黒の祭壇

黒の祭壇

> TEXT > ロイエド > 中編 > 壺中の天 > 1

1

 夜の酒倉は寒い。
  エドワードはこっそりと勝手口の鍵を開ける。きいいいと立て付けの悪いアルミ戸の音が広い蔵に反響した。懐中電灯の電気をつけて蔵に入ると扉を閉める。鍵はかけない。
  まだ息が白くなるまでではないけれど、さすがに長袖が必要になる程度の冷気だった。
  ずらりと並ぶ巨大な貯蔵樽の間の通路を通り、懐中電灯の明かりを頼りに階段を目指す。
  エドワードが酒造家に生を受けてから、まだ十六年しか経っていない。
  小さい頃から酒とともに生きてきた彼にとって、子供にはまだ早いといわれるはずのものは日常でしかなかった。蔵にかすかに香る酒のにおいを香ばしいと思えるほどに。
  階段手前の一つの樽の蛇口を絞り少量の酒を失敬すると、エドワードは特等席である、二階の見渡し場までたどり着く。
  蔵に並んだ日本酒の樽。様子を見たり、アルコールを入れたりなどの作業をするためには、上部から見下ろす場所が必要だった。
  木造の床と、転落防止の柵があるだけの必要最低限の踊り場だ。
  監視台でもあるので、そんなには広くない。中二階といったほうがいいかもしれない。
  踊り場の柵に凭れて、底冷えする夜に眠りについているもうすぐ出荷の酒樽たちを眺める。
  後一ヶ月もすれば、この樽の中の酒は一つずつビンに詰められ、エドワードの知らない場所へと出荷されていく。
  立ったまま瓶から直接酒を呷って飲みつつ頬杖をつき、エドワードはため息を吐く。
  背後の窓から入る月明かりが、懐中電灯を不要としてくれたおかげで、意味もなくぼんやりとこの静かに月に浮かび上がる空間を眺める作業を堪能することが可能になった。
  
  月以外の光源もなく、音すらも存在しないはずの酒倉に、きいいい、と先ほども聞いたばかりの音が響く。
  さっき自分が立てた音と一緒だった。
  身を乗り出してみれば、勝手口の扉が開き、外の明かりが入ってくるのがわかった。
  この場所からでは扉の上部しか見えず、誰が入ってきたかはわからない。
「いるのか?」
  その声は予想されていたものだった。姿は見えずとも、声で分かる。
  エドワードがよちよち歩きをしていた頃からのご近所さんのロイの声。
「いるよ」
  本来ならば関係者以外立ち入り禁止の酒蔵だが、ことロイについては黙認されている。
  跡取り息子のエドワードの友人であるということと、ロイが無類の酒好きだということだ。
  その味覚はかなりなもので、ロイのもつ酒に対する知識も舌もこの家には恩恵をもたらすことばかりだった。
  近づいてくる人の気配を見下ろしながら待つ。
  ここに来るにはルートは一つしかない。先ほどエドワードが通った通路をロイも通る。エドワードが踊り場にいることを確認したのか、見上げて軽く手をあげるロイにコップを振って答えた。
  
  
  
