「元素が分かってりゃ配合だけだろ。やろうと思えばできるぜ?」
言って、ぱん、と手を叩く。そのまま隣を歩く大佐を見上げたら、彼は何故か肩を竦めて首を振った。
「君はロマンがなさ過ぎる」
「? なんだそれ」
俺としては最高にいい提案をしてあげたつもりなのに、なんでこやつはこんな不満げな顔をするのだ。
「魚が欲しければ、魚屋で買えばいいのになぜ人は釣りをする。金があるならタクシーを使えばいいのに、なぜ自家用車を運転する?」
「え、何だよ、暇だから?」
おっさんの力説が始まって、エドワードは首を傾げる。
何がいったいこいつの琴線に触れたのかよく分からない。
「違う。その方が楽しいからだ」
「楽しい」
男は拳を握って、目を閉じ、何故か頷いた。
「一からこういう怪しい屋台で謎な鉱石を手に入れるのが楽しいのに、君に作ってもらったらロマンも何もないじゃないか」
「ろまん」
理論と数式の海に溺れる錬金術師とは思えないロマンというセリフに、思わず口返してしまえば、大佐はむう、と軽く膨れて、人の髪をわしわしと掻き乱す。
「なにすんだよ!」
「恋する男はロマンチストなんだよ」
「……はぁ?」
理解不能な声を出したが、脳は一瞬にして警告音を出す。
もしゃもしゃになった頭を整えながら、唐突な心拍数の増加に、唾を飲み込んだ。
「え、なに、大佐好きな人とかいたの」
問う声に、かすれや震えが混じっていやしないだろうか。突然の爆弾に、さっきまでの楽しい気持ちは完全に霧散している。デートみたい、なんて思っていた暢気な思考は既に見つけられなかった。
「君はいないのか?」
「えっ……」
空気を吸う音がみっともなく、自分の耳に響く。そう切り返されるとは思わなくて、思わず立ち止まってしまった。
おそるおそると、見上げたエドワードを見て、ロイはほんの少し残念そうに微笑む。
「なんだ、いるのか」
「な、な、ななんで」
「大人だから分かるよそれくらい」
わはは、と笑いながら徒歩を再開する大佐の顔には、さっきまでの暗い気配などどこにもない。動揺するエドワードが、まだ立ち直れもしていないのに、そのまま軽く手を握られた。
「まあ、今日くらいは君の好きな相手にも許してもらおうか」
「……っ、ちょ、大佐」
強引なほどに引っ張られて、ほんの少し転げそうになる。機械鎧の冷たいだけの腕を躊躇なく掴んだ男は、子供と散歩する父親のように、穏やかにエドワードに話し掛けた。
「君の好きな人の話を聞きたいな」
「――、いうわけねえだろ!」
思わず叫んだが、多分顔が真っ赤だったのだろう、振り返った大佐は、ふうん? と言ってにやにやと笑った。
「それは残念」
聞けるとも思っていなかったくせに、大佐は酷いことを言う。
「じゃあ……」
――大佐は?
