黒の祭壇

黒の祭壇

> TEXT > ロイエド > 短編 > 記憶レコード > 2

2

 執務室の前で時計を見ると、イーストシティを出る汽車は一時間後だった。
 いつもはしやしないノックなどをして扉を開けるところを見ると、どうやら俺はまだ緊張しているらしい。
「大佐、いる?」
 いるのは分かっているくせにそんなことを言いながら中に入れば、椅子に座り頬杖をついて書類を眺めていたロイが、視線を絡めてきた。
「鋼の。どうしたんだね」
「今日立つから、一応挨拶だけしておこうかと」
「…めずらしいこともあるものだね」
 いつもは連絡もなくさっさと行くくせに、と笑いながらロイは手にした書類を机に置くと、立ち上がった。
 ゆっくりと近寄ってくる男には昨日のようなぼんやりとした表情はどこにもない。

「やっぱり、昨日のことは思い出せねえ?」
「ああ、毎度のことだが全く。一度も思い出せたことがないな。気持ちが悪いよ」
「…あんた、ストレスためすぎなんだと思うぜ」

 昨日。
 男はやはり30分後にきっかり元に戻り、案の定エドワードが言っていたことは綺麗さっぱり忘れていた。
 30分して、目の前にいるエドワードに「いつ来たんだ」と目を丸くして言っていた。それを望んで告げた言葉なのに、少しだけ心臓が鳴ったが、殴って誤魔化した。

 でも、今日になってこいつの顔を見るとやっぱり忘れてくれてよかったと思う。
 おかげで数ヶ月前からずっとエドワードの胸にしんしんと降り積もっていた雪みたいな恋情はある程度は溶けてくれた。
 このまま、また数ヶ月経って記憶を失った大佐に遭遇したら、また溜まった雪を溶かして貰おう。

「……鋼の」
 目の前にまで男が近づいてきたので、無性に怖くて顔が見れなくなる。
「じゃあ、俺行くから」
 だから何気ない素振りで視線を逸らして、背中を向けた。
 困った。思った以上に恥ずかしい。
 男が覚えていないのは分かっているのに、こんなに。
「待ちなさい、君、本当に挨拶しに来ただけなのかね」
「ほかになにがあるんだよ、アルが駅で待って………」
 るし。もう行く。
 ――――――――――と、言おうとしたのに頭が驚いて言葉を喪失してしまった。
 背中から伸びてきた腕が、出口に向かうエドワードを拘束する。
 そのままぐい、と引き寄せられて、ぽすん、と大佐の胸にもたれかかった。

「え……」

 背中から抱きしめられているのはさすがに分かる。目の前にある扉は先ほどより少し遠くにあって、自分の三つ編みが男の軍服に絡まっている感覚は読み取れる。
 腰に回った手は組み合わされて、完全に囲いの中のエドワードの頭の上には男の顔があるようだ。
「……………」
 ぎゃあとかわあ、とか、そんでもって暴れるとかいろいろ方法はある気がするのだが、どんどんと白くなっていく頭がその行動を決定する脳の部分を消失させていく。
 結局、時計の音だけが響く執務室で、エドワードは情けないことに大佐に抱きしめられたまま茫然としていた。

「たい、さ……?」
「――――――――――昨日の言葉は本当かね」
「……へ?」

 身体が動かない。
 石化の呪文を唱えられた勇者みたいだ。
 心臓が止まったなと思ったのに、さぼっていたのを誤魔化すようにか、心臓は又加速度的に動き始めた。

「好きだと言っただろう。本当か?」
「…………」

 本当か、以前に。
 もう一つ巨大すぎる問題がその前に鎮座している気がするのだが。


 何で知ってるんだ?
 なんで?
 昨日、あの後の男は通常通りで、本当になにも覚えていなかった。
 エドワードがいつ来たのか分からなくて不思議そうに目を瞬いていたあの表情は演技ではあり得ない。
 そして今までただの一度も、男があの間のことを覚えていたことなど、ないのだ。

 だって、だから。
 だからこそ、あんな恥ずかしい告白が出来たのに。

 だが、男が昨日の告白のことを言っているのは事実で。それに気がついた瞬間に、視界が歪んだ。
「な……、なん、で…」
 それだけを言うのがやっとのエドワードの態度に真実をくみ取ってしまった男はますます強く抱きしめてくる。
「やっぱり、そうか。空耳かと思った」
「な、な、――――――――――覚えて…っ!」
 顔が見えない体勢が嫌で暴れるが、男はさすがによく分かっている。
 手を離せば、エドワードが逃げると知っていた。

「覚えてないよ」
「は?」
「覚えていない。ああ、もったいないことをした。どうして覚えていないんだろう」
「………っ!」
 そのまま頬に男の顔が降りてきた。

 言ってることが分からない。
 男は覚えていないというけれど、覚えてなければ何故。ひょっとして誰かが聞いていた?
 そんなはずはない。部屋には誰も居なかったし、扉に鍵は掛けていた。
 盗聴器が仕掛けられてるなんてことは、あの部屋に限ってあり得ない。
 理由が分からないが故に泣きそうになって、エドワードの思考は絡み合う。
 覚えていないからいいやと思って、茫然としている大佐にとつとつと自分の恥ずかしい恋情を喋った気がする。
 何を言ったっけ?…………いやだ、思い出したくない。
 これは忘れるべき事柄だろう。いっそ俺の方こそ記憶喪失にならないだろうか。

「記憶を失っている間のことは思い出せないから、最近は私がああなった時は、中尉に部屋に録音機をしかけてもらうことにしているんだ」
「……………」
「三時間程度のことだし。後でそれを聞いて自分が何をしていたのかを思い出せないまでも知るのだがね。まさかね、あんな」
「………」

 声が出ない。
 頭の中には白しかない。

「ろくお、ん…?」
「巻き戻して何度も聞いたが、どう考えても愛の告白で」
「――――――――――っ!」

 言葉にされると一気に正気に戻った。
 弾かれたように抵抗を始める身体をロイは腕一本で押さえつける。

「空耳かと思った。自分の願望が幻聴まで録音したのかと」
「は、離せよ……っ!」
「ああ、もう汽車の時間まで二十分しかないね」

 エドワードの懇願をあっさり聞き流した男は、平然と壁の時計を見ている。
「アルフォンスには明日まで滞在することにしたから、と電話しなさい」
「え、な、なんで」
 思わず動きを止めて見上げれば、視界に映る大佐の顔は計算高く微笑んで見えた。

 ――――――――――知ってる。
 この笑みは、大佐がテロリストにトドメを差す直前の勝利を確信した時の顔だ。
 笑って指を鳴らす前の顔。

「君の告白は三十秒でもね」
「あ」
 唇が重ねられる。
 すぐにそれは離れたのに、意識は一瞬にして持って行かれた。

「私の告白は一晩かかるから」

 大佐の微笑みは蕩けそうに甘かったけれど、血の気が引くのは何故だろう。
 抱きしめられているけれど、その抱擁はまるで鷹の爪で獲物を掴んでいるみたい。
 逃げようとしたら、血が吹き出るだけの気がする。

 なんで大佐の病気は伝染性じゃないんだろうか。今だけでいいから記憶を失えればいいのにと、降りてくる唇を何とか避けながらエドワードはいない神様に祈った。 

(終わり)