200606
戦場では久しぶりの顔をたくさん見た。
中央で会ったときには穏やかな顔をしていたそれらの人物は一人残らず己と同じ目に変貌していた。
自分の目の変貌に気がついたのも、親友に指摘されてのことだったが。
見たこともない町には、見たことがない人間がたくさん隠れ住んでいる。
人の手で作られた石作りの町並みは、自分達が住むアメストリスの町と大差ない。よって住んでいる人間も多分肌の色以外は特に大差がないはずだ。
それを殲滅しろと言われて、ロイはこの町の前に立っている。
己の武器はこの手一つだけ。
指を鳴らせば相手は塵になり、 凶器の焔はあくまでも生み出す本人には逆らわない。奪うのは敵の命のみ。
炎の渦の中で一人、微動だにせず立ちつくす自分に向かってこれる者はそういない。全身を火傷に侵されながらそれを超えてやってくる者は鷹の目が打ち落とす。
完璧なまでに防御されている自分に対して、相手はその身体一つしか武器がない。もとより、こちらの勝ちは圧倒的で、今更殲滅する必要など無いのだ。
すでに廃墟になってしまったそこに平然と立っているのは自分一人。後は死を怯えて待つ女子供と、それでも立ち向かおうとナイフを握り締める男達が数人。
すぐに、原形を留めた形で動くのはロイだけになるはずだ。
イシュヴァールの民は戦うことをやめない。
最後の一人になるまで殲滅して帰れ、と命令を下されたからには己以外の人間がこの地に立っていることを上層部は許すまい。
「……人じゃねえよ!」
そう言い捨てて向かってくる男に手を鳴らした。
即座に黒こげになる男にひるみもせずにもう一人の男が突進してくる。
……無駄なのに。
だがその無駄だと分かっていても進む姿勢を、本当は羨ましく思っている。尊敬だってしているのだ。
だが、だからこそ殺さなければならない。
人じゃない。当たり前だ。私は兵器だと、上が太鼓判を押したのだ。
兵器は無表情に人を殺すように出来ている。
再度指を摺り合わせる。
火花が散り、それは数秒の猶予を持って、向かう男の身体に絡みつく。
もう一人一人殺すのが面倒くさくなった。嫌な思いは一度でいい。爆発させて消してしまおうかと考える。
そういう調整をしながら指を擦ろうとして――――――――――嫌な悪寒に手を止めた。
突如、一面に空気を震わす轟音と、舞う砂埃がロイの視界を奪う。
「――――――――――っ!」
戦場で目を瞑るのは自殺行為、と腕で瞳をかばいながら、前を見た。
警戒度は突如MAX。
己の援軍が来るとは思えない。ここは私の戦場だ。そもそも援軍が必要なのはあちらであってこちらではない。だとすればここに現れた何かは少なくとも敵だと本能が叫ぶ。
予想通り即座に空間めがけて、一本の見えない刃が飛んでくる。
視界にいれる前にその方向目がけて焔を爆発させた。
なんだったか分からない物がその衝撃に破片になって落ちてくる。
次弾に備えるが、予想に反してそれはなかった。
埃がうっすらと晴れていき、空がやっとその姿を現し始める。
どこから現れたのか、目の前にはこの赤い戦場に負けないほどの朱色に濡れた小さな少年が立っていた。
「ずいぶんと楽しそうなことしてるな、大佐」
大佐?
年の頃十二くらいの少年は、この戦場に似合わぬ豪奢な金髪を後で三つ編みにして、赤いコートを羽織っている。
ばたばたとなびくその背に書かれた蛇を見て、この子供が錬金術師であると分かった。 いや、…知っている。
自分はこの子を、知っている。
潰したはずの、置いてきたはずの何かがめりめりと拘束を破り始める。
それは、戦場ではけして持ってはいけないものだ。
子供は左手を背後の壁について、無表情にこちらを眺める。
さきほどまで震えていたイシュヴァールの民は、この子供の作ったのであろう壁を壊さないと多分殺せない。
――――――――――殺さなくて、いいのだ。
それにほっとしている自分と、相変わらず立ちつくす子供。
金の瞳は、自分達と違った。
この子の目は、まだ人殺しの目じゃない。
目が霞んだ。よかった、と思ったのだ。
狂いかけた心が平静に戻ってくる感じがする。ああ、まだ自分はこの子を守れている。己と同じ瞳にしないですんでいる。大切な恩師の娘までも、自分と同じところに来てしまった。それでもまだ、全てが手遅れではないと、それが分かったことが泣きたくなるほど嬉しい。
「鋼の」
無意識に名前が出る。とても馴染んだ名前だと思った。鋼の、と私が呼ぶ君は誰だろう。
置いてきた女性の手紙に喜ぶ親友。置いてきたから、あんなに喜んでいられるのだ。
大切な者を、こんなところに連れてこないですんだからだ。
「あんたが、あくまでもこの人達を殺すなら、俺を殺してから行けよ」
「――――――――――」
くら、と意識が暴走した。
彼の瞳に甘さはなく、こんなことをしたロイを軽蔑するように見つめている。
先ほどまでの安堵は消え、煉獄の中にいるのかと思うほど、身が凍えた。