聞ければよかったのに、なぜかご機嫌な横顔を見ただけで、胸が痛くて、それ以上は紡げない。
手を繋いで、世間話をしながらデートのまねごとなんて、こんな幸福な時間、本当ならもっと大切にしなければいけないのに、まるで拷問を受けたみたいに頭の奥がキリキリと不快な音で埋め尽くされる。
好きな人、いたのか。
そりゃそうか、女好きの大佐にいないわけがなかった。特定の彼女はいないって聞いてたから勝手に安心してたけど、片思いの可能性を忘れていた。だってこいつが、片恋に苦しむなんて、考えられなかったから。
……失敗したなあ。
多分、俺、なんだかんだいって、自分の都合いいように、考えてたんだ、きっと。
腕ふりほどいて帰れねえかな……
失恋のショックで、大佐の言うことがほとんど頭に入ってこない。
じゃあな、って立ち去れないのは、一年に一度、屋台に出てくる禁書、なんて唆る代物のせいだ。
ならばその屋台とやらをさっさと見つけて、大佐と離れるしかない。
捕まれた手をぎゅう、と握り返したら、大佐が意外そうに振り返った。
「さっさと見つけるぞ、その謎屋台」
そのまま腕をふりほどくと、こっちから大佐の手を掴み直す。
「ヒントあるんだろ、教えろ」
「ああ、一つ目は、銀色の風船、二つ目は、赤色の鳥、三つ目は青い旗、だそうだ」
意味は分からない、と大佐は続ける。
「よし、とりあえずそれ探すのが先だな。高いところ行こうぜ! 町がよく見えるだろ。大佐、どこだ?」
俺なんかよりイーストシティに詳しい男なら、町が一望できる場所なんて何個も思いつくだろう。
大佐の口から出てきた場所は三カ所で、うし、さっさと回るぞ! と腕を上げれば、男は溜息をつきながら、「なんで唐突にやる気になってるんだ」とぼやいた。
思わずカチン、ときて振り返るが、何も言えずに溜息だけ吐く。
うるせえ、殴ってやろうかな、こいつ。
誰のせいだと思ってるんだろう。
見つけた目印の元には、小さいぬいぐるみや、謎の巨大な石や、よく分からないガラクタばかり。
高いところから見た、たくさんの風船も風見鶏も、おそらく九割がダミーなんだろう。どれが正解か、なんて探す余裕もなく、とにかく歩き回って、途中疲れたから、と休憩したりごはんを食べたり。
夕方になった頃には、これガセなんじゃねえの、と三回は大佐に聞いたと思う。
早めに済ませて、さっさと別れたいという目標とは裏腹に、事態は全く進まず。
やっとそれっぽい屋台を見つけたのは、夜の八時前だった。
「なんでそんなところにいるんだ……」
思わず俺がそう漏らしたのも無理はない。
髭を蓄えた小太りの老人が今まさに屋台を片付けようとしていたのは、よりにもよって廃墟になった教会の中だった。
誰が来るんだ、廃墟の協会。
俺の後ろにいた大佐が、口元に指を当て、首を傾げる。
「客なんか来ないだろう」
俺たちの愚痴に、爺さんはじっとこっちを見て、肩を竦めた。
「あんたらがきたじゃないか」
「……」
そのとおりだった。そう言われるとあんまり反論できない。
爺さんは片付け始めた椅子を再度取り出して、どっかりと座る。屋台と言っても、アクセサリーを売るくらいの小さな屋台で、祭りにあるような本格的な屋台ではない。
分解できる木製のテーブルの上に、分厚い古びた本が三種類と、そして人の頭くらいある巨大な鉱物があった。
「で、どうする、なにか買うのか」
腕組みをしていう偉そうな店主に睨まれ、ついつい大佐を顔と見合わせる。
「そりゃもちろん」
「――全部だ」
教会から立ち去るときに、後ろを振り返ると、崩壊した天井から飛び出して、存在を誇示して風になびく、銀色の風船があった。
