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思いを忘れようと残業の日々を繰り返して、もう一ヶ月になる。
秘書は「やる気になってくれたのはいいことですけど……」と微妙な溜め息をつきながらも容赦なく書類を机に積み上げた。
仕事があるのはありがたい。でも集中しようとすればするほど、脳裏には近あの晩のエドワードの驚いた顔がちらついた。
(……びっくりしていたな)
嫌悪感はなさそうだったのが救いだが、どうして、と聞かれて戸惑った。
素直にあそこで答えればよかったのだろうか。でもあの時は自分が起こした唐突な行動に自分自身が混乱していて、告白なんか出来る状態ではなかった。
数年間、ずっと側で見ていたから気持ちを抑え込むのも手慣れた物で、時折激しい衝動が襲うことがあってもまさか耐えられないだなんて思っていなかった。
あの時の彼は、あどけなく信頼しきった明るい表情でロイを見つめているのに、月に照らされた横顔は妙に艶めかしくて、人形のように綺麗だった。
思わず見惚れてしまったロイの目の前で、その鮮烈な美貌を惜しげもなく晒して微笑むのだ。月から降りてきましたと言われても信じてしまいそうな淡い金の睫毛と、白い肌。触れたら砂になって消えてしまうんじゃないかと錯覚しそうに細い髪。思わず箍が外れても仕方ない――
「って、言い訳だな……」
なんといっても我慢できなかった方が悪い。
あれから、きちんと一度話して別れを告げなければと思いつつ悪戯に時間ばかりがすぎて今日でもう一ヶ月。
ぼろアパートの階段を上りながら、さすがにそろそろ電話でもかけてケリをつけないとなと嘆息して、二階に上がった時に、自宅の部屋の前に座り込む物体が見えた。
「え?」
夜目にも分かる金色に思わず駆け寄るが、子供は廊下に座り込んで、扉に背を預けたまま、すやすやと眠っていた。
酒瓶を抱えて。
「…………」
思わず頭を抱える。
待っていたのは明白だが、こういうところが危機感がなさすぎるんだ。変な住人に部屋に連れ込まれでもしたらどうするつもりなんだ。
と、いいつつも起こすのがもったいなくて、ロイも座り込むと、同じ目線で眺める。
いとけない寝顔。
かわいくて仕方なかったはずの近所の子供に、情欲なんかを抱き始めたのはいつからだったか。
君を組み伏せて、身に楔を打ち込んでキスをする夢を何度も見た。子供は最近この部屋にはあまり入ってくれなくなったけれど、それでよいのかもしれないと思っている。
(嫌って……は、ないんだろうな)
嫌いなら、連絡がこなくなったのを幸いとばかりにこのまま縁を切るだろう。自分から訪れるなんてあるわけがない。
両手にしっかりと抱えられている酒瓶は今年の彼の蔵の新酒だろう。そういえば、そろそろ出来上がる時期だ。
「エドワード」
軽く声を掛けたら、瞼がぴくりと動く。
「こんなところで寝たら風邪を引く」
「……」
ゆっくりと瞼が開いて、寝起き特有のとろんとした瞳がロイを確認した。まるで情事の最中のように憂いを含んだ黄金の宝石。
思わず重いものが胸に落ちる。いちいちこの子は心臓に悪すぎる。
「……ロイ…? …、え! 俺寝てた?!」
やっと覚醒したのか、慌てて起き上がる子供。酒瓶を抱えたまま、一歩後じさって頭に手を当てた。
「中に入って待ってればよかったのに」
「……あんたがいないのに、入るの嫌だって言っただろ」
「もうあんなことはないと、何度言ったら分かるのかね君は。……それで? 何のようだ」
意外にも平静を装って普通の会話を続けられたことに不安と安堵を覚える。
これは、ひょっとして、無かったことにしてくれようとしているのだろうか。
歓迎すべきことなのに、何故かいらいらと胸が騒ぐ。
拒否を示すは己の本能。
(わかってる。……もう、無理だな)
彼が善意でこのまま昔みたいな関係を続けてくれようとしても、一旦開いたロイの箱は鍵が壊れてしまっている。友達になんて、戻れるわけがない。
恋人になるか、離れるか。それだけだ。
寝ている彼を見ているだけで、もう触れたくてたまらないのに、前みたいな接触で耐えられるほどご立派ではない。
一ヶ月会わなかったら少しは感情が薄れるかと思ったのに、さっきの数分で思い知った。もう駄目だなと。
鞄を持ったまま、部屋に入ろうともせず何のようだ、と冷たく言い放ったロイに、エドワードもさすがに普段と違う物を感じたらしい。珍しくも気配に気圧された様子を見せたが、すぐに立ち直った。
「……酒。新酒出来たから持ってきた。飲むだろ」
「ああ、ありがとう。いつもすまない」
差し出された酒を受け取ろうと手を伸ばすが、もうすぐ触れるという瞬間に彼はぱっと後ろに下がった。
「……エドワード?」
酒を持ってきたんじゃないのかと視線に乗せて問えば、闇の中の彼は唇を噛んで、こちらを上目遣いに見つめている。
「なんで、中に入れっていわねえんだよ。いつもなら言うじゃねえか」
「……だって君、もう夜も遅いし」
「今までなら夜の一時でも二時でも部屋に入れてくれてたじゃねえかよ!」
癇癪を起こして叫ぶ子供に、さすがに慌てた。
このアパートは防音は心許ないのだ。こんな時間に廊下で騒いでいたら住人が起きてしまう。
「わかった……」
不本意だが、この睨み付けてくる視線から考えても、帰れといったところで帰ってくれそうにない。溜め息をつきながら鍵を穴に入れて廻した。
扉を開けて入れと促すと、子供は一瞬だけ寂しそうな顔をした。
(終わり)
