黒の祭壇

黒の祭壇

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9

「…………っ?!」
 唇を圧迫するように押しつぶしているのは、大佐の唇だと気がついたのは、咄嗟に目を開けてしまったから。
 思わず押し戻そうとして、寸前で手を止めた。
(駄目だ、俺が言ったことなのに)
 新手の嫌がらせなのかもしれない。その証拠に、息が出来なくて、腰が落ちそうになる。
「ん、…んん」
 それでも、寸前までは倒れ込むわけにはいかない、と必死で大佐の上着を掴んで、よろける足を支える。
 後頭部をびりびりとした量感が襲って、それこそ脳髄まで解かされそう。
 背伸びして、それを受け入れるけれども、流石に空気が足りなくて、喉が詰まってきた。

「……っ、いたっ!」
 下唇に軽い痛み。思わず声を上げた瞬間に、男は離れた。
 解放された唇が思いっきり酸素を吸い込む。
 すうはあ、と数回息継ぎすれば、ぬるりとしたそれが血だと気がついた。
 下唇を嘗める。傷ついた唇は、血を舌に載せてきた。
「ご希望通り傷つけたよ」
 あっさりと男は言う。

「……、大佐、違う、こんなんじゃねえよ」
 こんなんじゃ、身体しか傷ついてねえじゃないか。
 呟くと、男は目を見開いて、頭をがくりと落とした。
「問題はそこかね」
「なにが」
「いや、やっぱりまだ早かったか」
「だから、なにが!」
 また、子供扱いされたと知る。じんじんする唇を一回嘗め取った。舌でその場所をちろちろと探ると、嬲って血を拭う。もごもごと下唇を噛めば、血の匂いが口の中に充満した。
 そんなエドワードを面喰った大佐の姿が後追いして。

「妙なところだけ早熟すぎだ」
「――――――――――はあ?」
「やっぱり海に逃げた方がいい。捕まえられるくらいならそっちだ」
「……」

 大佐が一人で納得しているが、俺には意味が分からない。ただ、この男が先ほどの鯉の話をしているのは分かったので。
「逃げたって、捕まえればいいじゃん」
「鋼の?」
「海に逃げたら捕まえて、もう一回紐でくくればいいだけだろ。海に逃げただけで諦めるのがおかしい」
「君ね、海は広いんだ。大きいんだ。そう簡単に逃げた鯉が見つかるわけないだろう」
「金色の鯉はほとんどないんだろ。目立つならいつか見つかるよ。それこそなんならあんたのお得意の炎で水なんか蒸発させればいいだろ」
「…そんなことしたら、世界はだいぱにっくだ」
 でも、と男はささめく。
「そうか、目立つからいつか見つかるか」
「そうだよ、又紐にくくればいい」
「又逃げたら?」
「又捕まえろよ!いつか諦めて逃げなくなるって」
「………………そうか」
 男のうなずきは、何故か深い。いろいろとエドワードには分からない荷重が混じっていた。

 大佐の手がまたそっと伸びてくる。
 望む大佐の後の月代が、男の顔貌を覆い隠してしまう。だが、その漏れた微笑だけは感じ取ってしまえるのが憎らしい。

「もう、いい」

 やっと、男から許しがでた。
 先ほど噛まれた場所を親指の腹で触れられる。痛みにちょっと顔をしかめるが、それでも肩を揺らしただけで我慢した。
「その傷が消えるまでは、私のことを忘れないだろう。だからもう、それでいい」
「そんなので、いいのかよ」
 離れた男の手。指についたエドワードの血を、男は自分の舌で嘗め取った。
 己の血が、男の身体の中に入ることに、なぜか鳥肌が立った。見せつけるように指を嘗める男に、頬が熱があるんじゃないかと思うほどに赤くなる。
「今の私には、印をつけるくらいで精一杯だな。しかも消えない印なんて無理だ」
 肩を竦めて、男は、伸びをした。

「さて。景品を渡そうか。何が読みたい?」
「あ」
 もともと、景品を取りに来たはずなのにそんなことすっかり忘れていた己に気がつく。
(あんなに欲しがってたんじゃないのかよ俺…っ!)
 自分がすっかり忘れていたことを覚えていた男。そしてあれだけ欲しい欲しい言いながら、情けなくも、大佐に嫌われたんじゃないかとかそういうことばっかりで、頭から消え去っていた自分。
 恥ずかしくて、悔しい。男にはエドワードを翻弄しているつもりなど欠片もないから、又虚しいのだ。
 俺にとって、大佐に嫌われることの方が、重要な文献よりも大きいらしい。気がつきたくなかったが、俺の中でこいつはそこまで大きな位置になっていた。

 …このままなにか間違ったらそれこそリゼンブールの誰かさん達と同じレベルまで上がってきてしまう。
 それでも冷静なふりを装って、ぼそりと伝えた。
「人体錬成関係」
「まあ、そうだろうね。番人にはそう伝えるから、明日にでも取りに来なさい。あくまでも貸し出し権だからね。いつでもいいから返しには来い。後写本は駄目だ」
「必要ねーよ、見たら覚えるもん」
「君の頭脳ならそうだろうが、頼まれても書き写すなよ」
 しねーよ、と言ったが男も本気でそう思っているわけではあるまい。一応、建前だ。なんといっても大佐もその本を借りる側なのだ。注意はしなければならないだろう。

 帰ろうか、と手を掴まれる。
「………」
 振りほどこうとしたが、じっとその握られた手をどうしようかと眺めてしまった。
 いろいろと悪いことをした自覚があるので、ちょっとそういう行動に出られない。
 それをいいことに、大佐は鼻歌を歌いながら、エドワードを引っ張る。
 よろけながら台から降りて、大佐に連れられて歩いた。

(うう、兄弟みたい)
 お手々繋いでーの曲が聞こえてきそうだ。
 握られた手がどうも熱い。こういうところに子供扱いがかいま見えてむしゃくしゃする。
 でもしかたない、認めないと。
 年齢の差もだし、実質自分達は子供なのだし。
 大佐を兄だ、と思うのは無理があるけれど、隣の家に住むちょっと年上の独身男だと思うくらいなら、平気かもしれない。
 見上げる男の横顔はなぜか陽気で。でも輪郭が端正なのがまた悪い。
「…こんど、パパって呼んでやる」
 それも、たくさん人のいるところで。そうだ、女性達の前がいい。
 男は狼狽えるのか、そんな親子の演技を続けるのか。
 どちらを取ったとしても、一瞬でいいからこの男の心が揺らぐなら、そんないたずらはきっと楽しい気がした。

(終わり)