一応あれが目印なんだろう。銀色の風船、八つ目にして、やっと本物に巡り会えた。あと何個ダミーがあったのか。下手したら間に合わなかった可能性もある。なんかもやっとしたが、今はとりあえず後回し。今更言ってもしょうがない。
紙袋に入れられた本と鉱石を持った男が、エドワードを振り返る。視線が合わさった。
既に周囲は夜の帳が降り始め、太陽は姿を隠している。
「鋼の、この本どうする」
「どうするって何が」
「買ったのは私だが」
言ってひらひらと本を見せつけられてしまい、一瞬にして、気づいてしまった。
あ、と言った俺を見て、にやにやと笑みを浮かべる男。
「金払う!」
「いやー私も欲しかったしねえ、この本。金払われても譲れないなあ」
「はぁ!? 嘘つけてめえ!」
ずかずか近寄って、げしげしとふくらはぎを殴ったのに、大佐はにやけ面をやめない。
「大佐、欲しいのは鉱物だけって言ってたじゃねえか」
「そうだったかな?」
あ、クソ。
やっぱりだった、俺の負けだ。最悪。
頭をばりばりと掻いて、殴りつける気持ちを抑えるために溜息を吐く。
早く離れたいのに、なんだかうまく離れられない。もういい加減にして欲しい。普通失恋した相手とは早く離れて一人で落ち込んだりしたいもんじゃないのか。そのくらいの細やかな願いも叶えてくれやしない。
深呼吸一つ。なんとか喉まで込みあがった怒りを抑えて、手を下ろした。
「じゃあ本貸せよ」
「貸してもいいんだが、ちょっと私の家まで来ないか」
「やだ」
即答した。
冗談じゃねえ、ただでさえ早く帰りたいのに、大佐の家だと? これが今日の朝なら、少しはドキドキしたかもしれないが、今や残酷すぎて乾いた笑いが出る。
悪いが大佐の家だ~なんて喜ぶ余裕は、失恋直後の俺には欠片もない。
「別にどこかの居酒屋の個室でもいいが。とにかく気になることがあってな、この本を見て話したい。君が望むような本かどうか分からないし確認したい。腹も減ったしな」
「……う、個室なら」
腹が減ったのはたしかで、本が早く読みたいのもたしかだ。渋々頷いたが、その瞬間に大佐が見せた、ほんの少しの安堵の表情を見て、やっぱり頭が揺らいでしまう。
……本当なら、楽しそうな顔も、眠そうな顔も、全部全部見たくて、今だって手を繋いで抱きつきたい。
その手も表情も、他の人のものだと知っていて、そんなことが出来るわけもなく。
ただただ、見えない相手に対して、呪詛のような嫉妬を向ける醜い自分がいるだけだった。
いやだいやだと言いながら、結局自分はどうしたいんだろう。
でも焼き肉はおいしい。
「鋼の、これ焼けたぞ」
タンをぺいっとエドワードの取り皿に置いた大佐が、自分はキャベツを食べながら、先ほど入手した本を見ている。
もう一冊の本をぱらぱらと肉をつまみつつ眺めて、エドワードは、テーブルに、ゴン、と頭を伏した。
「……はーずーれーじゃーねーえーかー……」
「そうか? このカルビもなかなかうまいぞ。この店はなかなかのアタリと思うが」
肉じゃねえよ。
「ぜんっぜん、人体錬成とか書いてねえし。内容も俺でも分かるレベルだし。これに一冊五万センズってぼったくりだろ」
大佐は今度は肉をもぐもぐと口に入れて、玉ねぎをひっくり返す。
「そういえば鋼の。本は買い取るんだったな」
「いらねえ」
「あれだけ欲しいって言ってただろう」
顔を突っ伏しているので、大佐の声しか聞こえないが、それで悟ってしまった。
なるほど。
これは全部。
大佐の予測範囲内か。
「なんなんだ大佐は。俺をからかって遊んでるだけだろ」
「なんだね急に」