パン、と彼の手が合わされ、鋼の腕が剣になる。
「……殺し合おうか、大佐」
「……はがねの」
瞬時に、少年の瞳が変化した。
もっともロイの厭う、一番見たくなかったその瞳。さっきまで太陽のごとき金色だったそれが、今は自分と同じ色になっていた。
――――――――――間違えていた。
すべては手遅れだった。
……この子を。敵だと認定しなければいけない。
己と同じ位置にいる者だと、理解しなければいけない。
始めて怖いと思った。
自分が守る者が何一つ無くなってしまった、そしてそれは己に牙を剥こうとしていて。
絶望は、ロイの愛する者の姿をして、微笑んだ。
――――――――――ああ、殺される。
絶対的に、殺される。
いや、私が殺してしまうのだろうかこの子を。
私を殺せばこの少年は本当に私と同じ目になってしまう。私が殺してしまったら、私が本当に精神まで死んでしまう。
ロイが守ろうとしたものはもうどこにもいなかった。
人を殺した者は、二度と元には戻れない。
消えてしまったのだ。永遠に。
ロイが代わりにいくらでも受けようと思っていた銃弾が、たった一つだけ彼に当たった。それだけでもう闇は少年を浸食して、兵器にしてしまう。
殺し合いになんか、なるものか。君に人を殺させたくないと願っていた私が、たとえその相手が私でも、彼を人殺しなんかにさせるわけがない。
――――――――――だったら。
その前に、彼を消してしまうしか。
「……っさ、大佐、大佐!」
ゆさゆさと、染み通る声が響いてくる。ついでに身体も揺らされて、意識はそこで立ち直った。
目を開ければ、心配げな顔が上から覗き込んでいて。
その金色に酔った。
髪は下ろされていて、まだまだ少年というよりは性別不詳の天使みたいだ。そういえば昔、旅の剣士が行き倒れて天使に起こされるというロマンス映画を見に行ったな、と思い出す。その時の相手の女性は誰だったか。もう思い出せない。
思わず髪の毛の間に指を滑り込ませて、その感触を確認する。
「なんか、うなされてたぞ」
「そうか」
「病気かと思った」
はあ、と安堵の溜息が頬にかかる。それだけで胸は馬鹿みたいに躍って、熱が篭もった。
「なんだか、とても怖い夢を見た」
「ふーん」
「思い出せないんだ。なんだったんだろう。でも多分私がこの世でもっとも恐れている事だった気がする」
その証拠に、顔は汗ばんでいて、シャツの背中もびっしょりだ。
ただ横になっていただけの筈なのに、未だに胸は鼓動を収めてくれない。
「隕石でも落ちて、世界でも滅びる?」
そんな汗まみれの額に、鋼のが躊躇せずキスをする。
「ああ、なんかそっちの方がマシだな、と思う夢だった気がする」
「忘れろ忘れろ」
髪に廻した腕ごと取り上げられると、ぽふんと隣で横になる子供。
左腕を枕にして、本当の枕はどこかよそへ押しやった。
……なんだか。
鼓動は収まり、悪い夢が思い出せなくなっているのはきっと防衛本能。
「理由は不明だが」
「ん?」
さらさらの髪を弄ぼうにも、腕は枕にされていて、何もできない。細い糸の感触は、腕の触覚に頑張って知覚して貰うしかない。
「君と、年が離れていて良かったな、と今唐突に思うんだが」
「ひょっとしてあんた、やっぱり少年趣味」
だから十四も下の子供に手を出した訳か、と言われて慌てた。
「違うよ、なんだろう…もう少し君が早く産まれていて、君たちのあの行動がもう数年早かったらとりかえしのつかないことになっていたような気が」
思い出せない夢が現実になって襲ってくるような鷲づかみの恐怖。
「忘れろ忘れろ」
先ほどと同じ台詞を吐いて、今度こそ鋼のが目を閉じる。
「……そうだね」
仮定の恐怖に怯えても、無駄な感情だ。
でもその仮定は、いつだって現実になりかねないのだと無意識が言っている。
それこそ中央司令部の男が、一つの書類に判を押すだけ。そんな簡単なことで、自分達の人生は完全に狂わされる。
薄氷の上の幸福。この腕の中の存在も、気を抜けばあっさり氷の下に落ちてしまうのかもしれない。
すでにすうすう寝息を立ててしまった子供にそれ以上のことは出来なくて、ロイは目を閉じた。
規則正しい吐息を側で聞くことだけが、多分己の心を癒すのだ。
さっきの夢で持って行かれた身体の一部は、この存在でしか修復できないのだろう。
腕に閉じこめれば少しは治療速度が上がるだろうかと考えてそうしてみる。
「う……ん」
少年はすこし身じろぎだけして、こてんと胸に頭を落とした。
喉になにかの昂ぶりが登ってきて、ロイの脳を数秒止める。
薬はいつだって、この腕の中で。
側に置いておきたいのは、当然の話。
唐突に、悟る。
先ほど見た夢は、多分戦場の夢だったのだと。
あそこには、こんな薬なんか無かった。治療もされず、傷ばかりが増えた。
でもあの戦場にこの子が立つことはきっと、ロイにとっては毒薬でしかなかったのだ。
(終わり)
