30(連載中)
健全経営をしていた我が妓楼は一気に貧乏になった。
なんといっても儲けを次から次からハクロが持っていくのだ。余剰金というものがない。
壊れたふすまを治したりとか、ガタが来た離れを直そうとか思って積み立てていたお金がすっからかんになってしまった。
それでもみんなの給料とお客さんの値段だけは上げたくなくて、エドワードは毎月必死にそろばんを叩きながら金の工面を考える。
多分普通の人間ならもう赤字に耐えかねて人件費を節約しただろう。だけど彼女たちの仕事は、精神的にも肉体的にもストレスと疲労がはんぱじゃない。
客に惚れてしまって、正常に働けなくなる子もいる。
そういうリスクの多い仕事だからこそ、エドワードは普通の仕事より多めの給料をあげるのは当然だと思っていたし、たとえここにいる女性達が、どこにも行き場が無くてこの店にいるのだと分かっていても、いつか歳を取ってこの店を抜ける時に、当分困らないくらいのお金は与えたかった。
もともと女郎の命は短い。
女郎として生きていけるのは長くても十年くらいだ。その後は身請けして貰われていく人もいるし、このままこの店で雑用仕事に勤しむ人もいる。
嫌な相手が身請けを申し出てきた時に、断るためには女郎が一人で生活できる当面の金が必要だった。
ばあちゃんは、ずっと毎月積み立てをして、彼女たちが店を辞める時に退職金だといって多額の金を渡していた。
このお金があるから、この店の女性達は意に染まぬ相手の愛人にならずに一人で自立して生きていくことが出来たのだ。
この金だけは絶対に手をつけられるわけにはいかなくて、実は別の口座に入れてある。
当然ハクロはその事実を知らない。
(裏帳簿なんて、脱税する時のもんだと思ってたけどな……)
はは、と笑いながら、裏帳簿を引き出しの奥深くの三重扉の奥にしまって、エドワードは乾いた溜息を漏らす。
この金がばれたら終わりだった。
ハクロは馬鹿だから、帳簿を見てもきっと理解が出来ないと思うので、この隠し口座がばれることはないと思うが……
ただ、一つだけエドワードが懸念していることがある。
ハクロはたしかに馬鹿で、馬鹿だからこそ、最近エドワードが渡せる金が少なくなっている理由を理解できていない。
余剰金はもう使い切った、と言ってもそんなはずはない、どこかにあるだろう、の一点張りだ。だったら帳簿を見てみればいい、どこにもお金なんてないから、と言ってしまえばいいのだろうが、多分その時は一番支出の多い「人件費」に目をつけるだろう。そこだけは削られたくなかった。
「あー頭が痛い……」
最近、米神がきりきりと痛むのも、胃がしくしくと泣くのもきっとこのせいだ。
今までは思えば恵まれていたんだろう。やりたいように経営が出来ていたのだから。
ごはんも喉を通らなくなってくるほど疲れているのは初めてだった。
「兄さん、だいじょうぶ?」
眉の上をぐりぐりと押していたら、心配そうな弟がそっと腕に手を掛けてきた。
振り向くとまだまだ小さい弟が大きな瞳をくりくりとさせて、こちらを見上げている。今にも泣きそうなかわいい弟を抱きしめて、エドワードは大丈夫、と繰り返した。
リリー姉ちゃんが、身請けされることになった。
――訂正、嫁に行くことになった。
まだまだ仕事を辞めるには早い年齢なのだが、どうやら常連の一人が他の国に行くことになったらしく、着いてきてくれとプロポーズしたらしい。
愛人なら許さねえ、と息巻いた俺達だが、なんか相手は真剣らしく、本気で嫁に貰いたいみたいだった。
その常連客は性格もよく、リリー姉ちゃんも気に入っていたから、普通ならここでおめでとうということになって退職金を渡して、みんなで盛大に見送るのだが……。
―――今回はそうはいかなかった。
「なんでまだ稼げる女郎を身請けなんかさせるんだ!」
結婚の話を聞いたハクロはそう息巻いて怒鳴りあげた。
「リリーは稼ぎがいい女だろうが! もったいない! やるならあと五年経ってから、いや三年でもいい。今が一番稼げるんだ! 人にやるなどあいならん!」
「でもきちんと身請けの金も出すと言ってますよ?」
「こんなはした金、これからリリーが五年で稼ぎ出す金に到底及ばないじゃないか」
渡した誓約書を机の上に放り投げ、ハクロは唾を吐き出した。
「渡すならこの二倍の金は用意してくれないと困る。こっちだって売れっ子を放出するんだ。なにかメリットくらいいるだろう」
「…………」
エドワードは、またもや襲ってきた頭痛を堪えるように唇を噛む。
メリットとかいうけど、結局金が惜しいだけだろお前、と口まで出かかった。
二倍の金なんて無理だ。
今回リリー姉ちゃんの身請けのために、あのお客さんはかなりの額を用意してくれた。軍人で金持ちのハクロにしてみればはした金に見えるかもしれないが、一般市民のあの人にとっては多額だ。これ以上を出せというなら、この縁談は壊れる。
頭が痛い。
いろいろと口で言い負かす方法は、あのおっさんに教えて貰ったはずなのに、何故かぐらぐらと頭が揺れていい言葉が出なかった。
「ですけど、あと五年間、今みたいにリリーが稼げるかどうかなんて分かりませんよ。今稼げてるからって来年どうなってるかなんて、こういうのは水物ですから」
「おまえはいつも、ですが、とかだって、否定しかしないな」
「……そんなつもりじゃ」
ぎく、と心臓が一瞬嫌な音を立てる。だってあんたがろくでもないことばっかり言うからであって、お前がもう少し有能なら俺だってはい、かわかりました、しかいわねえよ。
ついでに腹までしくしくと痛み出した。余計なことばっかりこいつが言うからだ、くそう。
「もういい。とりあえず相手の男にこの金額では承伏できない、と言え。今の1.5倍はいる、とな」
「…………」
「だいたい女郎の身請けの相場っていくらなんだ?そういえば。この金額は高いのか安いのか?…………おい、聞いてるのか?」
「…………」
聞いてる、つもりだが、なんだか頭が痛かった。
目の前にいるハクロの顔が見えない。水の中から空を見ているように視界がぼやけて足がふらついた。
おかしいな。声が聞こえるのに、何を言っているか分からない。
視界がぐるぐると廻って、どこが床か分からなくなった。
ハクロの少し焦った声がする。ふらりと傾いだ身体を硬い腕が受け止めて、自分が気を失いかけていることに気がついた。
服に埋まった鼻孔に感じる匂いは、昔時々嗅いでいた硝煙と焔の匂い。
軍人の匂いだ。
思わず目の前の腕を掴んだ。朧気な意識は、ずっと待ち望んでいた人の姿を浮かび上がらせ、違う、と訴える理性は体力の消耗と共に奥深くに沈んでいる。
(かえってきた……?)
まさか、そんなわけない。
――でも、これはあいつがこの店に来る度に纏わせていた懐かしい匂いだ。
ここ数年、意識したことなど、なかった、の、に――
完全に記憶を飛ばす刹那まで、エドワードは結局自分を抱き留めた男が誰かを、思い出すことができなかった。
(終わり)