「どうせこの本がたいした内容じゃないことだって知ってたんだろうが」
言って、バンバンと本の背表紙を軽く叩けば、大佐は素知らぬふりでキャベツを食べる。その態度がもう、図星と言っているにも等しくて、怒ってやろうとしたのに、すぐにどうでもよくなった。
「まあ、屋台の場所も、本がどうでもいい内容なのも分かってたけどね」
「――は?」
肉をひっくり返しつついう大佐はこちらの顔を見てもいない。
「おい、ふざけんなよ大佐……こっちだって時間ないのに、なんで」
思わずバン、と手をテーブルに着いて、思わず立ち上がる。
ここまで小馬鹿にされるいわれはない。しかも失恋してるんだから、もうこいつに対して、嫌われたらどうしようとか、考える必要もないのだ。
大佐が俺の恋心を知るよしもないのは分かっているが、まるで自分の恋まで馬鹿にされたような錯覚に、流石に頭の芯が熱くなる。
「だって、そうでもしないと好きな子とデートできないだろう」
「……は?」
見下ろした大佐の旋毛が、唐突に消えて、見上げてきた視線と絡まる。
大佐は、カルビをもぐもぐと咀嚼しながら、一瞬だけ、不思議そうにエドワードを見た。
「恋する男はロマンチストって言ったじゃないか。……あ、鋼の、ホルモン焼けたぞ」
「……」
すぐに焼肉プレートに視線を移した大佐が、ホルモンを人の取り皿に載せてきて、エドワードは、数秒呆然とした後に、そのまま無言で、すとん、と座り直した。
「え、今何」
「聞き返さなくても君が聞いた言葉は間違ってない。だから、これも」
テーブルではなく、椅子の方に手を伸ばした男は、紙袋の中に残されていた巨大鉱石を、どん、とテーブルの上に置く。
「流石に申し訳ないからな。くだらない本の代わりにこれをあげよう」
「は」
さっき本のオマケのつもりで大佐が買っていた黄色い鉱石が目の前に置かれて、なにがなにやらわからなくなる。
石と大佐の顔を何度も往復して見ていると、頬杖をついた男は、柔らかく微笑んでそんな俺を観察していることに気がついた。闇色の瞳が妙に優しくて、なんだか背中がムズムズしてくる。
都合のいい夢かも、という錯覚は、あっさりと排除されてしまった。
「騙して悪かったね。その石はお詫びだ」
ふ、と表情を緩めた男に、どうぞ、と手を出されたが、意味が分からない。いやそれどころじゃない。好きな子とデートってなんだ。
ここでほいほいと言うことを聞いたら、又奴の手のひらの上のような気がしてきた。
「お詫びって何だ。いやそれより先に、好きな子って」
「君だよ」
「デートって……」
「朝から一緒に町を巡って夕飯まで一緒するのはデートだろう」
何で即答なんだこいつ。今までそういう素振りさっぱり見せなかったじゃねーか。
頭がショートして、声が出なくなった。ただ、頬が熱いので、きっとこれは真っ赤になっている。どうしよう、無性に恥ずかしくなって俯いたが、何の挽回策にもならない。
「……失恋したんじゃ」
「違うよ」
返された言葉に、今、自分が脳内の言葉を口に出していたことに気づいて、血の気が引く。
恐る恐る顔を上げたら、まるで幼子を見守るような緩やかな視線に巻き取られ、息が止まりそうになった。
「悪いね。流石にそろそろ限界だから、こちらから、手を伸ばすことにした」
「え……」
「君も私を好きだろう。一過性かなと思っていたが、一年経っても二年経っても、見てくる視線が変わらないから」
「……」
「まあ、ここまで待てば、何も知らない少年を騙くらかしたとは言われないかな、と」
「え……」
にっこり。
満面の笑みに見えるのに、どうしてだろう、背後に黒い尻尾が見える。
……なるほど?