「そろそろ今年の酒ができる頃かなと思って」
「……まだ早ええよ」
  踊り場に上がってきたロイは開口一番酒のことを口にする。呆れた顔をしたエドワードを華麗に無視して、手にしたビニール袋を掲げた。
「つまみを持ってきた」
「……酒はまだ出来てないって言わなかったっけ?」
「君が飲んでるのは何だね」
  つまり目当ては去年作って未だ醸成中の酒のようだ。
  まあ、いつものことだけど。
  ロイは幼馴染みといっても年は軽く十は離れている。今はどこだかの一流企業に勤めているようだがよく分からない。
  小さいときから、いじめっこから庇ってくれたりとか、(もちろん後ほど三倍返しにしたが)迷子になった俺を見つけてくれたりとか、熱が出た時に看病してくれたりとか、まあいろいろお世話にはなっているわけで……世話になりっぱなしなのが悔しいが、いかんせんこいつは見目良し頭よし運動神経よしなのでこちらが世話をする必要がない。
  昔は時々食事ぐらいは作りに行ってやってたものだが、数年前にやめた。
「でも、よく今日俺がここにいるのわかったな」
「通りかかったら、懐中電灯らしき灯りが見えたんでな。こんな時間にこんなところに来るのは君くらいだろう」
「まあ、そうだけど」
  酒の味や管理は蔵人たちがしているのでエドワードの仕事はとくにはない。手伝いくらいだ。
  将来的なことを考えて知識は教えられているけれど、別に夜中にこんなところで見張りしろとは言われてない。
  たんにエドワードが夜の酒倉の雰囲気とかにおいとかが好きなだけであって、そしてロイはそんなエドワードの性格をしっててときおりこうして訪れる。
「ほら」
  いきなり伸ばされてきた手には小さなコップが握られている。
  注げ、と強要されて呆れたが、苦笑しながら瓶の中の酒を移した。
「ほんとに日本酒好きだよなあんた」
「この蔵のはうまい」
「まあ、あんたの味は間違ってないけど」
  でも、いくら幼馴染みとはいえ、いい歳こいた大人が夜中酒倉に侵入して高校生と一緒に酒を飲むなんぞ、そうとう変わっていると思うのだ。タメ口聞いても怒らないし。
  エドワードにとっては年の離れた兄か従兄弟みたいな感覚だった。
  柵を背もたれにして、座り込む。床に瓶を置いて、ちびちびとコップに移した酒を嘗めつつ、頭上の窓の外を眺めた。
  四角く切り取られた窓から入る月の灯り。人工的な蛍光灯と違って柔らかくて暖かいような月の光のほうが好きで、エドワードは電気よりもこちらの光のほうを好む。
  隣に座り、酒を水のように次々とコップに注いでいる男はすでにご満悦のようだ。月明かりに光る横顔がどことなく高揚している。
「でもあんた、ちょうどいいところに来たよな」
「ん?」
  手を止めてこちらを向いた顔に軽く微笑んでやると、ロイがなぜか息が詰まったような顔をする。
「ほら、あれ」
  ちょっとだけ肩を引いて側に寄らせると、天井近くの窓を指さした。
「この時間帯になると、ちょうどあの窓から月が見えるんだ。それでさ」
  用意していた杯に酒をなみなみと注ぎ、そっと月明かりが降りてくる場所に翳す。
「この時間帯だけ、ここにいても酒に月が浮かぶんだぜ、綺麗だろ」
「…………」
  覗き込んだ男は、面白そうに水面に映る壊れそうな月を見て、それからエドワードを見た。
  月を見せるために寄り添うようにしていたので、ほんの数十センチの場所にロイの顔がある。
「とっておきなんだぜ、他の奴には内緒にしとけよ?」
  杜氏にも親父にも言ってないんだからな、と微笑めば、目の前の男の顔がすっと陰った。
「……? ロイ」
  喜んでくれるかと思ったのに、なぜか男は硬い表情でこちらを見ている。
「どうしたんだよ、気にくわねえ?」
  エドワードは首を傾げる。ロイの瞳には怒りは見えなかったが、微かな衝動と戸惑いがあった。月明かりがエドワードの黄金の細髪を照らして輝かせる。お酒に髪の毛が入ってしまいそうになり、視線を杯に移したら、その瞬間に手首を握られた。
  咄嗟のことで、手の中の杯が揺れ、酒が微かに零れる。
  ぱたぱたと床に染みができ、咽せるような酒の匂いが鼻孔を襲った。
「あーあ、零れたじゃねえかよ、なにして………、ロイ…?」
  顔を上げると、男はエドワードの手首を掴んだまま、どこか遠いところを見ているように瞳の色がおかしかった。
  熱に浮かされたような、寝起きのようなぼんやりとした表情が不思議で、エドワードは瞳を瞬かせる。
「なあ、どうし…………」
  調子でも悪いのかと聞こうとした言葉は、続きを発することが出来ずに、消えた。
  唇に感じる柔らかい感触。こじ開けられ、開いた隙間から侵入する吐息と舌。
「え……? あ、んん……?!」
  首の後ろに誰かの手が当たり、そのまま引き寄せられる。唇は相手の同じ物と密着しており、酒の匂いが喉の奥から鼻に通り抜けた。
  衝撃のあまり、手の力が抜け、杯が床に落ちる。服に酒の飛沫がかかるのも気にせずに男は身を乗り出してエドワードの唇を貪った。
  口腔をなぞられ、鎖骨を指が這って初めてエドワードはキスされているのだと気がつく。
  目の前の幼なじみの兄貴は何も言わず、ただエドワードの唇を甘噛みし、舌を絡めるばかりで、触れられた肌からぞくぞくと震えが来た。
「ん、あ……、や、やだ……っ!」
  なに、これ。
  あの、ロイが、いつも笑って俺の隣で兄みたいに可愛がってくれてたロイが、おかしくなった。
  目の前の人が、いきなり見知らぬ他人になったという錯覚が、エドワードに初めて体験する恐怖を齎す。
  怖い。誰、この人。知らない、こんな、人にキスするロイなんて――!
  お酒でびしゃびしゃになった手で必死で押し返すと、硬直していたエドワードの突然の抵抗は想定していなかったのか、あっさりロイの身体はよろけて離れた。
  やっと解放された唇が空気を求めて荒く息を吐く。本能的な恐怖に座ったまま数歩退いてしまうエドワードに視線を向けず、ロイは不安定な姿勢のまま俯いていた。
「な、なんだよ、今の」
「…………すまない」
  永遠にも思えそうな沈黙。喧しい鼓動を耐えながら待っていたエドワードには、全く解決にならない謝罪が返ってきた。
「謝れ、って言ってんじゃねえよ! なんでって聞いて」
「……薄暗闇の酒蔵で、窓からは月明かりが降り注いで君の髪を照らしていて、月の飛沫を浴びてた。杯に映った月を見せて、こちらに向かって微笑む姿があんまりにも綺麗で、可愛くて、たまらなくなった。それだけだ」
「……え?」
  言われている言葉が理解不能で、エドワードは馬鹿みたいに口を開けて問い返す。そんなエドワードを自嘲気味にロイは笑って見ていた。
「――馬鹿だな私は。何年もずっと隠し通してきたのに。一時の気の迷いで、数年の我慢がぱあだ。……こんなことなら、酒なんか飲みにくるんじゃなかった」
  嫌な荷物を抱えたような顔をして、髪を掻いた男が溜め息をつきながら立ち上がる。
「すまなかった」
「え? ちょ、ちょっと、ロイ……!」
  エドワードの呼びかけにも答えることはなく、男は立ち上がるとこちらも見ずに階段を下りる。その背中には触れると切れそうなほどの緊張感と拒絶が張り巡らされていて、エドワードはそれ以上何も言うことが出来なかった。
  結局、立て付けの悪いいつもの扉が開いて閉じる音がするまで、茫然と床にへたりこんでいただけだった。
  

(終わり)