黒の祭壇

黒の祭壇

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19(連載中)

 一時間後に来てくれた迎えの人達には帰ってもらった。
 こんな状況で、店を出てなどいけるわけがない。
 女の子達は、呆然とする者、泣き崩れる者、いろいろで、唯一しゃっきりと立っていたのは現在この店でNo1のアンナだけだった。
 遺体にすがり付いて泣くお姉さんの背中を撫でているその姿をぼんやりと見つめていると、母親が死んだときを思い出した。
 あの時も、赤ん坊だった弟と二人残されて、どうしようかと途方に暮れた。
 泣いてる暇なんてなくて、欲しいのは今日のご飯と弟のミルクだった。
 泣くのはいつでもできるけど、食事は後回しに出来ない。
 楼主がいなければ、この店だってどうにかなるかわからないのだ。

 よろよろと近寄って、目を閉じたばっちゃんの頬に触れる。
 布団に横たわったままの姿は、まるでただ眠っているだけのようにも見えるのに、でも触れると固く、冷たかった。
 あれ?
 おかしいな、だって昨日は元気だったじゃないか。
 
 人の死は数え切れないくらい見てきた。
 だから今更、こんなの、今更なのに。
「何回経験しても慣れないなぁ……」
 皺がれたばっちゃんの手をそっと握って苦笑すれば、煙草を吹かしていたアンナ姉ちゃんが小さく舌打ちをする。
「その歳でそんな台詞吐くもんじゃないわよ」
「……」
 言葉に籠もった幽かな哀切が嬉しい。ここの人たちはみんな俺とアルに優しかった。
 他の人たちみたいに泣き出すことは簡単だった。けれど、なぜか涙が出ない。心にぽっかりと穴が開いて、気持ちがそこからびゅうびゅうと抜けていく。空っぽだ。
 ただ、手だけが小さく震えて止まらない。
 
 ……ばっちゃん。ばっちゃんが拾ってくれなければ、俺達今頃ばっちゃんより先に死んでた。
 最近調子が悪いことは知ってたし、高齢だから覚悟はしてた。それは俺だけじゃなくてみんなそうだったろう。
 だけど、いくら心の準備をすれば、まだ早い、と思わなくなるんだろうか。
 ――――同じだ、きっと。
 十年、二十年準備をしても、やっぱり思う。「まだ早い」って。
 苦しんだ相ではなかった。だからきっと眠るように死んだのだろう。よかった、と思うと同時に、誰も看取れなかったことが悔しい。
 涙が出ないのに、喉が枯れて声が出ない。呼びかけて、きっと答えは返ってこない。

『まったくもう、エド! 睡眠不足で仕事をするなっていっただろう!』
 ちょっと夜更かしした次の日に、そう怒鳴って箒でお尻を叩かれた。
 いいじゃねえかちょっとぐらい、とつい反射的に返してしまってますます叱られて。
 でもばっちゃんは、叱ってくれたけど、怒らなかった。今まで俺の近くにいた人は怒ってばかりで叱ってはくれなかった。

 ……ありがとう、って言えばよかった。

 拾ってくれてありがとう。叱ってくれてありがとう、育ててくれてありがとう。大好きだったんだ、って。
 ――――なんで、言わなかったんだろう。
 無理矢理追い出される理由だって、どうせ俺のこと考えてだって分かってたのに、出て行くのが嫌で嫌で、ここ数日話もしなかった。
 散々分かってたはずなのに。今日生きてる人が、明日もいるかどうか分からない、なんて。
 あのおっさんがいなくなった時に、あれだけ後悔したじゃないか。
 ……なのに俺、どうしてこんなに馬鹿なのかな。