これも全部。
大佐の予測範囲内か。
つまり、俺の気持ちはまんまとこいつに知られていて。
俺を手に入れるためにこの日は計画されていて、そしてこの本がクソなのも分かっていて、何も知らない俺は、失恋したと勘違いして、無駄に心臓にダメージを与えていた訳か。
――そうかなるほど。これは俺、怒っていいな。
怒っていいんだが、両思いが確定して頬が緩みそうなのも、多分分かってるんだろうなこいつは。
で、これ以上ここにいると俺、多分嬉しい方が上回って、大佐の思い通りに抱きつくな、多分。
あ、ダメだむかつく。
ふと、目の前の巨大鉱石に目が落ちる。
そういえば、なんでこの巨大鉱石、大佐は必要としてたんだろう。
特に興味ないと言っていた。
俺へのプレゼントのようにお詫びのように言うってコトは、おそらくこれがなにか、あるのだ。
「ふーん」
ぱん、と両手を叩いて、鉱石に手を当てる。外観から判別できる要素を特定して、分解するように命令を送ると、大きかった鉱石はみるみるうちにその形を失っていく。
仄かに白くて強い錬成光が消えた後、中から出てきたのは、小さな小さな指輪だった。
「――これが大佐の本命か」
プラチナのような銀色の光。装飾一つなく、文字も刻まれていないリングは、小さなダイヤモンドか何かがはまっていなければ、ただのわっかにしか見えない。
指輪を、手で掴んだ途端に、男は用意してきたのであろうセリフを言った。
「填めてくれないかな」
「……オイ」
「他の人を牽制したくてね」
「まだ十代のいたいけなガキなんだぞ俺は」
「待ってたら私が年を取るだろう」
「しるか大佐がおっさんなのが悪い」
むう、と唇を膨らませてむちゃくちゃな責任転嫁をする。まるでこっちが悪いみたいに言われるのはどうも気に入らない。
大佐は、不機嫌そうなこちらの態度にほんの少しの懇願を貼り付けて、頼むよ、なんて言って、人の情を絆そうとするのも気に入らない。
――気に入らないのに、ああ、もう。
許してしまってる自分が、一番いやだ。
ピン、と指で指輪を弾くと、それは一直線に天を目指して飛び上がり、重力に従いくるくると回りながら落ちてきた。
落ちてきた指輪をぱし、と捕まえ、軽く両手で閉じ込める。
「鋼の?」
「大佐が着けろ」
「え」
間髪入れず、男の左の手を掴むと、そのまま指輪を薬指に突っ込んだ。
「……」
複雑な表情で、左手に填まった指輪を見る男。
クソみたいな五万センズの本を手にとって、エドワードは立ち上がる。
「鋼の、まさか帰るのか」
「帰る」
予想外だったのだろう。さっと表情が陰ったことに、初めてほんの少し溜飲が下がる。
「その指輪。そのままほっとくと周囲に対して不快な音を鳴らすように錬成してあるから」
「なんだと?」
「黒板に爪立てたような音がするぜ。嫌ならさっさと外せ。まあ外れねえけど」
その言葉に、大佐が慌てて指輪を引き抜こうとするが、当然ながらそれはびくともしなかった。当たり前だ。そうしたから。
「さっきの一瞬で再錬成したのか君」
答えず、ふん、と顔を背けて、個室の扉を開ける。
「大佐の都合のいいように転がされてやるか、バーカ」
「あ、ちょっと待て、鋼の! これはどうやって……」
外すんだ、と言う声を最後まで聞かずに個室の扉を閉める。
どうせ大佐のことだから、俺の仕掛けた悪戯なんて、一日もせずに解除しやがるんだろう。
やっぱり癪だな、と思いつつ、先に金まで払って焼肉屋を飛び出たが、大佐は追いかけてこなかった。
――敗因。
残されたロイ・マスタングは一人焼き肉を食べながら、反省会。
うん、鋼のは天邪鬼で意地っ張りだった。あまりにかわいくて、渋々って振りしながらデートを楽しんでいるのが見えてしまったので、ついついついつい可愛い子供を虐めすぎてしまった。
虎の子供はかわいいけれど、やっぱり虎だったのを忘れていた。
残ったキャベツの芯をぼりぼり音を立てて囓りながら、指輪に仕込まれた錬成陣を解読できたのと、閉店時間はほぼ同時で。
店中に響き渡る不快音に、既にロイ以外の客は全部店から消えていた。
流石に少し懲りたロイが、謝罪をして抱きしめることを許して貰えたのは、それから又、三日後のことで。
再度渡した指輪は、もちろん笑顔で突っ返された。
(終わり)