黒の祭壇

黒の祭壇

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63(連載中)


「あ……」
 肩をぐい、と押されたと思ったら、次の瞬間にはひっくり返されていた。
 布団に押しつけられ、目の前には俺にのしかかるロイの姿がある。
 さっきまでおっさんの上に転がっていたのに、今は逆だった。
「………っ」

 影になってよく見えないけれど、俺を押し倒すロイの表情は、固い。明らかに苛立ちを含んでいると分かっているのに、そんな視線で見つめられても嬉しくてたまらない。
 でも同じくらい胸が絞られて、言葉を失ってしまった。
「私は、君にこんな事をして欲しかったわけではない。……さっき、部屋に入ってきた君を見て、あまりに綺麗に育ったので、思わず見とれた。だが――同じくらい、腹が立ったよ。聞けば一晩三百万センズらしいね。そりゃあどいつも金を払っただろう」
「……」
 答えられない。多分、おっさんは俺の答えなんか求めてないからだ。
 彼はただ、自分の胸の内を吐露しているだけ。
 そうだ。嬉しかったのは俺だけで、奴はどんな気持ちで、俺が来るのを待っていたんだろう。ロイの頭の中にある、小さくて生意気だった子供は、消えてしまった。

 俺が――自分で、消したのだ。きっと、ロイは昔のままの俺を望んでいたのに。

「約束を覚えているか」
「……覚えてる、よ」
 忘れるわけがない。ずっと笑顔の練習とか、してきた。
 次にあったら、綺麗に笑え、と。お互い笑って再会しよう、って言ったのに。今の自分はただ恐怖に震えている。
 さっきから、一度も俺は笑ってなんかいない。そして、ロイも、それは同じだった。
 自分を押し倒しているロイは、涼しげにこちらを見下ろしているが、その黒い瞳は歪んでいた。それは明確な怒りと、失望。
 思わず唾を飲み込む。
 悪意を向けられたことは、何度もある。でも――一番嫌われたくない人が、自分を睨みつけるというのは、怖い。
「――今の君に、微笑まれたら、私はこのまま君の首を絞めそうだ」
「……っ」
 ぞっとするほど酷薄な笑みで、男は突然人の首筋に手を当てた。
「な、なん、で……?」
「――そうして、他の男にも笑ったのか、と考えるからに決まってるだろう」
「……愛想笑いと、笑顔は違う」
「そうだね。でも私の知る限り、女郎というのは、買ってる時間は、平気で嘘をついて、男をいい気にさせる事が出来るものなんだよ。私は君に、そんなものにだけは、絶対になってほしくなかった」
「あ……っ」
 信じられなくて、呆然と男の手元を見る。
 衣擦れの音が部屋に浸透して、服が緩む。
 帯を外されたのだと気づいて、思考が現実を拒絶した。
「私の知る君は、こんな綺麗な服なんか、着てなかった」
「だって、それは……」
「――三百万センズ払ったのは、客だとしたら君がどんな顔でここに来るのかと思ったからだ。――予想以上に綺麗で、本気で、括り殺してやろうかと思うくらいだったのに。警戒した私でさえ見惚れたんだ。あれじゃあ、他の客なんて一発だ。それだけだったらよかったのに、……君、どうしてあんなに無防備に私に抱きついてきたんだ」
「……っ、あ」
 冷たい手が、開いた着物の合わせ目から入ってきて、エドワードはあまりのことに、意識が数秒固まった。

 ――嘘だろ。

 あの、ロイが。
 数年前に別れて、俺の子供の頃しかしらないロイが、人の肌をまさぐっている。
 それが何を意味するか。分からない訳じゃない。けど、そんな、だって。
 おっさんは、俺に対してそんなこと、するような奴じゃ――
「ロ……」
 どうして、と言いかけ、顔を上げて、相手の顔を直視したとき、エドワードは全てを理解した。
「おっさん……」
「どうした。何度も他の男相手にしてきたことなんだろう?」
「……」
 半分以上脱がされた服と、裸の胸を探る指。冷たい冷たい手のひらが、人の胸に触れて太ももを撫でる。乱暴でいて、慈しむような動き。瞳の奥の、獣じみた光。
 ……信じられなかった。
 だって、あの男が、俺なんかに欲情して、抱こうとしている。
 でも、どうしてと言いかけて止まったのは、奴の顔を見て、分かってしまったからだ。

 戦争は、何年あった?
 こいつは、何年戦場にいた?

 俺が、いつ帰ってくるのかな、と暢気に新聞を読んでいる間、ロイは一人で、あの焼けた大地で、人を――殺していたんだ。
 狂わないわけが、ないだろう。
 あいつはいつだって、誰に対しても優しかった。お店の姉ちゃんにも、ピナコばっちゃんにも、俺にもだ。
 普通の軍人なら、許してくれないだろういろんな事を、ロイは笑って許してくれた。そんなあいつが、英雄と呼ばれるほど、人を焼いた。
 理想はみんなの平和。だから剣を手に取り、人を殺す。その、絶望的な矛盾を何年も繰り返し、繰り返し、たった一人で。
 心臓が抉られるように痛い。
 俺は、自分の事ばっかりで、自分が会えることが嬉しくて、今の姿を見られることが怖くて、そんなことばっかりずっと考えてた。
 帰ってきたことに安堵して、まるで、別れる前のロイがそのままこの場所にいるような気がしていた。
 そんなわけないじゃないか。俺がこの数年で変わってしまったように、ロイだって、変わってしまうのだ。
 戦争というのはそれだけのことをする。男は、それだけの目に、あってきた。
 おそるおそる、手を伸ばした。
 男の両頬に手を当てると、少しだけ、奴の瞳の奥の狂気の色が消えた。
 それが嬉しくて、思わず微笑むと、ロイは目を見開いて息を呑む。
 そしたらますます、昔のおっさんに戻ったようで、嬉しくて嬉しくて、顔を引き寄せて口づけた。
「……っ!」
 らしくもなく、男は驚いたようで、人の肌をまさぐる手が数秒止まる。
 キスなんて初めてした。
 することなんて考えもしなかったけど、人の唇がこんなに温かいとは知らなかった。
「君は……」
「?」
 暫くして唇を離すと、ロイは泣き出す一歩前のような、おおよそ軍人らしくない顔をした。いつも冷静で皮肉屋だった大人の男が、まるで小さな子供みたいで、エドワードは首に手を回して抱きしめる。

 ――やっと、初めて、この男の事が見えた気がする。今まで俺は、自分の事ばかりだった。

「言ったはずだ。微笑んだら、君の首を絞めるかもしれないと」
 絞り出すような男の声。太ももを強く掴まれ、少しだけ痛い。怖いことを言われているはずなのに、不思議とさっきまでの恐怖はない。
「そうだっけ……なんでもいいや。だって、ほんとに、嬉しかったんだ。あんたが無事に戻ってきてくれて。……おっさん、おかえり」
「――――っ!」
 人の耳元で、ロイが息を呑む音がする。
 それからはもう、嵐のようだった。
 服を剥がされ、口を塞がれ、数年ぶりに会った恩人は、何も言わずに、人の身体を散々に貪った。
 多分それは、戦場で壊れてしまった男自身が、必死で自分を修復するために必要な儀式だったような気がして、不思議と、酷いことをされている気は、しなかった。
 

(終わり)