 ひとしきり泣けない涙を流して、はたと気がついたら、胸の空洞がいつのまにか広がっていた。
 さっきから、哀しくて動けなくなりそうなのに、いい知れない焦燥感と不安が頭にこびり付いて離れない。
 どうしてだろう。ここにいてはいけないと声がする。
 周りには茫然と泣きはらすお姉さん達。座って遊んでいるよくわかっていなさそうなアルフォンス。いらいらと、頭を掻いているアンナ姉ちゃん。
 一番奇妙なアンナ姉ちゃんをついじーっと眺めていたら、視線に気がついたのか、姉ちゃんはこちらを見て溜息をついた。
「なあ、エド……どうしようかね、これから」
「………これ、から…?」
「お葬式とか。私らがやるのかな」
 現実的だからこそ言いにくいのか、姉ちゃんはあまり聞こえないようにぽつぽつと言った。
 空っぽだった胸に、一つの気持ちが宿る。
 ――そうだ、これから、どうしよう……。この店は、どうなる?
 そんなことも気がつかなかった自分に愕然とした。ピナコばっちゃんを失うことで、どれだけ大きな虚を作り出していたのか、今になってやっと気がつく。
 
 
『いいかね、人には戸籍というものがあって、死んだら役所に届けないといけない』
『お葬式をするときは、まず作法というものがあってね』
『この店の経営権は今は楼主だが、その後どうなっているかは分からない。彼女になにかあった時は』
「……………」
 唐突に、印のついた引出しからずるずると情報が引き出されてくる。あいつの声つきで。
『知識は武器だ。愛想は盾だ。君の頭脳なら、両方うまく使いこなせる。どういうときになにをすればいいか、その判断を間違えるな』

「……ああ、わかった」
 悲しみで霞んでいた視界がさっと晴れる。
 そういうことなのか。俺がさっきから、剥がそうとしても剥がれてくれなかった不安の正体は、これだったのだ。
「姉ちゃん、玄関閉めて。誰が入ってくるか分からない。札は臨時休業とか下げとけばいいから」
「え? あ、う。うん」
 壁にもたれかかってぼんやりとしていた、一番近い場所にいた女性の肩を揺さぶって頼む。
 疲れ果て、気力を失っていた彼女にしてみれば、なんでもいいから気を紛らわす仕事を与えられたことが嬉しかったのか、立ち上がって、ぱたぱたと玄関に消えていった。
「お医者さんに死亡診断書書いてもらったのか?」
「え、ええ……たぶん…」
「お医者さんが来たなら書かずに帰るわけないから誰かが持ってるかどこかにおいてあると思う、探しといて。後、部屋片付けよう、これから人がたくさんくるだろうし」
「あ、う、うんわかった」
 呆然としていた女性達が一人一人と立ち上がる。さっきまで、彼女達はどうすればいいか分からずにただ泣いていた。
 指示を貰うことに慣れていて、自分達では何をすればいいかわかっていなかった。
 いまだ混乱している意識では、自分の脳は自発的に回転しない。誰かに指示を貰うことで、止まった脳がやっと緩やかに回転し始めたのだ。
 
 なんでもいいから、なにかをして、頭を空っぽにしないと壊れてしまいそう。
 だけど何をすればいいか分からない。
 だからこそ、強制的に仕事を割り振るエドワードの言葉が頼もしくもあり、嬉しかったのだろう。
 私は何をすればいいの、と聞いてくる彼女達に一つ一つ丁寧に仕事を頼む。一人には頼みすぎない、あくまでも一人に一つ。複雑なことを覚えられるほど、彼女たちはまだ立ち直っていない。
 鼻をすすりながらも頷いて立ち上がる彼女達に言った。

「まず、立とう。立たないと、なにもできない」

 こくりと頷く少女達の手首は細く、震えていた。

「アル」
「なに? お兄ちゃん」
 小さい弟はまだよく分かっていないらしい。きょとんとしてさっきからずっと後ろで座っていた。
「お姉さん達の手を握ってやって」
「……うん」
 どうして、とは聞かなかった。聡い弟はまだふくふくと柔らかく丸い手を伸ばして、ぎゅう、と女性の手を握る。
 一瞬見えた柔らかい泣き笑いに安堵して、エドワードは部屋を出た。

(終わり)